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愛していなかったのに私が死んで泣いたのは、失ったものの大きさに気づいたからでしょう  作者: 九葉(くずは)


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第2話 蜂蜜壺の蓋

朝の食卓に、パンが塊のまま置かれていた。


何年も、毎朝同じ光景を見ているはずだった。けれどアルベルトがそれを異常だと認識したのは、昨夜の夜会の後だ。クレスティン家の令嬢に声をかけた。目元が似ていた。誰に似ているのか、分かっている。分かっていて、名前を口にできない。


食卓の椅子に座る。向かいの席は空だ。妻が死んでからずっと空いている。誰もそこに座らない。座る人間を、自分が呼ばなかったからだ。


蜂蜜壺が目に入った。陶器の、小さな壺。蓋が閉まっている。


「ハンナ、この蜂蜜壺の蓋は、いつから閉まっていた」


老使用人は一瞬、手を止めた。銀の盆を持ったまま、主人の問いを受け止めるのに数秒かかる。


「奥様がお亡くなりになった日からでございます」


あの日からずっと、蓋は閉まったままだった。


リーリアが生きていた頃を思い返す。朝、食卓につくと、パンは切り分けられ、蜂蜜壺の蓋は開いていて、銀の匙が壺の横に添えてある。それが当然だった。リーリアが何時に起きてそれを用意していたのか、考えたことがなかった。夫より先に台所へ降り、前日のうちに指示しておいた朝食の仕上がりを確認し、パンを人数分に切り分ける。蜂蜜壺の蓋を開ける。匙を添える。そのすべてを妻がやっていたことを、アルベルトは蓋が閉まって初めて知った。


パンの塊に手を伸ばし、自分で千切る。不格好な断面。リーリアが切ったパンはいつも同じ厚さで、蜂蜜を塗るのにちょうどいい幅だった。


蜂蜜壺の蓋を自分で開ける。蓋は固い。陶器の縁に蜜が固まっていて、力を入れないと動かない。リーリアの細い指でこれを毎朝開けていたのかと思うと、手の中の蓋が急に重くなる。


台所の壁に、白い紙が掛かっている。献立表だ。


「ハンナ。あの献立表は」


「奥様がお書きになっていたものでございます。お亡くなりになって以来、どなたも」


白紙のまま、ずっと。紙の端が乾いて丸まっている。リーリアが生きていた頃、あの紙には毎日、細かな文字で献立が記されていた。月曜は豆のスープ、火曜は焼いた川魚。来客のある日は品数が増え、客の好みに合わせて味付けが変わる。その情報をリーリアがどこから集めていたのか。聞いたことがなかった。一度も。


昨夜の夜会を思い返す。壁際に立っていた自分に、誰も話しかけなかった。以前は違う。社交の場では必ず誰かが挨拶に来て、話が弾み、次の招待につながった。それはリーリアが事前に手配していたからだ。招待状の文面を家の格に合わせて整え、封蝋の押し方ひとつまで管理し、座席の配置を考え、贈答品を選んでいた。


その妻がいなくなってから。招待状の文面が変わったことで噂が立ち、訪ねてくる客は減り、使用人も少しずつ去っていった。最初に辞めたのは庭師で、次に洗濯女。どちらも目立たない仕事をしていた者たちだ。いなくなって初めて庭の薔薇が枯れ始め、シーツの糊が利かなくなったことに気づく。リーリアがいた頃は、そんなことは起きなかった。使用人の配置も仕事の割り振りも、妻が管理していたからだ。


食事を終えて立ち上がるとき、向かいの椅子が目に入った。妻が座っていた椅子。座面の布が少し擦り切れている。リーリアが最後に座った日から、誰もそこに触れていない。椅子を引く人がいないから、埃が薄く積もっている。


アルベルトは妻の部屋に向かった。


妻が亡くなってから、ほとんど開けていない扉。埃が積もっている。掃除をする使用人はいるが、この部屋を掃除するよう指示する人間がいない。指示を出していたのもリーリアだ。


机の引き出しに、小さな革表紙の冊子があった。


日記だ。


リーリアの筆跡は、きちんとした、けれど飾りのない文字だった。帳簿に慣れた人間が書く字。最初の頁を開く。指先が少し震えている。日付は結婚した年の冬。


「今日、夫に愛していないと言われた。知っていた。政略結婚だ。けれど言葉にされると、胸の真ん中が冷たくなる」


次の頁。


「今日も、愛していないと言われた。けれど明日も、この家のために働く。蜂蜜壺の蓋を開ける。献立を書く。招待状の文面を整える。それが私の仕事だから」


仕事、とリーリアは書いていた。愛とは呼んでいない。呼ぶことを禁じたのは自分だ。「期待するな」と。あの初夜の宣告が、妻の言葉の選び方まで変えていた。


頁を進める。日付が飛ぶ。季節が変わる。


「来客の根回しを終えた。座席は、伯爵の隣に商会の長を配置した。話が弾むはず。伯爵はきっと気づかない」


きっと気づかない。その予測は正しかった。アルベルトはあの夜会で商会の長と親しく話し、取引が一つまとまったことを覚えている。妻が隣に配置したからだとは、一度も考えなかった。


「庭師が辞めたいと言っている。給金を上げた。私の裁量でできる範囲で」


「体が重い。けれど客間の蝋燭を蜜蝋に替えておかなければ。獣脂では匂いが残る」


「伯爵は今日も書斎から出てこなかった。食卓にはパンと蜂蜜壺だけ用意した。蓋を開けておく。明日も開ける。明後日も」


「領民のミュラーさんが種籾の前借りに来た。台帳はつけていない。頭の中で管理する。伯爵に報告する必要もないだろう。聞かれないのだから」


何頁も何頁も、同じ温度で書かれている。怒りはない。恨みもない。ただ事実の記録と、小さな、消えかけた祈りのようなものが行間に漂っている。


最後の日付は、リーリアが倒れる前日のものだ。


「明日、倒れるかもしれない。体が重い。けれどお客様の手配がある。座席表をハンナに渡しておかなければ」


ここで日記は終わっている。


アルベルトは冊子を閉じた。閉じた手が震えている。


あの食卓で、毎朝、蓋の開いた蜂蜜壺を見ていた。パンは切り分けられていた。献立は毎日変わる。来客の席では話が弾んだ。庭の薔薇は咲いていた。シーツには糊が利いている。


そのすべてが、一人の女の手で回されていた。


当然だと思っていた。一度も礼を言わない。愛していない、とだけ繰り返す日々。妻は文句を言わない女だった。沈黙を不満がないのだと解釈する。違う。不満がないのではなく、言っても届かないと諦めていただけだ。日記がそう教えている。


食卓に戻る。蜂蜜壺の蓋は、さきほど自分が開けたまま。中の蜜は乾きかけていて、匙を入れても滑らかには掬えない。長い間ほとんど使われなかった壺の中で、蜜が琥珀色に固まりかけていた。


妻が死んでから誰も開けなかった蓋を、自分もまた開けなかったのだと、アルベルトはようやく気づいた。

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