第52話:全てを知った彼と全てを知らない彼女
「何、彼女がルヴィエール公爵家と養子縁組を結んだだと?」
「はい、昨日ルシウス殿下お立ち会いのうえ正式に調印が済んだとのことです」
「やられた。まさか最も厄介な相手に横槍を入れられるとは」
ディートリッヒはアロイスから聞いた予想外の凶報に舌打ちをした。
五日後に控えたクロード・ブランシェールとの会談。
そこで彼女を皇妃として帝国へ迎えたい旨を伝え、その前提条件としてレヴェンタール公爵家への養子縁組を打診しようとしていたが、まさか先を越されるとは。
しかもルシウスを巻き込んだ上で。
この時点でレヴェリアの出自の真実を知らないディートリッヒは、クロード・ブランシェールに何かしらの秘密があれど、一介の男爵家が自分たちの提案を断るはずがないと考えていた。大国の皇子に見初められた上、公爵家に迎え入れられるという誰もが羨むシンデレラストーリーだ。
しかしここに来てまさか、別の思惑を持った他国の公爵家がその筋書きに割り入ってくるとは。
そもそも男爵令嬢が公爵家へ養子へ入るなど余程の理由があければあり得ない異常事態である。
「申し訳ありません。ルヴィエール公子の危険性を看破しておきながら、彼の動きを抑えきれず後手を踏む結果となってしまいました。私の読みが甘うございました」
「いや、君を責めはしない。君が何も語らなかったからこそ、あの男は自力で答えに辿り着き、即座に手を打ったのだ。……そもそも、公子一人で動かせる規模の話ではあるまい。公爵家に何かしら彼女を得ることによる益ないし大義名分がなければ当主である公爵を動かすことなど出来ないだろう。ましてや身分制度に厳格なアストレアでは尚更。公子め、どんな手を使ったんだ」
ディートリッヒは微かな動揺を即座に奥底へと沈め、冷徹な思考の海へと潜る。
ルヴィエール家はアステリア筆頭の公爵家であり、決して軽率に動くことはない。単なる男爵令嬢を迎え入れる以上の、派閥の力学を根底から揺るがすほどの『特大の価値』がそこには存在するはずだ。
彼は長い指先で顎をなぞりながら、脳内で盤上の駒を組み替えていく。
彼女の並外れた魔力か、ブランシェール男爵の背後にある財源か。あるいはそのどちらでもない、もっと深淵な秘密か。
あの賢く周到な公爵夫妻を即決させただけの、自分が見落としている『何か』が必ずあるはずだと。
***
「ご機嫌よう、ディートリッヒ皇子殿下」
現れたノエルは、盤上のキングを取ったばかりのプレイヤーのように、ひどく晴れやかで満足げな微笑を湛えていた。
その立ち振る舞いからは、隠しきれない優越感が滲み出ている。
「ルヴィエール公子……。話は聞いたよ。実に見事な手立てじゃないか。よく君のご両親が承知したな」
「彼女の価値を知っている者は殿下だけではありませんから。……特に僕の母は、僕よりよっぽど彼女のことをご存知でした」
「……何?」
眉をひそめるディートリッヒに対し、ノエルはさらに楽しげに目を細め、その優位性を示すように言葉を繋いだ。
「彼女の産まれるずっと前からね」
ノエルはディートリッヒは当然レヴェリアがグレイシア王家の末裔であることを知っていると思い込んでいた。
そうでなければ、例えレヴェリアが絶世の美少女であるとしても、わざわざ自国の公爵家に入れてまで手元に置きたい理由が見つからないからだ。特に他人に興味を見せないディートリッヒだからこそ尚更。
自分の想像以上に上手く事が運んだことに、ノエルはめずらしく浮かれていたのだ。その驕りが、彼に冷静な盤上の支配者らしからぬミスを犯させた。
(待て、公子は何の話をしている。彼の母親が彼女のことをよく知っていただと?)
ディートリッヒは一瞬、脳裏に稲妻が走ったかのような衝撃を覚えた。
彼は表面上は微塵も表情を崩さず、始終いつも通り振る舞うと。
別れた直後、その言葉の破片を高速で繋ぎ合わせるべく脳を切り替えた。
『僕の母は、僕よりよっぽど彼女のことをご存知でした』
『彼女の産まれるずっと前から』
ノエルから確信を持って発せられた二つの台詞。
産まれる前から、ということはつまり公子の母親は、レヴェリアの母親ないし父親を知っていたということだ。
ルヴィエール公爵夫人はノルドレインの公爵家出身。
つまり、レヴェリアのルーツは北にあり、公爵家の令嬢と直接親交を結べるほどの極めて高位の身分だったということになる。
彼はそこまで考察した上で、これまで断片的に得ていた彼女の出自に関する情報を思い浮かべた。
ルヴィエール公爵家が彼女を迎え入れるに至った彼女の特大の価値。
ブランシェール男爵のノルドレイン聖国の王族との繋がりと、途絶えた経歴。
誇り高き聖国の騎士が動くほどの政治的理由。
莫大な財産を築くにあたっての出処不明の開業資金。
北の高貴な血統由来のプラチナブロンド。
レヴェリアの持つ王族に匹敵する膨大な魔力。
これらに『レヴェリアのルーツは北である』こと、『ノルドレインの公爵家の令嬢と直接親交を結べるほどの極めて高位の身分』という最後の断片を組み込む。
するとーー。
(まさか)
彼の明晰な頭脳が、十五年前に先帝の『覇業』によって征服された古き小国へと行き着いた。
(まさか……いや、そんなことあって良いはずが)
全てのピースが繋がり、浮かび上がったのはあまりにも残酷な事実。
(彼女は……俺の国に滅ぼされた国の王族の末裔だというのか……?)
明るい日差しが差し込む豪奢な学園の廊下で、彼は静かに息を呑んだ。
周囲を行き交う生徒たちの平和な喧騒が、今の彼にはひどく遠く聞こえる。
己の足元に暗く滲むどこまでも黒い陰を見つめながら、彼はひとり呆然と立ち尽くしたのだった。
***
その日のディーダは、いつもと様子が違っていた。
何を話しかけても上の空で、心ここにあらずといった様子だった。
「でもね、高級官僚は無理でも留学は出来るみたいだから。引き続き説得してるところなんだけど、お父様って凄く過保護だから中々乗り気になってくれないのよね」
レヴェリアは昨夜の男爵家の夕食の席での父の渋面を思い出し、小さく肩をすくめた。
彼女の何気ない言葉が、今のディートリッヒには、まるで世界を切り裂く刃のように響いた。
(仮に俺の推理が正しかったとしたらーー男爵が彼女を帝国に行かせる訳がない)
「……君」
彼はその推測が外れて欲しい一心で、祈るように問いかけた。
「君は、何かしらの毒に対する耐性を持っていると感じたことは、あるか?」
レヴェリアは突然の質問に目を瞬かせながらも、以前ロイとストーカーを退治したときに全く睡眠薬が効かなかったことを思い出した。
「ええ、あるわよ。自分でも驚いたけど、睡眠薬が全然効かなかったのよね。今となっては特別なヒロイン朝食のおかげだったのかなと思っているんだけど……」
(確定だーー)
かつて彼が幼子のときに自国によって征服された、神話から連なる起源を持つ高貴な古国グレイシア。
歴史的にまだ浅い帝国がかの国を征服した理由は、グレイシア王族の長子にのみ受け継がれる『あらゆる毒が効かない耐性』と、他国からも尊敬を集める『最古の神霊血統王族』としての価値であり、先帝は絶世の美姫として名を馳せていたアナスタシア王女を皇妃として離宮へと幽閉し、後継者を儲けようとした。しかし、不妊であった王女は子供を授かることはなかった。
王女が自らの意思で幽閉され続けていることで、グレイシアの王と王妃は生かされ、傀儡として属領となったその地を治めている。
だが。
(まさか王女が、囚われる前に既に子供を授かっていたとは)
帝国の見落とした歴史の真実。
アナスタシア王女の血を引いたグレイシア王族の長子が遠き地で誰にも知られずに生きていた。
それは帝国が喉から手が出るほど欲しかった『神孫の加護の持ち主』であり『神霊の血を継ぐ最古の王族』という高貴な血統そのものだ。
発覚した時点で有無を言わさず現皇帝の皇妃として召され、幽閉されることになるだろう。彼女の母親のように。
(彼女は、アナスタシア王女が命懸けで逃した姫君なのではないか?彼女の義父も、それを預かりその正体を本人にも隠し続けている忠臣なのでは)
自身の欲で彼女を帝国に引き入れると言うことは、彼らにとって考え得る中で最も皮肉な事態にならないか。
そして恐らく何も知らないであろう、この能天気な少女を母と同じ檻へ自ら導くことになる。
(俺がここで手を離せば、彼女は……)
彼が何も知らなかったことにして、このまま男爵の反対を呑み、帝国に連れて行くこともしなければ、彼女は、ルヴィエール家の令嬢としていずれ政略結婚することになるだろう。自由ではない。だが、故郷で慣れ親しんだ人々の中で。彼女なら、家が選んだ相手の中からでも、自ら幸せを掴み取るに違いない。——少なくとも母親のように、祖国を滅ぼした帝国の檻に囚われることは、ない。それが、彼女にとって、より穏やかな未来なのではないか。
故郷を征服された憎き国に幽閉されるなど、この天真爛漫な彼女にはあまりに不釣り合いな結末だ。
彼はフードの下で深く息を吐いた。
そして自身の望みより彼女の幸せを選ぶ決意をしようとしたまさにその時だった。
「それで――ねえ、聞いてる?」
という相変わらず呑気な彼女の声が彼の思考に割り込んだ。
「さっきの話だけど、私はやっぱり帝国に行ってみたいからもう一度父に頼んでみようと思うんだ。公爵にも。だって、あなたが生まれ育った国を見てみたいんだもの」
レヴェリアが何気なく口にした、その何の打算もない、真っ直ぐな台詞。
その台詞が彼の運命を、たった今、決定的に、後戻りができないものに変えてしまった。
皇后のただ一人の皇子として幼い頃から政治の中心で人の機微を読み立ち回り、誰よりも巧みに己を殺し、感情を操る術を会得した冷徹な曲者ディートリッヒ。
そんな彼が唯一求めた美しい少女は、皮肉にも自分の国の滅ぼした国の姫君で、極大の政治的価値そのものであった。
彼女の背負うあまりにも重い宿命を前に、これまで政治と取引の世界だけで生きてきた男が、自身の願いを捨ててでも彼女の幸せを願い、手放す選択肢さえ頭に描いた。
――しかし、無情にもその瞬間に突きつけられた、彼女の台詞。
その言葉は彼に、彼女を誰にも渡したくないという苛烈な執着と、皇位を本気で獲りに行くという決意を同時に刻みつけた。
「ーーならば、私が責任を持とう」
彼は静かに息を吐くと、フードの奥の瞳にすべてを従える覇者の冷徹さを宿した。
それはディーダとしてではなく、ディートリッヒとしての宣誓だった。
「留学の手続き、そして君の父上、ルヴィエール公爵家への説得。すべて私が引き受ける。……必ず君を帝国に連れて行くことを約束する」




