第1話 再会の夜
涙の跡があった。何年も経つのに。
夜会の広間は蝋燭の光で満ちていた。銀のグラスが触れ合う澄んだ音が途切れず、壁沿いに並ぶ蜜蝋の蝋燭が客人たちの宝石を照り返している。広間全体がゆっくりと揺れて見えた。ソフィアは侯爵家の次女として父の隣に立ち、十七歳の初めてのシーズンに、社交の場を眺めていた。
あちこちから視線が来る。品定めの目だ。クレスティン侯爵家の次女。教養があると聞いている。控えめだが実務に明るいらしい。あの歳で家の書類を手伝っているそうだ。それらの噂がどこから流れているかをソフィアは知っていたが、気にはしなかった。
その視線の束を掻き分けるように、ソフィアは一人の男を見つけた。
アルベルト・ヴェルトハイム伯爵。
広間の壁際に、一人で立っていた。グラスを手にしたまま、中身は減っていない。周囲に人がいない。以前はそうではなかった。少なくとも、リーリアが生きていた頃は。来客があればリーリアが事前に相手方の家令へ連絡を入れ、話題を用意し、座席の隣に気の合う相手を配置した。社交の場でアルベルトが孤立しないように、招待状を出す段階から人の配置を考えていた。封蝋の押し方ひとつで家の格が伝わる。リーリアはその種の細部を、すべて一人で管理していた。
今、それをやる人間がいない。
燭台の明かりが彼の頬を照らしていて、目元に乾いた線が走っているのが見えた。泣いた跡だ。拭いた跡ではない。乾くまで放っておかれた涙が残す、あの独特の筋。何日も、何週間も、繰り返された涙の痕跡が、皮膚に定着してしまったものだ。
あの人は以前、こんな顔をしなかった。
ソフィアはその思考を感傷ではなく事実として処理した。前世の記憶があるということは、こういうことだ。知っている。この人を、知っている。何年も前に亡くなった妻のことも。その妻が自分だったことも。
リーリア・ヴェルトハイム。享年二十二。政略結婚で嫁いだ伯爵家で、屋敷経営のすべてを一人で担い、使用人の管理から領民への対応まで切り盛りし、一度も「ありがとう」を聞くことなく死んだ女。
それが前世の自分だった。
ソフィア・クレスティンとして目を開けた日のことは覚えていない。物心がついた頃にはすでに二つ分の記憶があった。前世と今世の時間の繋がりは分からない。ただ、別の人生を生きた記憶が、確かにここにある。侯爵家の次女として育つ日常の中に、伯爵家の妻として過ごした二年間の記憶が重なっている。母の声と、台所から届く朝食の匂い。その裏側に、誰もいない食卓と、蜂蜜壺の蓋を開ける自分の指と、「愛していない」という短い宣告が張り付いている。
アルベルトの目がこちらを向いた。一瞬、その目が止まった。
前世の自分と今の自分は目元がよく似ている。髪の色は違う。背丈も少し高い。けれど目の形と、人を見るときの角度が同じだ。彼がそこに何を見出すか、ソフィアには分かっていた。
彼が近づいてきた。長い脚で、静かに、けれど迷いなく。あの歩き方で書斎に向かう背中を、リーリアは何百回と見送った。背中には後悔のかたちが刻まれている。肩が内に入り、歩幅が前世より狭くなっている。
「失礼。どこかでお会いしたことはありませんか」
その声を聞くのは、もう一つの人生を隔てた、長い時間ぶりだ。
声は変わっていなかった。低く落ち着いていて、感情の波を見せない声。前世では、この声が毎朝聞こえた。おはよう、とは言わなかった。食卓について、黙ってパンを取り、黙って食べた。ソフィアがリーリアとして切り分けたパンを。
蜂蜜壺の蓋を開けておいたのはいつも自分だった。朝、夫より先に起きて台所へ降りる。前日のうちに指示しておいた朝食の仕上がりを確認し、パンを人数分に切り分ける。蜂蜜壺の蓋を開ける。銀の匙を壺の横に添えておく。アルベルトが食卓につく頃にはすべてが整っていて、彼はその蓋がなぜ開いているのか、一度も気にしなかった。パンがなぜ切り分けられているのかも。献立がなぜ毎日変わるのかも。来客の名前をなぜ自分が覚えていないのに場が回るのかも。
すべて、妻がやっていた。
初夜の言葉が蘇る。
「愛していない。政略結婚だ。期待するな」
短い宣告だった。あの夜、窓の外に月が出ていた。正直だと思った。嘘をつかれるよりはいい、と。けれど同じ言葉を翌朝も翌月も翌年も繰り返されると、正直さは刃に変わる。二年間、毎日少しずつリーリアの胸を削った。それでもリーリアは毎朝食卓を整えた。蜂蜜壺の蓋を開けた。来客があれば献立を考え、座席を手配し、招待状の文面を整える。領民が種籾の前借りに来れば、台帳をつけずに頭の中で管理した。文句は言わない。言っても届かないと分かっていたからだ。
そのすべてを、今の自分は覚えている。覚えた上で、もう繰り返さないと決めている。
「いいえ、存じ上げません」
ソフィアは微笑んだ。社交用の、角のない笑みだ。前世で何百回と使った種類の笑顔。けれど今のこの笑顔は、あの頃のものとは中身が違う。あの頃は痛みを隠すための笑顔だった。今は、痛みが済んだ後の笑顔だ。
アルベルトが一瞬、目を細めた。何かを探している。彼の目元の乾いた線が蝋燭の光に浮かんだ。声には出さない問いかけが、目の奥に揺れていた。けれどその何かに彼はたどり着けない。
ソフィア・クレスティンとリーリア・ヴェルトハイムの間に、つながりはない。つながりは、ソフィアの記憶の中にだけある。
「そうですか。失礼しました」
彼は頭を下げた。その仕草は変わっていない。礼儀正しく、けれど温度がない。リーリアに対してもそうだった。礼を失することはなかった。ただ、礼の中に感謝を込めることもなかった。
離れていくその背中は、ソフィアが知っているどの記憶よりも小さい。前世では、あの背中を毎日見送った。書斎に向かう背中。来客を迎えに行く背中。自分のほうを振り返ることのない、遠ざかる肩。
それをもう、追わなくていい。
周囲で楽団の音が鳴り続けている。誰かが笑った。グラスが合わさる音がした。何事もなかったかのように夜会は続いている。ソフィアの中でだけ、一つの人生が閉じた。
父が傍に来た。
「ソフィア、今のは」
「ヴェルトハイム伯爵ですね。ご挨拶をいただきました」
穏やかに答えると、父は少し考えてから口を開く。
「あの家は良い家だ。縁談の話もあると聞いている」
「ええ」
ソフィアはそれ以上何も言わなかった。父は娘の横顔をしばらく見ていたが、やがて視線を広間に戻した。
馬車に揺られながら、ソフィアは目を閉じた。
蜂蜜壺のことを思い出す。陶器の、小さな壺。手のひらに収まるくらいの、丸い蓋がついている。前世の食卓にいつも置いてあった。リーリアが毎朝、夫より先に起きて食卓を整える。パンを切り分ける。蜂蜜壺の蓋を開ける。銀の匙を添える。アルベルトが食卓につく頃にはすべてが整っている。彼がパンに蜂蜜をつけて食べるのを、リーリアは自分の席から見ていた。パンの切り口が乾かないうちに食べてもらえると、少しだけ安堵する。それだけのことだった。
名前のつかない習慣だった。リーリアはそれを愛と呼ばなかった。呼ぶことを「期待するな」と禁じられていたから。アルベルトはそれを認識すらしない。認識する必要がなかった。毎朝、蓋は開いていた。開いていることが当然で、当然のものに名前はつかない。
リーリアが死んだ後、あの蓋は閉まったままだろう。開ける人がいないのだから。けれどアルベルトは、蓋が閉まっていることに気づいただろうか。
馬車の窓から月が見えた。前世の初夜にも、同じような月が出ていた。あの月の下で宣告された言葉を、ソフィアは今も正確に覚えている。
アルベルトの目元の、あの乾いた線。何年も泣き続けた人間の目元に残る消えない跡。涙はいつ流されたのだろう。妻が死んだ日か。翌日の食卓で蜂蜜壺の蓋が閉まっていた朝か。使用人がいなくなり始めた月か。招待状が出せなくなった季節か。
あの涙は何のための涙だろう。
リーリアを失った悲しみか。それとも、自分では開けられない蜂蜜壺の蓋の不便さへの涙か。
愛していない、とあの人は言った。愛していなかったのに泣いたのだとしたら、その涙は——。
あの人はまだ泣いている。けれど、あの涙の正体を、今の私は知っている。




