第68話:第三皇子の冷徹なる盤上
「ええ、では筋書き通りに」
ディートリッヒはそう告げると、静かに晶石の通信を切った。
卓上には、いくつもの報告書と封蝋付きの書簡が並んでいる。すべて確認済みだ。各家への根回し、候補者の選定、儀式当日の動線、想定外の横槍が入った場合の代替案まで含めて、必要な手はすでに打ち終えている。
彼は手元の書類の束から、一枚の羊皮紙を抜き取った。
そこに記されているのは、帝国の古き婚姻儀礼――『月華皇婚の儀』の式次第である。
建国当初より続く、帝国の皇族と諸侯・同盟国との結びつきを強めるための伝統儀式。
国内有力貴族及び周辺諸国から12名の未婚の姫君や令嬢を招き、皇族に連なる『未来の盟約者』を選定するための場。
4名が皇子の盟約者となり残りは傍系の皇族に縁づくという、娘たちにとって家や国家の威信を背負った美しくも過酷な代理戦争であり、現在、適齢の皇子を4人抱える帝国においては、次代の勢力図を大きく左右する一大政治行事でもあった。
皇位継承を狙う皇子にとって、参加はほぼ必須。
そう定められている以上、ディートリッヒもまた無関係ではいられない。
だが。
(あんな儀式、まともに参加する訳がないだろう)
彼は鼻で笑った。
公爵家を訪れた際にも、まさにその儀式の話が出た。
皇位を得るために参加必須の帝国建国以来の伝統行事。
そこで縁を結ぶ以上、その相手が第一皇妃になるのが本来の筋だ。
既に参列者の選定も1年以上前に決定しており、例え国の後押しがあったとしても追加の参列者を入れ込むことは出来ない。
つまり、皇婚の儀でディートリッヒが盟約を結んだ相手と家はレヴェリアを第一皇妃に置くことを許さないだろうと、公爵たちは考えたのだ。
――至極もっともな読みだ。
皇位が掛かっている以上、自分が参加しないという選択肢はない。
ならば必要なのは、儀式そのものを自分に都合の良い形に組み替えることだけだ。
彼はすでに、候補となる令嬢たちの身辺を徹底的に洗わせていた。
家格、派閥、実家の財政、後見勢力、本人の性格、そして――本人が本当にこの儀式への参加を望んでいるかどうか。
その中で、一人の伯爵令嬢が目に留まった。
とある事情により急遽妹の代わりに『月華皇婚の儀』への参加を強いられることになったが、本人には実質的な恋人関係に当たる幼い頃からの婚約者がいた。
お人よしで知られる伯爵夫妻はその境遇を憐れみつつも、他の家だと、代役を巡って、争いが生じるということで娘を儀式に出さざるを得なかった。
そこでディートリッヒは、その伯爵家に一つの取引を持ちかけたのだ。
『月華皇婚の儀』では、儀式の期間中に皇子が伴う相手はあくまで『盟約者候補』として扱われ、最終日に正式な盟約が結ばれて初めて、その名が帝国に公示される。
彼の提示した条件は以下の通り。
儀式の期間中、自分とその令嬢は表向き『盟約者候補』として振る舞う。
儀式を波風立てずに終えた後は、双方合意の上で円満に盟約を解消する。
そして、伯爵家には次代の政局における確かな利益を与え、令嬢の恋路にも決して障害を立てない――と。
伯爵家にとっても、娘の真の思い人を遠ざけることなく『皇子の見えざる庇護』を得られるという、まさに渡りに船の申し出であった。
そしてディートリッヒにとっては、それ以上に都合が良かった。
その伯爵家は地味で目立たない家ではあるが、建国以来の旧貴族派閥である門閥派の中核に位置する侯爵家に古い恩を貸しており、その恩ゆえに、侯爵家を動かすことができる。誰も気づかぬその一点を、彼は見抜いていた。
すでにディートリッヒは、母方の公爵家を筆頭に、宮廷と近しい格式高い貴族派閥である宮廷派と、ヴェルナーの実家を含む複数の武門家貴族を味方につけている。宮中と軍部の一部には、すでに十分な足場があった。
だが、旧貴族から厚い信頼を集めるこの一門を取り込めれば話は別だ。皇位継承争いにおける優位は、もはや覆し難いものになる。
皇婚の儀には参加する。
しかし、そこで選ぶのは未来の妃ではない。
あくまで皇位を確定させるための、最短の一手にすぎない。
そうして盤上を整えた後で、彼はただ一人の名を公にするつもりだ。
グレイシアの神孫血統を引き、アステリアの筆頭公爵家の養女として迎えられた少女の名を。
血統、格式、才覚、そして外交上の価値。そのどれを取っても、皇后候補として不足はない。
いや、むしろこれ以上ない。
――だからこそ、順序を違えれば、すべてが裏返る。
まず、前提として大陸の覇権たるニルヴァスが公爵令嬢を妃に迎えたいと望めば、アステリアにとって断る理由のない破格の名誉になる。
いかに権力を誇るルヴィエール公爵家であっても王家に国益として求められれば拒むのは難しいはずだ。
つまり彼女の血が明るみに出たとき、玉座の位置が定まっていなければーー神孫の血はただちに父である現皇帝の手に落ちるだろう。
彼女の母親が、そうされたように。
帝国があの血に求めているのは、女ではない。それを継ぐ子だ。
であればこそ、皇太子の定まらぬ今、父が彼女を召し上げるのは至極理に適っている。
生まれた子は、四人の皇子の誰よりも高貴な血を持つ。次代の駒として、これ以上のものはない。
だが、皇太子が確定していれば話は別だ。
自分が彼女を娶れば、その子がそのまま次代の皇帝になる。
帝国の欲する血は、それだけで手に入る。
その状況で現皇帝が彼女を召し上げれば、生まれるのは確定済みの皇太子より血統的に上位の弟だ。
収まったばかりの継承争いを、一から燃やし直すことになる。
貴族院も、軍部も、そんな火種を望みはしない。
――皇太子の座さえ手にすれば、彼女を奪うことは、帝国にとって『損』に変わる。
先に明かせば檻。後に明かせば盾。
ただ順番だけが、彼女の生涯を分ける。
皇位を固めた上で彼女との婚約を宣言すれば、反対勢力は声を上げる大義名分を失う。
仮に異を唱える者がいたとしても、血統と政治的利得の両面から黙らせればいいだけの話だ。
彼は羊皮紙を机上に置き、口元に冷ややかな笑みを刻んだ。
『月華皇婚の儀』。
世間はさぞ華やかな恋物語でも始まるかのように騒ぎ立てるのだろう。
だが、実体は程遠い。
彼や兄弟たちにとって、皇位を取るための通過儀礼でしかないのだ。




