3.父の心配
しかしその次の日。
「きゃ〜! 楽し〜い♡」
雲ひとつないよく晴れた紺碧の空に向かって、龍の神体が水しぶきを上げて水面から勢いよく跳ねている。
その頭でさらさらとなびく鬣に横たわり、枝分かれする左右の角を、玉はしっかりと両手で掴んで笑っていた。
やがて細く長い二本の髭がそよぐ口先が頂点に達すると、青藍はゆっくりと後ろ手へ円を描くように頭を倒して降りてゆく。
そして、海面すれすれで下に向けていた頭を起こして戻し、今度は滑るように、そしてときどき小波を散らしながら神体を走らせた。
鋭く頬や髪を駆け抜けてゆく風を心地よく感じながら、玉は歓声を上げて喜んでいる。
海の上ですれ違う舟に乗る人々には、この姿が認識できない。
横を通り抜けた島々の浜辺で働く人々にも、青藍の頭の上で遊ぶ玉の姿すら、分からなかった。
唯一、その姿を角のカケラを持たなくても見えている義弘は、能島の船溜りとなる砂浜の上でやはり、娘の押しに負けた己を悔やんで頭をかかえているのであった。
「お? 大将はあんなとこで何してんだ?」
同じ砂浜の向こうでは、水場の島から物資を運んできた配下たちが仕事を終えてひと休みしている最中である。
他にも瀬戸内海の海賊たちの仕事と言えば、このあたりの狭い海峡を渡る船舶から通行料を徴収し、水先案内や他の賊からの警護を担ったり、海の安全や交易だったり流通なりを守るといった役割を果たしている。
普段は漁師である者も多く、今も休憩がてらに朝に獲れた海産物を浜の上で調理しているものであった。
「ど〜せまた、お姫さんを龍神にとられて怒ってんだろうよ」
「はは、違いねぇっす〜」
串に刺した桜鯛を焚き火の上でくるくる回しながら炙っている細身の男が苦笑すると、周りの男たちも一緒になって笑っている。
ひとりの男が、隣で火にかけていた平たい鍋の蓋を持ち上げて中をみると、敷き詰められた小石の上でワカメやひじき、貝などがほどよく蒸されていて、あたり一面に食欲をそそるよい香りが風に運ばれるように流れていった。
向こうにいる義弘がぴくりと身体を震わせたのを配下は見た。
「お、大将がこっち向いたぞ〜」
その言葉に皆がそちらへ顔を向ける。
すると急に胸をはってふんぞりかえり、義弘はのしのしと歩いてやってくる。
やがてその長身がず〜んと配下たちの前にそびえ立つなり、どかりと腰を下ろし、手前の男から酒瓶をむしり取ってそのまま飲み始め、焚き火の前となる砂地に刺さっていた串を引き抜いて桜鯛にかじりついていた。
「おい、いきなり食うんじゃねぇ」
隣でなおも串をまわす手を止めないで苦言を呈したこの細身の男は、組頭のひとりで名を与一と言った。
頭が良く義弘も重用している男で、さらには物心がついた時からつるんでいる幼なじみでもあるからして、大将の義弘にも普段の会話に遠慮がなかった。
そんな与一の言葉をつーんと無視すると、いかつい顔をしてやけ食いのような勢いで串にかじりついては酒を飲み、鍋の上の海藻を指でつまんでは口に放り込んでまた酒で流している。
その義弘の様子に周りの配下たちは、
(機嫌わっる〜)
と、八つ当たりを恐れて貝のように口を閉ざしていた。
「何だ、また玉姫さんが龍と遊んでいるのか?」
この誰もがふれない話題をぶっ込んできた与一に、配下たちはさすがと思いながらも、このままでは目の前の料理をすべてこの大将が平らげてしまいそうなので、追加の食材を求めてあわあわと動き出している。
「うるへー」
頬をリスのように膨らませたまま、義弘はムスっとした。
料理に関しても慎重な与一は、火から上げた串の先に刺さる鯛の焼き具合を確認しながら口を開く。
「別に龍と遊ぶくらい何がいけないのか? 子供のうちだけだろう」
この何気なく言ってくる質問に、義弘は頬を空にしてから舌打ちをした。
「おめぇはあいつを見たこと無いから、そんな阿呆なことが言えんだよクソが」
「まあ、ずいぶんと美しい姿なのだとか、目など碧玉のようだとか言っていたな」
「そうだ。そんなんだからあいつは玉を惑わしているのだ」
「うん? 玉姫さんはその神様に惚れているんか」
実はそこを一番心配していた事で、義弘は飲みかけた酒をブフッと吹いて与一へ食ってかかった。
「馬鹿野郎! そんなわけねぇだろうがど阿呆がぁ! 玉はまだ可愛い子供だぞぉ!」
もう娘も十四歳ではあるが、親から見ればまだまだ小さな子供の余韻が残っているようなものである。
「うわっ! きったねぇな、口のもんを飛ばすな馬鹿! だったら何が不満なんだ、別に他の生き物と遊んでいるのと変わらないんじゃねぇのか? それによく言うだろう、神様が見えるのは子供のうちだけだって」
潔癖な性格でもある与一なので、飛んできたものを心底嫌そうな顔をして手拭いではたいている。
「俺、今でも見えてんぞ」
「じゃあ、お前は頭ん中が餓鬼のままなんだろう」
この返しが聞こえて、追加の食材を調理しておいしそうに食べている配下たちが思わず吹き出した。だが、義弘がギロリと睨みを効かせたのでまた、皆はまた貝のように口を閉ざしたのだった。
「……嫁に行く頃には、自然とその神さまも忘れるんだろうよ」
焼けた串を隣から手の届かない場所にある葉皿へいくつか置きながら、そう言った与一もようやく最後の串で鯛の身へかじりついている。
だが反対に義弘はその言葉がズシンと胸にくると、手からポロリと串を落としてしまった。
「嫁……あの可愛い玉が……俺の手を離れる……」
幼子だった頃の可愛らしい玉との思い出が頭をよぎり、急にもの悲しくなってきてきて肩を落とすと、虚ろな目をしてしょんぼりしてしまう。
海賊働きをしている時など、とんと見せないその義弘の姿に、
「大将、今からめちゃくちゃ落ち込んでんぞ」
「こりゃ〜お姫さんの婿になるやつはやべぇよな〜」
などと、配下たちは笑いを必死にこらえていた。
ところが。
しずやかにテンポよく聞こえてくる波の音と共にその配下の呟きが耳に入った義弘が、いいことを思いついたとハッとなった。
「そうか! 婿……婿だ!」
突然そう叫ぶなりバッと顔と上体を跳ね上げたので、周りの者たちはビクリとした。
「な、何だ? 急に……」
「婿を探せばいい! 要は玉にくっそいい男を見つけてきてやれば、あの龍の事なんぞすぐに忘れるってーことよな!」
「ん? もう玉姫さんを他の男にやるのか?」
さっきの落ち込みようは何なんだと言わんばかりに目を丸くしている与一へ、義弘は鬼の形相となって怒鳴りつけた。
「ざっけんじゃねぇや! 馬鹿言うんじゃねぇ! 誰がすぐに玉をやるといったぁ!」
「おまえだお前」
「ちっげーよ! たわけかコラァ! 許婚となる男を探すってんだよ!」
「……ふ〜ん、とりあえず約束だけという事か。して、どうやってそんないい男とやらを探すんだ?」
ふむふむと納得した与一の後ろでは、配下たちがいろめき立った。
というのも、玉は容姿の美しい人当たりのよい性格なので、水軍の野郎どもにも大人気であったのだ。
そんな事なので、
「大将! オレオレ! オレどうですか?」
「バカ言うな! しょっぺえ魚しか獲れねぇやつが調子こくな! 大将、この投網のマサがいけますぜ」
「おいおい、今日の釣り上げはわいが一番じゃろうが。この一本釣りのたくましい腕を見てくだせぇ大将! 姫様をがっつり守りますわ」
配下たちが漁獲量を競いながら目の色を変えて群がってきた。
「うるせぇ! 誰が海賊になんぞ娘をやるか! 散れ!」
今度は赤鬼となって義弘は次々と配下たちを右へ左へ投げ飛ばしている。
「お前、大野殿(義弘の舅)に謝れや」
自分も嫁もらってんだろ、とそんな騒動へ目もくれずに、火の始末を始めた与一がツッコミだけを入れていると、
「お〜い、お〜い!」
そう呼びかけながら、能島の属島となる鯛崎島の方から男がひとり、転がるようにして砂浜へ飛び降り、走ってきたのだった。
「おう、どうした?」
首根っこを掴んでいた配下をポイと投げていると、見張り台から来たその男は息を切らしながら義弘の手前まで走り、慌てた様子で口を開いたのである。
「報告です。さっき通り過ぎた、交易の船の近くに、妙な舟が現れやして……」
「なに? 黒旗か?」
『黒旗』とは、この瀬戸内海に数ある海賊勢力のひとつであり、義弘ら村上海賊が今もっとも警戒している勢力でもあった。
「いえいえ、むしろ旗もないやつで、数も四くらいだしちっせえ舟で」
「ふむ……見るか」
言うなり走り出した義弘は、足が速い。
長い手足を存分に使ってあっという間に浜を抜け、地の斜面を駆け上がり、鯛崎島へと消えてゆく。
火の始末を終えた与一はそちらをいっさい見ていなかったのだが、
「おい、舟をひとつ用意しておけ」
そう周りに命じたのである。
「ひとつでいいんですかい?」
助けに走るならみんなで行くのでは? と配下が不思議に思ったのだが、
「十分だ」
そっけなくそう返した与一は、自身の大将の性格をよく分かっているものなのであった。
島と島を繋いでいる桟橋を走り抜け、こんもりとした小島の頂上に築かれた木組みの見張り台に飛びついてスルスル登ってゆくと、
「うおっ! 大将! お疲れっす」
海の彼方を凝視していた若い配下が、くるの早ぇ〜と目を見張ったのだった。
その隣に立った義弘は片肘を軽く手すりに置き、そよぐ風を受けながら前を見据えている。
「あれか」
遠く波の上に小さく揺れている小ぶりの商船の周りを、蝿のように小舟が迫っているのが見えた。
「上乗りは?」
「五郎の頭です」
その答えにふん、と小さく鼻息をついて考える。
その間、斜め後ろ横になった若い配下は、前を見ずにこっそり義弘の姿をチラ見していた。
背が高く、重すぎずしかし軽くもなく締めてある身体中の筋肉が鋼のように強そうであり、口を閉ざして考えこむその横顔は精悍なものである。
黙って立っていれば男も見惚れるようなかっこよさがある、勇ましい姿であった。
ところが、次の瞬間にはその表情がにまりと崩れる。
「よし! 俺が行く!」
「えぇ⁉︎ 大将が自ら出るんすか?」
ここ数年の義弘は、内政の方に忙殺されて実務から遠ざかっていた。
さらには、警護料を払った船に乗り込んで水先案内をする上乗りの役を、今回は村上衆の中でも一、二を争う船戦さの強さを誇る五郎という組頭のひとりが担っている。
若い配下からみても、あの程度の襲撃ならそこまで助けもいらないのではないかと思ったのだが。
「ちょうどむしゃくしゃしていた所だ! 暴れてぇ! ブハハハハ——」
「…………」
このどうしようもない理由に、なんとも言えない顔をした若い配下であるが、同時に義弘らしいとも感じてしまうのである。
このとき船溜りでは、一隻の舟に高々と村上海賊衆の舟印が掲げられたのであった。




