シーン3:戦場の鬼が咀嚼する、黄金色の特異点
サクッ。
若い兵士の歯が、黄金色の表面を突き破る音が響いた。
それは、喧騒に包まれていた軍の隊列において、本来なら誰の耳にも届かないはずの、取るに足らない小さな音。
だが、その直後に周囲に巻き起こったのは、異様なまでの静寂だった。
「…………ッ」
一口かじったまま、兵士の動きが完全に停止する。
彼の見開かれた瞳孔が限界まで収縮し、口元が微かに震えている。
パリッと香ばしい外皮を抜けた先にあるのは、たっぷりとした水分を内包し、絹のように滑らかなパン生地だ。
前世の言葉で言えば『高加水』。それを実現するための二度焼きと、発酵バターの暴力的なまでの風味。
ごくり、と。
兵士の喉仏が大きく上下した。
それは無意識の嚥下だ。脳が理性をすっ飛ばし、身体が『もっと寄越せ』と生存本能を剥き出しにして唾液を分泌させている証拠。
「……う、あ……」
言葉にならない呻き声が漏れる。
兵士は狂ったような勢いで、残りの半分を口にねじ込んだ。
むしゃむしゃと咀嚼するたびに、彼の両目からボロボロと大粒の涙が溢れ出し、泥と土埃にまみれた頬に綺麗な筋を作っていく。
「なんだこれ……なんだこれッ! 噛める……血の味がしない……甘い、パンが、こんなに温かくて……ッ!」
咽び泣きながらパンを貪る姿は、異様の一言だった。
しかし、周囲の兵士たちの反応はさらに異常だった。
彼らはへたり込む若い兵士を取り囲み、文字通り『飢えた狼』のような目で彼の手元を凝視している。
「おい、嘘だろ……あいつ、水もなしにパンを飲み込んだぞ」
「それにあの匂い……鼻の奥がどうにかなりそうだ」
「一切れ……いや、欠片でもいいから、俺にも……」
どよめきが波のように広がり、彼らの纏う空気が『疲労』から『熱狂』へと塗り替わっていくのがわかる。
私はすかさず、バスケットの中に手を突っ込んだ。
「待って、押し合わないで! まだあるから!」
丸っこいパンを取り出し、素早く二つに割って最前列の兵士たちに手渡していく。
受け取った者たちは一様に目を丸くし、一口食べた瞬間に膝から崩れ落ちて天を仰ぐ者、顔を覆って泣き出す者まで現れた。
私の周りだけが、地獄の行軍から切り離された『オアシス』のような熱を帯びていく。
私の肩で、トゲマルが「ピキュピキュ!」と得意げに胸を張って鳴いている。
「すごい……本当に、パン一つでこんなに……」
私がその光景に圧倒されかけた、その時だった。
『――何事だ。歩調を乱すな』
低く、冷たく、それでいて圧倒的な質量を持った声が、場を凍らせた。
ピタリと。
群がっていた兵士たちの動きが止まる。
泣きながらパンを咀嚼していた者さえも、恐怖に顔を引きつらせて直立不動の姿勢を取った。
「だ、団長……ッ!」
兵士たちが慌てて道を空ける。
まるで海が割れるように開いた道の奥から、一頭の漆黒の軍馬が進み出てきた。
騎乗しているのは、周囲の空気をそこだけマイナス十度に冷やしたような、異様な威圧感を放つ男。
全身を覆うのは、装飾を一切排した実戦用の黒鋼の鎧。
そこには無数の刀傷が刻まれており、彼が潜り抜けてきた死線の数を物語っている。
漆黒の髪の間から覗くのは、氷のように冷たく、刃のように鋭い灰色の瞳。
年齢は二十代後半といったところか。整った顔立ちだが、一切の感情が削ぎ落とされたかのような無表情が、彼の容姿を彫刻のような冷たい美しさに変えていた。
「ピギィッ……」
肩のトゲマルが、私の首筋に震えながら隠れる。
無理もない。私も今すぐ全力で屋敷の中に逃げ帰りたくなるほどのプレッシャーだ。
彼こそが、お父様が言っていた第一騎士団の団長――『戦場の鬼』。
黒騎士は馬上から、冷ややかな視線を私へ、そして兵士たちの手に握られた黄金色のパンへと向けた。
彼は無言のまま馬から降りる。
『ガシャン、ガシャン』と、重い鉄のブーツが石畳を踏み鳴らす音が、私の心臓の音とリンクして響く。
長身の彼が目の前に立つと、まるで巨大な黒い壁に圧迫されているような息苦しさを覚えた。
「民間人。貴様が部隊の歩みを止めたのか。軍の行軍を妨害する行為は、重罪にあたるが」
淡々とした、事実だけを述べるような冷徹な声。
首をはねられても文句は言えない空気に、私の背筋に冷たい汗が伝う。
でも。
(――こんな顔色を悪くした兵士たちを歩かせ続けて、何が軍よ)
私は持ち前の負けん気に火がつくのを感じた。
視線を逸らさず、彼を真っ直ぐに睨み返す。
「妨害なんてしていません。倒れそうな兵士がいたから、食事を渡しただけです」
「食事?」
彼はわずかに眉を動かし、私の手元にあるバスケットへ視線を落とした。
「そんな軟弱な代物で、兵士の胃袋が満たされるとでも? 戦場において食糧とは、ただ命を繋ぐための燃料だ。嗜好品など持ち込む余地はない」
「……っ、食べもしないで文句を言わないでよね!」
私は反射的に、バスケットに残っていた最後の一個を掴み、彼の胸元に突きつけていた。
「っ……!」
「エ、エリナお嬢様ぁぁっ!?」
背後の屋敷からお父様の悲鳴が聞こえたが、もう遅い。
周囲の兵士たちが「あぁ、あの娘終わった……」と絶望的な顔で私を見ている。
だが、騎士団長は怒るでもなく、ただ静かに、私の突き出したパンを見つめていた。
「……いいでしょう。そこまで言うなら、検分してやる」
彼は黒革の手袋をはめた手で、私からパンを受け取った。
そして、一切の躊躇なく、無表情のままそれを口に運ぶ。
――ガリッ。
分厚い外皮が砕ける心地よい音。
誰もが固唾を呑んで見守る中、騎士団長の顎が動く。
一度、二度、三度。
……ピタッ。
唐突に、彼の咀嚼が止まった。
灰色の瞳が、信じられないものを見たかのように、わずかに見開かれる。
彼の喉が大きく動き、ゴクリとパンを飲み込む。
それから、彼は信じられない行動に出た。
無言のまま、すぐさま二口目に食らいつき、そのまま三口、四口と、息をするのも忘れたかのような勢いでパンを胃袋へと流し込み始めたのだ。
「え……?」
「だ、団長が、あんなにがっついて……」
兵士たちがざわめく。
彼の食べる速度は尋常ではなかった。味わうというより、身体の全細胞がその栄養を、その熱を、その味を『吸収』しようと暴走しているかのようだ。
あっという間にパンを平らげた彼は、手袋に付いたパン屑さえも名残惜しそうに見つめ、ゆっくりと息を吐き出した。
そして、私に向き直り――低く、地を這うような声で言った。
「……なんだこれは。こんな食べ物、王都にも存在しないぞ」
先ほどまでの冷徹な気配が消え、そこにあるのは純粋な驚愕と、底知れない熱を帯びた眼差しだ。
「なんだって言われても……ただのパンよ? 少し焼き方を工夫しただけの」
私は平然を装って答える。
彼は私との距離を一歩詰め、射抜くような視線でバスケットを指差した。
「嘘をつくな。あの外皮の硬さ、並のパンではない。だが内側には不自然なほど水分が保たれている。それにこの小麦と乳脂の圧倒的な香り……。貴様、これにどんな魔法を使った」
「魔法なんて使ってないわよ。ただ、水分量を多めに調整して、表面の温度を一気に上げて焼き固めただけ。そうすれば外は鎧のように硬くなって中身を守る。あとは低温でじっくり二度焼きして……」
私は職人の癖で、ついペラペラと製法を口走ってしまった。
「待て」
彼は鋭く私の言葉を遮った。
その灰色の瞳の奥で、恐ろしいほどの速度で思考が回転しているのがわかる。
「……表面を硬化させ、内側の水分を保護する。さらに二度焼きで全体の腐敗を防ぐ……? ということは、このパンは『この味のまま』長期保存が可能だと言うのか?」
「ええ、まあ。風通しのいい場所なら、一ヶ月はカビも生えずに持ち運べるはずよ。食べる時は少し炙れば元通りだし……」
私が何気なく答えた瞬間。
騎士団長の纏う空気が、劇的に変化した。
ただの驚きではない。それは、戦況を覆す『切り札』を見つけた将兵の顔。
「……常温で一ヶ月の保存が可能。しかもこの味、この柔らかさで、だ」
彼は誰にともなく呟く。
その言葉の意味を理解したのか、周囲の兵士たちが一斉にどよめきを上げた。
「保存が効く……? このパンが?」
「馬鹿な……じゃあ俺たちは、もう遠征で石をかじらなくて済むってことか……?」
彼らの顔に、希望という名の光が灯っていく。
私はきょとんと首を傾げた。
「あの……みんな、大げさじゃない? ただの美味しい携帯食よ」
「ただの携帯食だと?」
騎士団長が、呆れたような、それでいて獲物を逃さない捕食者のような目を私に向けた。
「貴様は何もわかっていない。兵站を制する者は戦を制す。この味、この保存性……お前のパンは、軍を救う」
彼は突然、黒革の手袋をはめた大きな手で、私の手首をガシッと掴んだ。
「ひゃっ!?」
「逃がさない。貴様をこのまま辺境で腐らせるわけにはいかない」
無表情の奥で、彼の瞳だけがギラギラと青い炎を燃やしている。
――パン一つで、なんだか大変なことになってきたかもしれない。
私は手首を掴む彼の強い力を感じながら、冷や汗を流すことしかできなかった。




