シーン1:圧倒的な石造りの迷宮と、王都の匂い
視界の端から端まで、巨大な灰白色の石壁が天を突くようにそびえ立っている。
車輪が石畳を叩く『ガタガタ』という硬い振動が、馬車の座席から私のお尻を通して背骨へと直接響いてくる。
「……信じられない。これが全部、人の手で作られた壁……?」
私は軍用馬車の小さな窓枠に両手をつき、ポカンと口を開けたまま外の景色を見上げた。
王都グランヴェルザ。
この国の中心であり、全土の富と権力が集まる絶対的な中枢。
前世の記憶にある近代都市のビル群と比べれば高さこそ劣るものの、魔法の力と途方もない数の労働力によって築き上げられた城塞都市の威容は、一個人の存在など簡単にすり潰してしまいそうなほどの暴力的な質量を持っていた。
「ピ、ピキュゥ……」
私の肩に乗っているトゲマルが、怯えたように針をペタンと寝かせ、私の首筋に小さな鼻先をこすりつけてくる。
無理もない。フォルティス領ののどかな森と牧草地しか知らないこの子にとって、この喧騒と威圧感は世界の終わりか何かに感じられるだろう。
私だって、気を抜けばその空気に呑み込まれてしまいそうなんだから。
『――第一騎士団、帰還! 門を開けぇッ!』
先頭を走る伝令の鋭い声が響く。
直後、鼓膜を震わせるような『ゴゴゴゴゴ……!』という重低音と共に、見上げるほど巨大な鉄格子の門がゆっくりと持ち上がり始めた。
開かれた門の向こう側から、まるで決壊したダムのように、むせ返るような熱気と音の奔流が押し寄せてくる。
行き交う人々の怒号にも似た話し声。
荷馬車を引く獣たちのいななき。
鉄を叩く甲高い音。
そして――鼻腔を容赦なく刺激する、無数の匂い。
香辛料のツンとした香り。安っぽい香水の甘ったるい匂い。汗と土の匂い。どこかで肉を焼いている焦げた脂の匂い。それらが複雑に絡み合い、一つの『巨大な生き物の呼吸』となって私の全身にねっとりと絡みついてくる。
「すごい人……。お祭りの日でも、こんなに人はいないわよ」
馬車が王都のメインストリートへと足を踏み入れると、その人の多さに私はさらに圧倒された。
色とりどりの天幕を張った露店が所狭しと並び、石造りの建物は三階、四階と上へ上へと伸びている。
窓からは色鮮やかな洗濯物がはためき、路地裏からは薄暗い影がこちらを窺っている。
圧倒的な活気。
けれど、私の目は自然とある一点――通りに面した『パン屋』の屋台へと引き寄せられた。
並んでいるのは、ラグビーボールのような形をした黒茶色の塊。
遠目から見ても表面のツヤは一切なく、ひび割れ、まるで窯の中で放置された石ころのように沈黙している。
店の前を通っても、あの幸福な『小麦の焼ける甘い香り』が一切しない。
(……あれが、王都のパン。やっぱり、どこもあのレベルなのね)
フォルティス領で焼いていた私のパンがいかに異端だったか、まざまざと見せつけられた気分だ。
こんな硬くて味気ないものを、この人たちは毎日当たり前のように口にしている。
その事実が、私の胸の奥に小さな、しかし確かな『怒り』に似た感情を呼び起こした。
「――景色に見惚れるのもいいが、舌を噛むぞ」
不意に、開け放たれた馬車の窓のすぐ外から、低く冷たい声が降ってきた。
ビクッと肩を揺らして視線を向けると、そこには漆黒の軍馬に跨り、私の乗る馬車と並走するレオンの姿があった。
王都の喧騒の中にあっても、彼の纏う空気だけは絶対零度のままだ。
傷だらけの黒鋼の鎧。感情を読み取らせない灰色の瞳。
彼が通るだけで、群衆はモーセの十戒のようにサッと左右に割れ、道を開けていく。誰もが彼を恐れ、同時に畏敬の念を持って見つめていた。
「見惚れてなんかないわ。ただ、あまりにも人が多いから驚いていただけよ」
私は強がって言い返す。
レオンは手綱を軽く握り直しながら、無表情のまま私を見下ろした。
「田舎育ちの貴様には毒かもしれないな。だが、慣れてもらわねば困る。お前がこれから寝起きするのは、この街のさらに中心――第一騎士団の総本部だ」
「……逃げ出したいって言ったら?」
「物理的に不可能だ。我が騎士団の防衛網は、王宮よりも堅牢にできている。ネズミ一匹、私の許可なく外に出ることは許されない」
淡々と、恐ろしいことを言う。
冗談で言っている顔ではない。本当に、私を鳥籠に閉じ込めるつもりなのだ。
それも、ただの鳥籠ではない。国で最も屈強な男たちが守りを固める、鉄壁の要塞に。
「それに」
レオンは視線を前方に向けたまま、ポツリと付け加えた。
「お前が焼いたあの『保存パン』。あれの存在を知れば、必ず嗅ぎ回る輩が出る。お前の身の安全を保証できるのは、私の手元だけだ」
その言葉には、一切の熱が含まれていない。
あくまで『軍の重要な戦略資源を保護する』という合理的な判断。
けれど、どうしてだろう。その冷たすぎる響きの奥に、ほんのわずかな――絶対に手放さないという、強烈な執着のようなものを感じたのは。
「ピギィ」
トゲマルが、私の頬をツンツンと突いた。
私が緊張で顔を強張らせているのを、察してくれたのかもしれない。
「……わかってるわよ。ここまで来て泣き言なんて言わないわ。美味しいパンを焼く。最高の環境を用意してくれるって約束したんだから、その言葉、きっちり守ってもらうからね」
私はレオンを真っ直ぐに睨み返し、そう宣言した。
レオンは私を一瞥すると、ほんのわずかに――幻かと思うほど微かに、口角を上げたように見えた。
「案ずるな。結果を出す者には、相応の対価と環境を約束しよう」
馬車が大きく右へ曲がる。
石造りの市街地を抜け、視界がふっと開けた。
その先にそびえ立っていたのは、王都の街並みすらひれ伏すような、巨大な黒曜石の城壁。
空を突く見張り塔。壁の上に並ぶ、無数の弩砲。
そして、双頭の鷲の紋章が刻まれた、重厚な鋼鉄の正門。
「着いたぞ。ここが、貴様の新しい戦場だ」
レオンの言葉と共に、馬車がゆっくりと停止する。
軍の巨大な心臓部――第一騎士団総本部。
張り詰めた空気と、むせ返るような鉄と血の匂い。
私の王都での生活は、パンの焼ける甘い香りからは程遠い、この息苦しい要塞から始まるのだった。




