シーン3:交わる技術(レシピ)と、新しい夢の始まり
ミーナの涙が落ち着くのを待ってから、私は彼女の手を引いて、小麦粉の舞う作業台の前へと誘った。
「泣いている場合じゃないわよ、ミーナちゃん。せっかく遠くから来てくれたんだもの。……一緒に、パンを焼きましょう」
「えっ……? わ、私が、エリナ様と一緒にですか!?」
ミーナが目を白黒させて驚く。
私は大きく頷き、彼女に予備の白いエプロンを手渡した。
「ええ。あなたのホエイとチーズの生地に、うちの村の最高級の発酵バターを折り込んでみるの。絶対に、誰も食べたことがないようなすごいパンが焼けるはずよ」
「は、はいっ! やります!」
ミーナはパァッと表情を輝かせ、急いでエプロンを身につけた。
私たちは隣同士に並び、木製の大きなボウルに向かい合う。
彼女が持参したルルティア村の濃厚なホエイ(乳清)と、フォルティス領の小麦粉。それを混ぜ合わせる彼女の手つきは、十四歳とは思えないほど滑らかで、確かな職人のリズムを持っていた。
「すごいわ、ミーナちゃん。水分の見極めが完璧ね」
「エリナ様のレシピに書いてあった通りです! 『生地が呼吸する声を聞く』って。最初は分かりませんでしたけど、毎日捏ねているうちに、本当に生地が『もうお水はいらないよ』って教えてくれるようになったんです」
ミーナが照れくさそうに笑う。
私は彼女が捏ね上げた生地を受け取り、冷やしておいた発酵バターを素早く、何層にも折り込んでいく。
私の技術と、彼女の技術。
王都と地方の知識が、この小さな作業台の上で混ざり合い、新しい形へと進化していく。
それは、技術を独占していたかつてのギルドでは、絶対に生まれ得なかった奇跡の光景だった。
「ピギィ!」
作業台の端から、トゲマルが身を乗り出して私たちの手元を熱心に観察している。
ミーナは「わぁ、可愛い!」と目を輝かせ、粉だらけの指でトゲマルの鼻先をツンと突いた。トゲマルもすっかり彼女が気に入ったのか、針を寝かせて「ピキュゥ」と甘えた声を出す。
そんな私たちの姿を、広場の端から静かに見守っている影があった。
黒い軍服姿のレオンだ。
彼は腕を組み、背の高い樫の木に寄りかかったまま、柔らかな日差しの中で生地と戯れる私たちから目を離そうとしない。
「……平和ですね、団長」
護衛の若い兵士が、レオンの隣に立ち、眩しそうに目を細めて呟いた。
「あぁ。五年前の雪原では、想像もできなかった光景だ」
レオンは低く応え、灰色の瞳に深い安堵の色を滲ませる。
「あの小さな娘が、紙切れ一枚でこの国の形を変えた。剣を振るって敵を殺すことしか知らなかった私に、何かを生み出し、分け与えることの強さを教えてくれたのだ」
「俺たちも同じです。エリナ先生のパンを食うようになってから、剣の振り方まで変わった気がします。なんというか……ただ生き残るためじゃなく、明日も美味い飯を食うために、生きて帰ろうって」
兵士の言葉に、レオンはフッと口角を上げ、静かに頷いた。
「それが、彼女の証明した『価値』だ。我々第一騎士団は、その価値が未来永劫失われないよう、最強の盾としてこの国を守り抜く。……これほど誇り高い任務はない」
二人の会話が風に乗って微かに聞こえ、私は思わず口元をほころばせた。
発酵を終えた生地にクープを入れ、熱々の石窯の中へと滑り込ませる。
待つこと、数十分。
窯の扉を開けた瞬間、広場を包み込んだのは、今までで一番複雑で、暴力的なまでに芳醇な香りだった。
「焼けました……!」
ミーナが歓声を上げる。
ピールで取り出したパンは、ホエイの効果で外皮が美しい赤褐色に染まり、クープの割れ目からはチーズとバターが溶け合って黄金色のマグマのように溢れ出していた。
パチパチという天使の拍手が、二人で作り上げた傑作の誕生を祝福している。
「ミーナちゃん、大成功よ」
「はいっ! エリナ様、私……パンを焼くのが、もっともっと好きになりました!」
粉まみれの手でハイタッチを交わし、私たちは顔を見合わせて笑い合った。
その時、私の中で、ずっと漠然としていた『これから』の形が、はっきりと輪郭を結んだ。
私は焼き上がったパンをカッティングボードに乗せ、ゆっくりとレオンの方へと歩み寄った。
彼は木から背を離し、私を真っ直ぐに迎え入れる。
「レオン。私、新しい夢ができたわ」
私が宣言すると、レオンはわずかに目を細めた。
「新しい夢、だと?」
「ええ。この数ヶ月、私は軍の特任顧問として、兵士たちのためだけにパンを焼いてきた。でもね、ミーナちゃんを見て確信したの。この国には、まだまだパン作りの才能を持った子たちがたくさん眠っているわ」
私は振り返り、広場の真ん中でパンの熱気に目を輝かせているミーナや、村の子供たちを見つめた。
「ガルドたちのギルドは解体された。でも、ただ組織をなくすだけじゃダメなの。今度は、技術を独占するためじゃなく、互いに教え合い、新しい味を共有するための場所が必要よ」
「……共有するための場所、か」
「そう。王都に『パン職人の学校』を作りたいの。身分も、年齢も、お金があるかどうかも関係ない。パンを愛して、美味しいもので誰かを笑顔にしたいって思う人なら、誰でも通える開かれた学校をね」
それが、私がこの世界に生まれ変わった意味。
前世で培った知識をばら撒き、終わらせるのではなく、次の世代へと繋ぎ、無限に広げていくための壮大な計画だ。
私の無謀とも言える提案を聞いて、レオンは……フッと、喉の奥で低く笑った。
「……王都の一等地に、身分不問の学校を建てるだと? また途方もないことを思いつく。貴族院の保守派どもが聞いたら、泡を吹いて倒れるぞ」
「だから、私の『最強の盾』さんに相談してるんじゃない」
私が悪戯っぽく上目遣いで見つめると、レオンは笑みを深め、私の頭にポンと大きな手を乗せた。
「いいだろう。王都の南区に、没収したローディア公爵家の巨大な倉庫跡地がある。あそこを丸ごと改装して、世界最大の石窯を作らせよう」
「えっ……本当に!?」
「私が二言を口にしたことがあるか? 予算の確保から貴族院の説得まで、すべて私が引き受ける。お前はただ、その学校の『初代校長』として、最高の授業をする準備だけしておけばいい」
その即答ぶりに、私は思わず目を丸くした。
なんという行動力。そして、なんという過保護な権力の使い方だろう。
「レオン……あなたって、本当に……」
「言ったはずだ。お前の歩く道を切り拓くのが、私の役目だと」
レオンは私の頭を撫でていた手を滑らせ、私の頬をそっと包み込んだ。
大勢の兵士たちや村人が見ている前だというのに、彼の灰色の瞳は、私以外の世界を完全に締め出しているかのように熱を帯びている。
「お前がどこまで高く飛ぼうと、私は必ずその場所にお前のための安全な空を用意する。……だからエリナ、もう私の手の届かないところへは行くな」
それは、鳥籠の鍵を捨てた彼なりの、最大級の愛の告白だった。
私は頬を染めながらも、彼のその不器用な優しさから逃げる気は全く起きなかった。
むしろ、彼の用意してくれる途方もなく大きな空で、思い切り羽ばたいてみたいと心から思えたのだ。
「ええ。約束するわ、レオン。……一緒に、誰も見たことがないくらい美味しい世界を作りましょう」
私が微笑み返すと、彼は満足そうに頷き、私の額にそっと唇を落とした。
「ひゃっぁぁ!?」
広場から、ミーナや村の子供たちの悲鳴のような歓声と、兵士たちの冷やかしの口笛が一斉に鳴り響いた。
私は茹でダコのように顔を真っ赤にして、レオンの胸元をポカポカと叩く。
「ちょっと! みんな見てるって言ったのに!」
「夫婦の契りを交わすのに、他人の目など気にする必要はない」
「ふうふっ!? だ、誰が夫婦よ! まだそんな約束――!」
「今からするのだ。拒否権はないぞ」
平然と言ってのける戦場の鬼に、私は完全に反論の余地を塞がれてしまった。
呆れと、隠しきれない喜びが入り混じる。
澄み切った青空の下。
香ばしいパンの匂いと、大勢の笑い声に包まれたこの広場は、私たちが共に歩んでいく新しい未来の、最高のスタートラインだった。




