シーン1:焼きたての香りが連れてくる、絶望的な朝
肺の奥まで焦がしてしまいそうな、香ばしくて甘い香り。
小麦の焼ける匂いというのは、どうしてこうも人を幸せな気分にさせるんだろう。
私は石組みの古めかしいオーブンの前で、額の汗を拭いながら熱い吐息を漏らす。
「ふぅ……よし。最高の焼き色」
木製のピールを差し込み、慎重に中身を取り出す。
現れたのは、表面がパリッと弾け、内側にたっぷりと水分を蓄えて膨らんだ黄金色の山。
パチパチ、ピチピチ。
焼き上がったばかりのパンが冷える過程で鳴らす『天使の拍手』が、静かな厨房に心地よく響く。
「ピキュッ、ピキュイ!」
足元で、愛らしい鳴き声がした。
見下ろすと、私の相棒――ハリネズミの『トゲマル』が、短い鼻をひくひくさせながら必死に背伸びをしている。
背中の針をふんわりと寝かせて、クリクリした黒い瞳で私を真っ直ぐに見上げてくる。その視線の先にあるのは、もちろん私の自信作だ。
「わかってるって。トゲマルの分もちゃんとあるから。でも、少し冷まさないと火傷しちゃうよ?」
しゃがみ込んで、トゲマルの小さくて丸い頭を指先で撫でる。
トゲマルは気持ちよさそうに目を細め、私の指にすり寄ってきた。
この子の体温を感じるたびに、ここが『前世』とは違う世界なんだという実感が、じわじわと胸に広がっていく。
前世の私は、どこにでもいる料理好きのOLだった。
仕事帰りにパン屋を巡るのが趣味で、週末は自宅で天然酵母を育てるような、ちょっとこだわりの強いタイプ。
それが、気づけばこの異世界の――しかも『超』がつくほどの貧乏男爵家、フォルティス家の長女エリナに転生していた。
この世界のパンは、正直言って絶望的だ。
王都のパンですら、石盤のように硬いか、あるいはボソボソとして砂を噛んでいるような食感。
それなのに、ここフォルティス領の素材は、前世の高級デパートでもお目にかかれないほどの一級品ばかり。
「見てよ、トゲマル。このバターの輝き。この村の牛さんたちは、本当になんていい仕事をするのかしら」
作業台の上に置いた、自家製の発酵バターを見つめる。
透き通るような白さと、濃厚なミルクの香り。
これに、近くの森で採れた野生の酵母と、石臼で丁寧に挽いた地元の小麦を合わせる。
それだけで、魔法なんて使わなくても、奇跡のような食べ物が生まれるのだ。
私はパンの端っこを少しだけちぎり、トゲマルの前に置いた。
トゲマルは待ってましたと言わんばかりに、小さな口を動かしてパンを頬張る。
その幸せそうな表情を見ているだけで、朝からの重労働の疲れも吹き飛ぶというものだ。
「……はぁ。でも、お腹が膨れても財布は膨らまないんだよねぇ」
ふと、窓の外に広がるのどかな田園風景を眺める。
鳥の声が聞こえ、朝露に濡れた緑がキラキラと輝いている。
平和だ。平和すぎて、ここが破産寸前の男爵領だということを忘れてしまいそうになる。
この家には、借金がある。
それも、笑えない額の。
お父様は優しくてお人好しすぎるし、お母様はそんなお父様を全力で肯定するお花畑さんだ。
領民たちの税を免除し、困っている人がいれば私財を投げ打って助けてしまう。
貴族としては満点かもしれないけれど、経営者としてはマイナス一万点。
だから、私がなんとかしなきゃいけない。
この『ちょっと美味しいパン』で。
「まずは、このパンを村の市場に持っていって……。それから、新しい保存方法の実験もしないと。二度焼きして水分を飛ばせば、遠征用の保存食として売れるかも」
脳内にある前世の知識をフル回転させる。
軍の兵站、ロジスティクス。
そんな難しい言葉は知らなくても、保存が効いて美味しい食べ物が、どれほどの価値を持つかはわかる。
戦地で戦う兵士たちが、石みたいなパンをかじって涙しているなんて噂、聞くだけで胸が痛むもの。
「よし、トゲマル。出発の準備だよ」
私は大きなバスケットに、黄金色のパンを詰め込んでいく。
温かな湯気と一緒に、私の希望も詰め込むように。
まだ、このパンが国の運命を変えるなんて、夢にも思っていない頃の話。
厨房を出ようとした、その時。
廊下の向こうから、お父様の情けない悲鳴が聞こえてきた。
「エリナぁ! 大変だぁ! また借金の督促状が届いたよぉ!」
「……もう、朝からうるさいなぁ」
私はやれやれと首を振り、トゲマルを肩に乗せた。
貧乏男爵家の朝は、今日も賑やか(絶望的)に幕を開ける。




