シーン1:還ってきた故郷と、変わらない黄金色の朝
風が、黄金色に色づき始めた麦穂を揺らして通り過ぎていく。
ザワザワ、サラサラ。
どこまでも続く柔らかな波音が、フォルティス領のなだらかな丘を駆け下りて、村の広場の中央に新しく据えられた巨大な石窯へと吹き込んでくる。
「よし、温度は完璧。中の熱気も均一に回ってるわね」
私は窯の入り口にそっと手をかざし、肌を刺すような力強い熱気に満足げに頷いた。
エプロンの紐をきゅっと結び直し、作業台の上にずらりと並んだ、発酵を終えたばかりの生地の山に向き直る。
王都でのあの激動の日々から、数ヶ月。
私とレオンは、第一騎士団の地方巡検という名目で、私の故郷であるこのフォルティス領へと足を運んでいた。
「ピキュッ! ピキュピキュッ!」
足元では、トゲマルが短い手足をパタパタと動かして、私の周りを忙しなく走り回っている。
彼の背中の針には、うっすらと白い小麦粉がまぶされている。すっかりこの村の子供たちのアイドルとなった彼は、毎朝こうして私のパン作りの『監督』をするのが日課になっていた。
「わかってるわよ、トゲマル監督。今から窯に入れるから、少し下がっててね。火傷しちゃうから」
私が笑いかけると、トゲマルは「ピギィ」と得意げに鳴いて、数歩だけ後ろに下がり、ちょこんと丸くお座りをした。
私は表面にたっぷりと打ち粉を振った生地に、カミソリのように鋭い刃で、スッ、スッと迷いなくクープ(切れ込み)を入れていく。
生地の表面が微かに弾け、中から水分をたっぷりと含んだ柔らかな内層が顔を覗かせる。
そこに、このフォルティス領が誇る最高級の発酵バターを、細かく切って薄く挟み込む。
「エリナお姉ちゃん、パン、まだ焼けないのー?」
「オレ、昨日からずっとお腹すかせて待ってるんだぞ!」
広場の隅から、村の子供たちがわらわらと駆け寄ってくる。
泥だらけの服を着た男の子も、髪に野花を飾った女の子も、みんな一様に目をキラキラと輝かせ、私の手元と石窯を食い入るように見つめていた。
「もうすぐよ。今から魔法をかけるところだから、みんなトゲマルと一緒に数数えて待っててね」
「いーち! にーい!」
子供たちの元気な合唱を背中に受けながら、私は長い木製のピールを使って、生地を次々と灼熱の石窯の中へと滑り込ませていく。
ジュウゥゥッ、と。
生地が熱い石板に触れた瞬間、微かな水蒸気が弾ける音が響く。
私は素早く窯の鉄扉を閉め、中の熱と蒸気を完全に閉じ込めた。
数ヶ月前のこの村は、のどかではあったけれど、どこか諦めに満ちた空気が漂っていた。
借金に追われるお父様。屋根の修理もままならない老人たち。
でも、今は違う。
私が王都で『レシピの無料公開』を行ったあの日から、この村の運命は劇的に変わったのだ。
村の特産品である発酵バターと上質な小麦は、私が考案した『二度焼きカンパーニュ』に最も適した素材として、王都の商人たちから飛ぶように買い付けられるようになった。
お父様の借金はあっという間に完済され、村には新しい水車が建ち、広場にはこうして、誰もが自由に使える巨大な共同石窯が作られた。
遠くから聞こえてくるのは、新しく建った牛舎を掃除する男たちの笑い声や、朝摘みの果実を運ぶ女たちの鼻歌。
豊かさという名の熱が、この村の隅々にまで行き渡っている。
「……あの時、ギルドの金貨を受け取らなくて、本当によかった」
私は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、ポツリと呟いた。
もしあの時、私があの閉ざされた厨房で金貨の箱に目が眩み、技術を独占する道を選んでいたら。
王都の権力者は肥え太ったかもしれないが、この村の子供たちが、こんなにも無邪気な笑顔で朝を迎えることは絶対に無かったはずだ。
やがて、石窯の隙間から、暴力的なまでの甘い香りが漏れ出し始めた。
焦げた小麦の香ばしさと、沸騰したバターの濃厚なミルクの匂い。
それが朝の風に乗って広場中に拡散すると、子供たちの数える声がピタリと止まり、全員が一斉にゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえた。
「はわぁ……いい匂い……」
「お姉ちゃん、もういい!? もう食べられる!?」
「ふふっ、慌てない慌てない。そろそろ出すわよ」
私は厚手のミトンをはめ、石窯の扉を勢いよく引き開けた。
ブワァッ! と白い熱気が溢れ出し、その奥から黄金色に輝く丸々としたパンたちが姿を現す。
ピールで取り出し、作業台の上に並べる。
パチパチ、ピチピチ。
冷たい外気に触れた極薄のクラスト(外皮)が、微かにひび割れながら『天使の拍手』を鳴らし始める。
割れ目からは、溶け出したバターがジュワジュワと音を立てて滲み出し、太陽の光を反射してキラキラと輝いている。
「わぁぁっ!!」
子供たちが歓声を上げ、石窯の周りに群がってくる。
「ほら、並んで並んで。熱いから気をつけてね」
私は焼き上がったばかりのパンを大きなナイフでザクザクと切り分け、湯気を立てる断面を上にして、子供たちが差し出す小さな両手の中へと乗せていく。
「あちっ、あちちっ! でも、すっげぇ美味そう!」
男の子が、熱さに顔をしかめながらも、我慢しきれずにパンの端っこにかぶりつく。
サクッ、という快音。
次の瞬間、彼の目が限界まで見開き、咀嚼する口元から幸せなため息がこぼれ落ちた。
「おいしーっ! 外がパリパリで、中がふわっふわだ!」
「バターがじゅわってする! エリナお姉ちゃんのパン、世界で一番おいしい!」
「ありがとう。いっぱい食べて、大きくなるのよ」
口の周りをパン屑だらけにして笑う子供たちの頭を、一つずつ優しく撫でていく。
私が作っているのは、世界を変える戦略物資なんかじゃない。
ただ、この目の前の小さな胃袋を満たし、笑顔を作るための、ほんのちっぽけな食べ物だ。
でも、そのちっぽけな食べ物が、結果としてこの国全体を繋ぎ、豊かにしてしまった。
「エリナ先生。我々にも、その……一つ、分けていただけないでしょうか」
不意に背後から声をかけられ、振り返る。
そこには、広場の警備に就いていた第一騎士団の兵士たちが、大きな体を縮こまらせて、もじもじと立っていた。
彼らの視線は、作業台の上に残っている黄金色のカンパーニュに完全に釘付けになっている。
「もちろんよ。あなたたちも、朝早くからご苦労様。はい、一番大きなところ」
「おおっ! ありがとうございます! やはりエリナ先生の直筆……いや、直焼きのパンは、王都の食堂で食うものよりさらに香りが強い気がします!」
屈強な兵士が、涙ぐみながらパンを両手で受け取る。
王都の大厨房の料理長たちが焼くパンも完璧な出来栄えだが、私がこうして生地に触れ、自分の手で焼き上げる姿を見ることで、彼らにとっては特別な『ご馳走』に感じるのだろう。
私は、自分が置かれている状況の変化を、改めて噛み締める。
ただの田舎の貧乏男爵令嬢だった私は、今や軍の最重要人物として扱われ、こうして護衛の騎士たちに囲まれながらパンを焼いている。
立場は全く違う。背負っているものの大きさも、比較にならない。
それでも。
(……私の手つきは、何も変わってないわね)
白い粉まみれになった自分の両手を見つめる。
生地の温度を感じ、水分の声を聞き、火の機嫌を取る。
やっていることは、あの借金取りに怯えていた小さな厨房の頃と、一ミリも変わっていない。
それが、ひどく誇らしかった。
「……ピギィッ!」
突然、足元でパン屑を拾い食いしていたトゲマルが、何かの気配を察知したように顔を上げ、広場の入り口の方を向いて鋭く鳴いた。
兵士たちの空気も、一瞬にしてピシッと引き締まる。
彼らが食べていたパンを飲み込み、一斉に直立不動の姿勢を取って敬礼をした。
「団長! おはようございます!」
私は作業台の粉をエプロンで払いながら、その声の先へと視線を向ける。
朝の眩しい日差しを背に受けて、ゆっくりとした足取りでこちらへと歩いてくる、背の高い影。
黒鋼の鎧ではなく、休暇用の少しラフな黒い軍服を身に纏い、それでも隠しきれない圧倒的な存在感を放つ男。
「お前ら、訓練前にずいぶんといい物を食っているようだな。……羨ましい限りだ」
レオン・ヴァルディス。
この国の軍の頂点に立つ『戦場の鬼』は、呆れたような、それでいてどこか優しげな口調で兵士たちに声をかけながら、私の前へと真っ直ぐに進んできた。
彼と目が合う。
その瞬間、私の胸の奥で、焼き上がったばかりのパンよりも温かくて、甘い感情がふわりと膨らむのを感じた。




