シーン2:鋼鉄の要塞と、絶望の『標準パン』
第一騎士団総本部の内部は、外観から想像した通りの――いや、それ以上に無骨で、温かみの欠片もない空間だった。
磨き上げられた灰色の石床は、歩くたびに冷たい靴音を反響させる。
壁に飾られているのは美しい絵画やタペストリーなどではなく、実戦で使われる長剣や、傷だらけの盾ばかりだ。
すれ違う兵士たちは皆、筋骨隆々で顔つきも険しい。彼らはレオンの姿を認めるや否や、踵を揃えて『ビシッ』と一糸乱れぬ敬礼をして通り過ぎていく。
「……なんか、息が詰まりそう」
私はトゲマルを抱き寄せながら、ポツリとこぼした。
「無駄な装飾など不要だ。ここは兵を鍛え、戦に備えるための場所。機能性以外に価値はない」
私の前を歩くレオンが、振り返りもせずに答える。
マントを翻して歩くその後ろ姿には、つけ入る隙が1ミリもない。
確かに合理的だ。合理的すぎる。でも、人間ってそんな機械みたいに生きられるものだろうか。
「着いたぞ。ここが大食堂だ」
レオンが足を止め、分厚い両開きの木扉を押し開けた。
その瞬間、むわっとした熱気と、数百人の男たちが立てる喧騒が押し寄せてきた。
広い。前世の学校の体育館が三つくらい入りそうな巨大なホールに、長い木製のテーブルがずらりと並んでいる。
そこでは、訓練や任務を終えた兵士たちが、肩を並べて食事をとっていた。
漂ってくる匂いに、私は鼻をひくつかせた。
塩漬け肉を煮込んだような、強い塩気と獣の脂の匂い。それに、麦や豆を煮立たせた素朴な香り。
悪くない。少なくとも、飢えを凌ぐための食事としては十分な匂いだ。
だが――私には、どうしても許せない『欠落』があった。
「……パンの匂いが、全然しない」
「パンの匂いだと? そんなものは腹の足しにならん。ついてこい」
レオンは私の呟きを一蹴すると、ずんずんと食堂の奥へ進んでいく。
私たちは一段高くなった士官用のテーブルへと案内され、腰を下ろした。
周囲の兵士たちが「おい、団長が女を連れてるぞ」「あの娘、どこの貴族だ?」とヒソヒソ声を交わしているのが聞こえるが、レオンが鋭い視線を一巡させただけで、食堂は水を打ったように静まり返った。
相変わらず、とんでもない威圧感だ。
やがて、当番らしき若い兵士が、木のお盆に乗せた食事を運んできた。
ドンッ、と乱暴に置かれたのは、湯気を立てる肉と豆のシチュー。
そして――シチューの横に添えられた、見覚えのある『アレ』。
「……ねえ、レオン」
「なんだ」
「この、お皿の横に転がってる鈍器みたいな物体は、なに?」
私は、その灰色で、ラグビーボールのような形をした塊を指差した。
表面にはツヤの欠片もなく、ひび割れ、指でつついてみると『カツカツ』と乾いた音がする。
これが食べ物? 冗談じゃない。私が知っているパンとは、DNAレベルで異なる物質だ。
「鈍器ではない。見ればわかるだろう。軍の配給用の『標準パン』だ」
レオンは一切の表情を変えず、木のスプーンを手に取った。
「標準……これが?」
私は震える手で、その『標準パン』を持ち上げてみた。
……重い。見た目以上にずっしりとしている。水分が抜けているくせに密度が高く、まるでセメントを固めたかのようだ。
試しに、テーブルの角に軽くぶつけてみる。
――コンッ。
「ピギィッ!?」
鈍い音が響き、トゲマルが驚いて私の腕の中に潜り込んだ。
パンがテーブルを叩く音じゃない。木槌か何かの音だ。
「ちょっと、これ本気で言ってるの? こんなの、どうやって食べるのよ!」
「どうやって、だと?」
レオンは不思議そうな顔をして、私の手からパンをひったくった。
そして、己の配給されたパンと両手に持ち、そのまま力任せにシチューの器の中へ『ボチャッ』と放り込んだのだ。
「あっ……!」
「こうやって、熱いシチューに五分ほど浸す。そうすれば表面がふやけて、なんとか噛み砕けるようになる。味が薄ければ塩を足せばいい。兵站部が計算した、最も効率的なカロリー摂取法だ」
彼は淡々と解説しながら、ふやけ始めたパンの表面をスプーンでガシガシと削り取り、口へと運んだ。
ガリッ、ボリッ、という、頭蓋骨に響きそうな咀嚼音が聞こえてくる。
美味しいとか不味いとか、そういう次元の話ではない。ただ、体を動かすための『燃料』を無機質に胃袋へ押し込んでいるだけだ。
私は周囲の兵士たちにも目を向けた。
彼らもまた、同じようにパンを汁に浸し、顔をしかめながら、義務感だけで顎を動かしている。
食事を楽しんでいる者など、この広い食堂の中に誰一人としていなかった。
ただ黙々と、苦痛に耐えるように咀嚼音だけが響いている。
(……信じられない。これが、この国の『当たり前』なの?)
前世の記憶がフラッシュバックする。
街角の小さなベーカリー。焼き立てのクロワッサンの層が弾ける音。
休日の朝に淹れたコーヒーと、バターがじゅわっと染み込んだ厚切りのトースト。
『美味しい』と感じる瞬間は、ただ空腹を満たすためだけのものじゃない。心を豊かにし、明日を生きる活力を生み出す魔法のはずだ。
なのに、彼らはその魔法を、こんな石ころみたいな代物でドブに捨てている。
「……ふざけないで」
私の口から、無意識にそんな言葉が漏れていた。
「何か言ったか」
レオンが、眉をひそめて私を見る。
私は席を立ち上がり、両手をテーブルに『バンッ!』と叩きつけた。
周囲の兵士たちが一斉にこちらを振り向くが、そんなことはもうどうでもよかった。
「ふざけないでって言ったのよ! こんなのパンじゃない! ただの拷問道具よ!」
「声が大きい。座れ」
レオンが低く凄むが、私の怒りは収まらない。
「嫌よ! こんなものを『標準』だなんて言わせておくもんですか! 兵士たちが疲れた顔をしてるの、厳しい訓練のせいだけじゃないわ。こんな食事じゃ、心から回復するわけがない!」
「食事は燃料だ。兵站の効率と保存性を考えれば、これ以上の形はない」
「効率? 保存性? 笑わせないで。美味しくて、それでいて保存が効くパンが作れないのは、作り手の技術と情熱が足りないだけよ!」
私はレオンの灰色の瞳を真っ直ぐに睨み返した。
彼は私の剣幕に一瞬だけ目を細めたが、すぐに冷ややかな声音で言い返してきた。
「理想を語るのは勝手だ。だが、現実は違う。王都の職人ギルドが提供する技術でも、これが限界なのだ。貴様の焼いたあのパンが特異なだけであってな」
「じゃあ、私がその『限界』ってやつを叩き壊してあげるわ」
私は腕を組み、胸を張って宣言した。
「厨房はどこ? 今すぐ見せて。材料と設備さえあれば、私が本物のパンっていうものを、ここの連中全員に教えてあげる」
売られた喧嘩は買う。
それに、パン職人としてのプライドが、この状況を黙って見過ごすことを許さなかった。
レオンはしばらく無言のまま私を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……いいだろう。ただし、軍の厨房は遊び場ではない。結果が出せなければ、貴様には元の田舎へ帰ってもらうことになるぞ」
「望むところよ。後悔させてやるんだから」
私は不敵に笑い、トゲマルの頭を撫でた。
王都のパンの常識。
そんなもの、私が今日この場で、根こそぎ覆してやる。




