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田舎の貧乏男爵の娘ですが、前世の知識でパンを焼いていただけなのに王都の騎士団長に溺愛されてます〜気づけば兵站改革で国が強くなってました〜  作者: はりねずみの肉球
第6章:奪われた価値の証明

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シーン2:戦場の鬼の朝食と、予期せぬ来訪者

レオンが歩み寄ってくるにつれ、広場の空気がピシッと整列するような感覚に包まれる。

 先ほどまで私に群がっていた子供たちも、黒い軍服姿の長身の男が放つ威圧感に気圧されたのか、パンをかじったまま母親たちの後ろへとコソコソ隠れてしまった。


「おはよう、レオン。田舎の静けさには慣れた?」


私が粉だらけの手をエプロンで拭いながら声をかけると、レオンは私の目の前で立ち止まり、静かに息を吐き出した。


「どうにも調子が狂う。毎朝、訓練の喧騒や部下たちの怒号で目を覚ましていたからな。鳥のさえずりだけで朝を迎えるなど、いつ以来か思い出せん」


口では文句を言いながらも、彼の灰色の瞳には王都で見せていたような張り詰めた疲労の色はない。

 肩の力が抜け、どこか穏やかな空気を纏っている。それが、私の故郷であるこの村の空気がもたらしたものだと思うと、少しだけ誇らしい気分になる。


「ピギィッ」


私の足元で、トゲマルがレオンの黒いブーツをツンツンと短い前足で叩いた。

 レオンはわずかに視線を落とし、しゃがみ込むと、黒革の手袋をはめた指先でトゲマルの丸い頭を軽く撫でた。


「……おはよう、厄介な相棒。お前も朝からご苦労なことだ」

「ピキュゥ」


トゲマルは目を細め、満更でもない様子でレオンの指にすり寄る。

 王都の部屋で助けに来てくれた時から、この一人と一匹の間には奇妙な絆が芽生えているらしい。

 私はその様子を微笑ましく見守りながら、作業台の奥に置いてあったバスケットの布をめくった。


「はい、お待ちかねの朝ご飯よ。一番大きく膨らんで、クープのエッジが綺麗に立ったやつを、あなた専用に取っておいたんだから」


私が両手で差し出したのは、他の子供たちや兵士たちに配ったものより一回りも大きな、特大の黄金色カンパーニュだ。

 レオンは立ち上がり、それを受け取ると、表面のひび割れから漏れ出すバターの香りを深く吸い込んだ。


「……相変わらず、理性を削り取るような暴力的な匂いだ」


彼は真顔のままそう呟き、大きく口を開けてかぶりついた。

 バリィッ! と、分厚いクラスト(外皮)が砕ける凄まじい音が響く。

 その瞬間、彼の細い眉が微かに持ち上がり、目元が柔らかく緩んだ。

 初めて私のパンを食べた時の、あの飢えた獣のようにただ胃袋へ流し込む食べ方じゃない。生地の甘み、バターの芳醇さ、そして小麦の香りを、口の中でしっかりと味わい、噛み締めている。


「……美味い」


ぽつりとこぼれたその一言に、彼自身の深い実感がこもっている。


「でしょ? 今日の生地は、水分の馴染み方が完璧だったのよ。発酵の温度も、この村の朝の冷気がちょうどよくて……」


私が嬉々として解説を始めると、レオンは黙々とパンを咀嚼しながら、空いている方の手で私の頬に触れた。


「んっ……?」


彼の大きな親指が、私の頬にこびりついていた白い小麦粉を、そっと優しく拭い取ってくれる。

 不器用な手つき。でも、その指先から伝わる体温はひどく熱い。

 広場の隅で、兵士たちが「おぉっ……」と顔を見合わせてニヤニヤしているのが視界の端に入る。


「ちょ、ちょっと、レオン。みんな見てるわよ」


私が小声で抗議すると、彼は全く動じることなく、涼しい顔でパンの二口目にかぶりついた。


「見させておけばいい。私が私の特任顧問の世話を焼いて、何が悪いのだ」


「もう……本当に過保護なんだから」


私は熱くなった頬をごまかすように、自分用の小さなパンの欠片を口に放り込んだ。

 サクサクとした食感と、じゅわっと広がる甘み。

 うん、今日の出来も最高だ。


「そういえば、王都からの定期報告はどうだったの? この村のバターの納品量、ちゃんと軍の需要に追いついてるかしら」


パンを飲み込みながら尋ねると、レオンは満足そうに頷いた。


「完璧だ。ギルドの解体後、流通の再編は滞りなく進んでいる。お前の実家からのバターの供給も安定しており、第一騎士団の兵站はかつてないほどの水準を維持している。……先日の西の国境防衛戦でも、お前のパンが兵士たちの命を確実に繋いだ」


「そっか。よかった」


胸の奥にあった小さな不安が、ふっと溶けて消えていく。

 私が世界に解き放った技術は、もう一部の権力者のものではなく、この国の人々を守り、豊かにするための『当たり前の力』として定着しつつあるのだ。


「お前が恐れるようなことは、もう何も起きない。この平穏は、私がこの剣にかけて保証する」


レオンが腰に帯びた長剣の柄に軽く手を添え、真っ直ぐに私を見つめる。

 その灰色の瞳に宿る絶対的な自信と、私への不器用な愛。

 私はふわりと微笑み、彼の腕にそっと自分の手を重ねた。


「ええ、信じてるわ。私の最強の盾さん」


私たちが二人だけの穏やかな空気を共有していた、その時。


――ガラガラガラッ。


村の入り口へと続く街道の方から、車輪が石畳を叩く音が聞こえてきた。

 振り向くと、見慣れない粗末な荷馬車が、砂埃を巻き上げながら広場へと近づいてくるのが見えた。

 御者台には初老の男性が座り、荷台には大きな木箱がいくつも積まれている。

 そして、その木箱の隙間から、一人の少女がひょっこりと顔を出した。


「あっ、おじいちゃん! あそこ! 石窯があるよ!」


少女の弾むような声が、広場に響く。

 馬車がゆっくりと広場の中央で停止すると、少女は荷台から身軽に飛び降りた。

 年齢は私より少し下、十四、五歳くらいだろうか。亜麻色のおさげ髪に、所々粉で汚れた素朴なエプロン姿。

 彼女はきょろきょろと周囲を見回し、私の姿――いや、私の前にある巨大な石窯と、作業台の上のパンを見つけると、目を真ん丸に見開いて一直線に駆け寄ってきた。


「あ、あのっ!」


少女は私の前でピタリと立ち止まり、荒い息を吐きながら深く頭を下げる。


「もしかして、あなたが……エリナ・フォルティス様ですか!?」


「え、ええ。そうだけど……あなたは?」


突然の来訪者に私が戸惑っていると、少女はパッと顔を上げ、花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。


「私、東のルルティア村から来ました、ミーナです! ミーナ・ルルティア! エリナ様にお手紙をお出しした……!」


「ミーナ……!」


私は弾かれたように声を上げた。

 王都の厨房で、レオンが持ってきてくれたあの手紙。

 私が無料公開したレシピをもとに、地方の村でホエイとバターを組み合わせ、独自の進化を遂げたパンを焼き上げたという、あの天才少女。


「まぁ、よく遠いところから来てくれたわね! 手紙、ちゃんと読んだわよ。ホエイを使った水分調整、本当に素晴らしいアイデアだったわ」


私が興奮気味に両手で彼女の手を握りしめると、ミーナは顔を真っ赤にしてモジモジと身をよじった。


「ほ、本当ですか!? 嬉しい……っ! 私、ずっとエリナ様に会いたくて、おじいちゃんにお願いして馬車を出してもらったんです!」


「おいおい、そんなに急に押しかけて、男爵家のお嬢様に失礼じゃないか」


御者台から降りてきたおじいさんが、苦笑いしながらミーナの頭を軽く小突く。

 私は慌てて首を振った。


「失礼だなんて、とんでもない! 私の方こそ、ミーナちゃんのパンを食べてみたかったのよ」


「ほ、本当ですか!?」


ミーナはパァッと顔を輝かせると、急いで荷馬車へと駆け戻り、大切そうに布に包まれた籠を抱えて戻ってきた。


「エリナ様が広めてくれた焼き方で、うちの村のミルクとチーズをたっぷり使って焼いてみたんです。……どうか、食べてみてください!」


ミーナが籠の布をめくる。

 その瞬間、私は息を呑んだ。

 広がるのは、私が焼いたカンパーニュとは全く違う、優しくて、どこか酸味のある複雑なチーズとホエイの香り。

 丸い生地の表面には、私が教えたクープの入れ方とは違う、美しい花びらのような模様の切れ込みが入り、そこからチーズが黄金色に焦げてはみ出している。


「これ……すごいわ。生地のハリも完璧だし、何よりこの香り……」


私は震える手で、そのパンを手に取った。

 隣で見ていたレオンも、その完成度の高さに驚いたように目を細めている。


私はパンを二つに割り、一口かじった。

 ……衝撃だった。

 ホエイが持つ乳酸菌の力が、生地に信じられないほどのしっとり感と、奥深い旨味を与えている。私が教えた基礎の『高加水』を完全に理解した上で、自分の村の強みを最大限に活かしきった、全く新しいパン。


「……美味しい。すっごく、美味しいわ、ミーナちゃん」


私が心の底からの賛辞を口にすると、ミーナの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。


「よかったぁ……っ! 私、エリナ様のレシピで、村のみんなが笑顔になるのを見て、どうしても直接お礼が言いたかったんです……!」


泣きじゃくるミーナを、私は優しく抱きしめる。

 彼女の背中を撫でながら、私は視界の端でレオンを見た。

 彼もまた、ミーナの持ってきたパンの欠片を口に運び、深く頷いている。


私が撒いた種は、王都の権力闘争を終わらせただけじゃない。

 こうして地方の村にまで届き、私を超える新しい才能を生み出し、さらなる美味しさの連鎖を作り出している。

 技術を囲い込まず、世界と共有するという選択は、絶対に間違っていなかった。

 このミーナの涙と、彼女の焼いた完璧なパンが、何よりもその『価値』を証明していたのだ。

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