シーン2:借金まみれの朝と、招かれざる鉄と血の臭い
すっかり色褪せてしまった深紅の絨毯。
歩くたびに『ギィ、ギィ』と情けない悲鳴を上げる床板。
かつては豪奢だっただろう応接間は、今や没落貴族の代名詞のような侘しさを漂わせている。
その中央に置かれた、ひび割れたマホガニーのテーブルに突っ伏して、我がフォルティス家の当主――アルベルト・フォルティス男爵が、肩を震わせて泣いていた。
「うぅ……エリナぁ……どうしよう、王都の商人から今月分の利子の支払いを迫られているんだ……」
四十代半ばにしては随分と白髪の混じった頭を抱え、お父様はシワだらけの羊皮紙を握りしめている。
私はため息をつきながら近づき、その羊皮紙を指先でつまみ上げた。
ざらついた質の悪い紙からは、ツンと鼻を突く安物のインクの匂いがする。そこに殴り書きされているのは、容赦のない請求額だ。
「……なるほど。先月の不作で領民の税を半減させた分、丸ごとこっちにシワ寄せが来てるわけね」
「だって、村のトマス老人の家は屋根が壊れてしまって……修理代を出してあげないと、冬を越せないって言うんだもの……」
「それは領主として立派な心意気だけど、自分たちが冬を越せなくなったら本末転倒でしょうに」
呆れ半分、尊敬半分。
このお父様は、貴族社会のドロドロとした権力闘争には一切向いていないが、領民からは本物の聖者のように慕われている。だからこそ、私もこの家を見捨てられないのだ。
肩に乗ったトゲマルが、「ピキュゥ……」と心底同情するような鳴き声を上げて、お父様の頭にすり寄る。
「まあ、泣いていても金貨は降ってこないわ。お父様、顔を上げて」
私は手に持っていた大きなバスケットを、テーブルの上に『ドンッ』と置いた。
隙間からふわりと、焼き立ての小麦とバターの芳醇な香りが溢れ出す。
お父様は涙目で顔を上げ、鼻をひくひくさせた。
「え、エリナ? これは……」
「パンよ。今日からこれを市場で売って、当面の資金を作るわ」
「パ、パンで!? いやいや、いくらエリナの焼くパンが美味しいからって、そんなもので借金が返せるわけないじゃないか!」
お父様が慌てて両手を振る。
無理もない。この世界において、パンとは『硬くて不味い保存食』の代名詞だ。
水や薄いスープでふやかさなければ噛み砕くこともできず、味を楽しむどころか、ただ胃袋を膨らませるための石ころと同義。
それが金になるなど、この世界の常識ではあり得ないことなのだ。
「フフッ、わかってないわね。これはただのパンじゃないの」
私はバスケットにかかった布をサッとめくる。
朝の光を浴びて、黄金色に輝く丸っこいパンたちが顔を出した。
表面には均等にクープ(切れ込み)が入り、そこからパリッと美しく生地が弾けている。
「これを見なさいな。発酵の時間を緻密に計算し、温度管理を徹底した結果よ。それに、これは二度焼きして水分を極限まで飛ばした特別製。『携帯食』としての価値に特化させた、言わば『戦うためのパン』なのよ」
「た、戦うためのパン……? なんだか物騒な響きだね……」
お父様が目を白黒させている。
前世の知識を総動員して作り上げたこのパンは、長期保存が可能でありながら、噛み締めれば小麦本来の甘みが爆発するように設計してある。
兵站――つまり遠征における食糧問題は、いつの時代も軍の最大の課題だ。
もしこのパンを軍や商隊に卸すことができれば、男爵家の借金など一瞬で吹き飛ぶほどの利益を生む。私はそう確信していた。
「とにかく、私はこれからこれを市場に――」
言いかけた、その瞬間だった。
『――ドドドドドドドドドドッ!!』
突然、窓ガラスがビリビリと震え、腹の底に響くような重低音が響き渡った。
地震か、と思うほどの大地を揺るがす振動。
トゲマルが驚いて「ピギィッ!」と鳴き、私の首筋にギュッと顔を押し付けてくる。
「な、なんだ!? 何事だ!?」
お父様が椅子から飛び上がり、窓際へと駆け寄る。
私も慌ててその後を追い、色褪せたカーテンを力強く引き開けた。
目に飛び込んできたのは、静かな村のメインストリートを埋め尽くす、異様な集団だった。
巻き上がる土埃。
太陽の光を鈍く反射する、傷だらけの分厚いプレートアーマー。
軍馬のいななきと、鉄の擦れ合う重苦しい音。
そして何より――むせ返るような、強烈な血と汗の臭いが、窓の隙間から這い上がってきた。
「あれは……王都の、騎士団……?」
お父様が、震える声で呟く。
掲げられた旗には、王家の紋章である双頭の鷲が描かれていた。
だが、その旗は泥に汚れ、所々が引き裂かれている。
一目でわかった。彼らはパレードをしているわけじゃない。どこか遠くの過酷な戦場から、命からがら帰還した『遠征帰り』の部隊だ。
私は窓枠に手をつき、食い入るように彼らの姿を観察した。
歩調は重く、馬上の騎士たちでさえ、今にも崩れ落ちそうなほどに姿勢を崩している。
負傷者も多い。血の滲んだ包帯を巻き、肩を貸し合いながら歩く歩兵たちの姿がある。
しかし、私の目を釘付けにしたのは、彼らの『負傷』ではなかった。
「……ひどい」
思わず声が漏れた。
彼らの頬は異常なほどに痩せこけ、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
鎧の隙間から見える肌はカサカサに乾燥し、明らかに栄養失調の兆候を示していた。
これは、敵の刃によって受けた傷じゃない。
「飢え、だわ……」
私の呟きに、お父様がビクッと肩を揺らす。
長期間に及ぶ遠征。劣悪な兵站。
運ばれる食糧はすぐに腐り、残ったのはカビの生えた石のように硬いパンだけだったのだろう。
ちょうどその時、隊列の端を歩いていた若い歩兵が、ふらりと体勢を崩してその場にへたり込んだ。
私たちの屋敷の、すぐ目の前の石畳だ。
彼は荒い息を吐きながら、震える手で腰のポーチから何かを取り出した。
それは、灰色に変色した、レンガの塊のような物体。
軍の支給品である『標準パン』だ。
若い兵士はそれを口に運び、無理やり噛み砕こうとする。
だが、水分を完全に失い、岩のように硬化したそれを噛み割ることなどできはしない。
『ガリッ』という鈍い音とともに、兵士の顔が苦痛に歪む。彼はパンから口を離し、絶望的な目でその灰色の塊を見つめた。
「……こんなもの、食えるかよ……」
かすれた声が、風に乗って私の耳に届く。
彼の目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ち、土埃にまみれた石畳に黒い染みを作った。
ドクン、と。
私の胸の奥で、何かが激しく脈打つ音がした。
前世で料理を愛し、今世でもパン作りに情熱を注いできた私にとって、あの光景は『冒涜』に等しかった。
食事は、生きるための希望だ。
過酷な状況であればあるほど、美味しい一口がどれだけ人の心を救うか。
それを、あんな石ころで腹を塞がせ、挙句の果てに兵士を絶望させるなんて。
「……許せない」
私は無意識のうちに、窓から離れて踵を返していた。
「エ、エリナ!? どこへ行くんだ!」
「ちょっと、外の空気を吸ってくるわ」
「だ、ダメだ! あれはただの騎士団じゃない! 先頭の黒い鎧……あれは『戦場の鬼』と恐れられる第一騎士団の部隊だ! 近づけば何をされるか……!」
お父様の制止の声など、もう耳に入らなかった。
私はテーブルの上のバスケットをひったくり、肩のトゲマルを落とさないように気をつけながら、屋敷の玄関へと一直線に駆け出す。
重い木製の扉を勢いよく押し開ける。
『ギィィィッ!』と錆びた蝶番が鳴り、外の空気が一気に押し寄せてきた。
鉄の臭い。馬の汗の臭い。そして、淀んだ疲労の臭い。
息が詰まりそうになるほどの重苦しい空気の中へ、私は一歩を踏み出す。
まっすぐに、先ほどへたり込んだ若い兵士のもとへ。
周囲の兵士たちが、突然屋敷から飛び出してきた小柄な私を見て、ギョッとしたように目を見開く。
「おい、娘! 危ないぞ、下がれ!」
誰かが怒鳴り声を上げるが、私は足を止めない。
若い兵士の目の前まで歩み寄ると、しゃがみ込み、彼の視線に合わせて顔を覗き込んだ。
「あ、あんた……?」
兵士が虚ろな目で私を見る。
私は彼の手に握られた『灰色のレンガ』を無言で奪い取ると、背後の草むらへと容赦なく放り投げた。
「なっ……! 俺の配給が……!」
「あんなの、人間の食べ物じゃないわ」
私はバスケットの布をめくり、一番上に乗っていた黄金色のパンを手に取る。
そして、両手でしっかりと掴み――『パリッ!』と、真ん中から勢いよく真っ二つに割った。
その瞬間。
閉じ込められていた熱い蒸気が『ほわぁっ』と白く立ち昇り、濃密な小麦とバターの香りが、血と汗の臭いを暴力的なまでに塗り潰した。
「え……?」
若い兵士の目が、極限まで見開かれる。
周囲で歩みを止めていた他の兵士たちも、その場に縫い付けられたように動かなくなり、全員の視線が私の手元に集中した。
「これ、食べてみて」
私は割ったパンの半分を、呆然としている兵士の口元にぐっと押し付けた。
彼はまるで魔法にかけられたように、震える両手でそのパンを受け取る。
「柔らかい……温かい……」
信じられないものを見るように呟き、彼はゆっくりと、その黄金色の断面に口をつけた。




