シーン2:鳴り止まない感謝と、世界を塗り替える報告書
第一騎士団総本部の巨大な大食堂は、鼓膜が破れそうなほどの熱狂的な喧騒に包まれていた。
かつて、灰色の石ころを無言で咀嚼するだけの地獄だったこの場所は、今や王都で最も笑顔と活気に満ちた空間へと変貌を遂げている。
「エリナ先生! 今日も俺たちのために、最高のパンをありがとうございます!」
最前列に並んだ若い歩兵が、顔をくしゃくしゃにして私に敬礼をする。
彼のお盆に乗っているのは、外は鎧のようにバリッと硬く、中は羽毛のように柔らかい『二度焼きのカンパーニュ』だ。そしてその横には、温かい肉と豆のシチューが湯気を立てている。
「大げさね。私はただ、料理長さんたちと一緒に生地を捏ねただけよ。ほら、冷めないうちに早く席につきなさいな」
私が木べらを持って笑いかけると、後ろに並んでいた屈強な兵士たちからも、次々と声が上がる。
「大げさなもんか! 俺たち第三部隊が先週の遠征を生き延びられたのは、あんたのパンのおかげだ!」
「そうだ! 公爵の私兵どもに囲まれた時も、腹に力が入ったから負けなかったんだ! エリナ先生は、俺たちの命の恩人だぜ!」
口々に投げかけられる、熱を帯びた感謝の言葉。
ただの『食事係』に向けられるものではない。戦場で背中を預け合う戦友、あるいは奇跡をもたらした救世主に対するような、純粋で重たい敬意がそこにはあった。
「みんな……」
あまりにも真っ直ぐな好意を大量に浴びて、私は思わず言葉を詰まらせる。
顔がカッと熱くなるのがわかった。
私はただ、自分が食べたい美味しいパンを焼いただけ。硬いパンで泣く彼らを見るのが、ただ嫌だっただけ。
それなのに、彼らは私の作ったパンに『命の恩人』という途方もない価値をつけてくれた。
「ほらほら、野郎ども! エリナ嬢ちゃんが照れて赤くなっちまってるじゃねぇか! 飯をもらったらさっさと食え! 後ろがつっかえてるぞ!」
厨房の奥から、料理長が大きな玉杓子を振り回して助け舟を出してくれる。
兵士たちは「おおっ!」と元気よく返事をして、嬉しそうにパンを抱えてそれぞれのテーブルへと散っていった。
「……ふぅ。毎日これだと、生地を捏ねるより体力がいるかもしれないわ」
私が額の汗を拭いながら小さく息を吐き出すと、すぐ隣から、冷たくも心地よい低音が響いた。
「人気者は辛いな。だが、彼らのその態度は、お前が自らの手で勝ち取った正当な評価だ」
振り返ると、いつの間にか黒鋼の鎧に身を包んだレオンが立っていた。
彼が食堂に現れた瞬間、兵士たちの喧騒がピシッと引き締まった空気に変わるが、以前のような『恐怖』による静寂ではない。誰もが、公爵邸を陥落させ、軍の食糧問題を完全に解決したこの若き騎士団長に対し、絶対的な信頼の眼差しを向けている。
「レオン。また視察のふりして、パンの端っこをつまみ食いに来たの?」
「人聞きの悪いことを言うな。今日は、お前に直接渡すべき報告書があって来た」
レオンは真顔のまま、小脇に抱えていた革張りのバインダーを開き、数枚の羊皮紙を取り出して私に手渡した。
インクの真新しい匂いがする。
「これは?」
「王都および、各地方都市からの経済・兵站報告書だ」
私が羊皮紙に視線を落とすと、そこには驚くべき数字が羅列されていた。
「小麦の流通量が……先月の三倍? それに、地方の農村からの税収が軒並み上がってる……?」
「あぁ。お前がパンのレシピを無料公開したことで、特権階級に独占されていた『食の娯楽』が、一気に平民の手に渡った。人々は競って美味しいパンを焼こうとし、結果として小麦、塩、そして発酵バターなどの副産物の需要が爆発的に高騰した」
レオンは私の隣に立ち、報告書を指差しながら淡々と解説を続ける。
「ギルドの中抜きがなくなった分、利益は直接、地方の農民や酪農家の懐に入っている。特にお前の実家であるフォルティス領のバターは、今や王都の市場で一番の高値で取引されているそうだ」
「お父様が……借金を自力で返せるくらいに?」
「借金どころか、来年には王都に別邸を構えられるほどの黒字になるだろうな」
レオンがフッと口角を上げる。
信じられない。私がばら撒いた知識が、人々の胃袋を満たすだけでなく、国の経済そのものを根底から豊かにし始めているのだ。
「さらに、これを見ろ」
レオンがめくった次のページには、東の国境守備隊からの報告が記されていた。
『各村々における兵糧の現地調達率、九十パーセントを達成。行軍速度の大幅な向上を確認』
「……これって、どういうこと?」
「簡単な話だ。お前のレシピが地方に浸透したことで、どの村に立ち寄っても、あの『長期保存が可能で美味いパン』が手に入るようになった。わざわざ王都から重い荷馬車を引いて兵糧を運ぶ必要がなくなったのだ」
レオンは私を見下ろし、その灰色の瞳に熱い誇りを滲ませる。
「第一騎士団の兵站は、もはや点と線ではない。この国全体が、我が軍を支える巨大な兵糧庫へと進化した。……お前がパンの知識を『共有』したことで、この国は他国が束になっても敵わない、鉄壁の防衛力と機動力を手に入れたのだ」
ドクン、と。
私の胸の奥で、心臓が大きく跳ねた。
ただのパン職人の私が、国の軍事力すらも変えてしまった。
実感なんて、ずっと湧かなかった。でも、目の前に提示された数字と、食堂で笑い合う兵士たちの姿が、それが決して夢物語ではないことを証明している。
「お前がやったのだ、エリナ。お前が、この国を根底から強くした」
レオンの低く、確信に満ちた声が、私の背中を力強く押してくれる。
「……なんか、怖くなってきちゃった。私がこんなに大きなことを成し遂げたなんて」
私が思わず震える手で羊皮紙を抱きしめると、レオンはスッと手を伸ばし、私の肩を優しく抱き寄せた。
以前のような、私を鳥籠に閉じ込めようとする強引な引き寄せ方じゃない。
私が倒れないように、そして逃げ出さないように、隣でしっかりと『支える』ための腕。
「怖がる必要はない。お前が生み出した価値は、お前自身が責任を持って背負う。……そして、そのお前の背中を、私が全力で守り抜く。それだけのことだ」
レオンの言葉に、私は顔を上げ、彼を見つめ返す。
冷徹な戦場の鬼の顔はどこにもない。そこにあるのは、私という一人の職人を心から認め、対等なパートナーとして隣に立つことを選んだ、一人の不器用な男の素顔だった。
「……うん。そうね。私が世界にばら撒いたんだから、最後までちゃんと見届けるわ」
私は小さく笑い、彼の腕の温もりにそっと身体を預けた。
食堂の喧騒は、いつまでも鳴り止まない。
私が奪われた日常は、もっと大きくて、もっと眩しい形になって、私の手元に帰ってきたのだ。




