シーン4:強制連行と溺愛のプロローグ
「えっ……ちょ、ちょっと待って! 逃がさないってどういうこと!?」
手首を掴まれたまま、私はパニックに陥って叫んだ。
黒革の手袋越しでも伝わってくる、尋常ではない握力。決して痛くはないが、絶対に解かせないという鉄の意志を感じる。
「言葉通りの意味だ。貴様には、私の部隊と共に王都へ来てもらう」
騎士団長は淡々と告げた。まるで『明日の天気は晴れだ』とでも言うように、有無を言わさぬ口調で。
「はぁ!? 王都!? 冗談じゃないわよ! 私、これからこのパンを市場に売りに行って、今日の晩御飯代と借金の返済を……!」
「借金だと?」
彼の灰色の瞳が、微かにピクリと動いた。
そして視線を私から外し、背後でオロオロしているお父様へと向ける。
「男爵。貴殿の家の負債総額は?」
「ヒッ!? え、えっと……金貨三百枚ほどで……」
「三百か」
彼は鼻で笑うと、腰のポーチから何かを取り出し、無造作にお父様の足元へと放り投げた。
チャリン、と重々しい音を立てて転がったのは、王家の紋章が刻印された小袋。その隙間から、眩いばかりの金貨がこぼれ落ちている。
「なっ……!?」
お父様が目を剥いて固まった。
「金貨五百枚だ。これで借金を全額清算しろ。残りは当面の生活費だ」
「ご、ごひゃく……!? そ、そんな大金、受け取れません!」
「黙って受け取れ。これは、貴殿の娘の『価値』に対する正当な対価の一部だ」
彼は冷たく言い放つと、再び私へと視線を戻した。
「これで問題は解決したな。行くぞ」
「解決してない! 全然解決してない!! なんでパン焼いただけで、こんな拉致まがいのことされなきゃいけないのよ!」
私は必死に腕を引き抜こうとするが、彼の腕はビクともしない。
肩のトゲマルが「ピギャーッ!」と威嚇の声を上げるが、彼は一瞥しただけで全く意に介していなかった。
「拉致ではない。『徴用』だ。貴様のその技術は、国家規模の戦略的価値を持つ」
「だから大げさだってば! ただのパンだって言ってるでしょ!」
「ただのパンで、我が軍の歩兵が泣いて喜ぶと思うか」
彼の言葉に、周囲の兵士たちが一斉に深く頷いた。
先ほどパンを食べた若い兵士に至っては、拝むように私を見つめている。
ダメだ、完全に外堀を埋められている。
「……王都に行ったら、どうなるの?」
私は抵抗を諦め、ため息混じりに尋ねた。
「我が第一騎士団の専用厨房を貴様に与える。そこで、先ほどの『保存パン』を軍の標準食として大量生産する体制を整えてもらう。材料、設備、人員、すべて最高のものを手配しよう」
それは、前世のパン職人からすれば夢のようなオファーだった。
資金の心配をせず、最高の環境でパン作りに没頭できる。
……けれど。
「一つ、条件があるわ」
私は彼を見据え、はっきりと告げた。
「なんだ」
「私は、言われた通りにパンを焼く機械になるつもりはないわ。私が作るパンの味、焼き方、すべてにおいて私のやり方を尊重すること。口出しは一切無用。それが飲めないなら、王都になんて絶対に行かない」
生意気だと思われるかもしれない。でも、これだけは譲れなかった。
食を軽視し、兵士に石のようなパンを食わせる軍の『常識』。それを変えるには、私が主導権を握る必要がある。
騎士団長は、私の目をじっと見つめ返した。
その冷徹な灰色の瞳の奥に、わずかに――本当にわずかにだが、面白がるような光が宿った気がした。
「……いいだろう。貴様の技術の全容、とくと見せてもらおう」
彼はそう言って、ようやく私の手首から手を離した。
解放された手首をさすりながら、私は大きく息を吐き出す。
「名前は?」
突然の問いかけに、私は顔を上げた。
「……エリナ。エリナ・フォルティスよ」
「私はレオン・ヴァルディスだ。フォルティス男爵令嬢、今日からお前のパンは、私が責任を持って守り抜く」
レオンはそう宣言すると、踵を返して自分の馬へと向かった。
その背中を見送りながら、私は言い知れぬ不安と、ほんの少しの高揚感に包まれていた。
「……とんでもないことに巻き込まれちゃったわね、トゲマル」
「ピキュゥ……」
こうして、田舎の貧乏男爵令嬢だった私は、王都の騎士団長に強引に連れ去られることになった。
私の焼くパンが、ただの『美味しい食事』から、国を揺るがす『戦略資源』へと変わる、その最初の一歩。
王都で待っているのは、私の常識を覆すほどの、果てしない非常識と――。
この冷徹な騎士団長による、不器用で、重すぎる『溺愛』の日々だなんて。
この時の私は、まだ知る由もなかったのだ。




