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田舎の貧乏男爵の娘ですが、前世の知識でパンを焼いていただけなのに王都の騎士団長に溺愛されてます〜気づけば兵站改革で国が強くなってました〜  作者: はりねずみの肉球
第6章:奪われた価値の証明

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シーン3:『戦場の鬼』の告白と、冷たい鎧の下の傷痕

大食堂の熱狂から少し離れ、私たちは第一騎士団総本部の最上階――巨大な監視塔の屋上へと足を運んでいた。

 西の空に沈みゆく夕日が、王都グランヴェルザの街並みを燃えるような茜色に染め上げている。遠くの煙突からは、夕飯の支度だろうか、細い煙がいくつも立ち上り、風に乗って微かな薪の匂いと、そして……あちこちから、パンの焼ける甘い香りが漂ってきていた。


「すごい景色ね。王都中が、オレンジ色に光ってる」


私は石造りの冷たい手すりに身を乗り出し、眼下に広がる街並みを見下ろした。

 肩の上で、トゲマルも「ピキュゥ」と鳴いて、夕日を眩しそうに見つめている。


「あぁ。この要塞から見える景色の中で、今日が一番美しい」


私のすぐ隣で、レオンが静かに呟く。

 夕日の赤みを帯びた彼の横顔は、いつもの冷徹な『戦場の鬼』の仮面が完全に外れ、一人の青年のように穏やかな表情を浮かべていた。風が彼の漆黒の髪を揺らし、黒鋼の鎧がカチャリと微かに鳴る。


「レオン」


私は手すりから身体を離し、彼の横顔を真っ直ぐに見つめた。


「前から、ずっと聞きたかったことがあるの。……どうしてあなたは、あんなにも私のパンに、そして私自身に執着したの? ただ軍の兵站を良くしたいだけなら、あんな風に私を鳥籠に閉じ込めてまで、独占しようとする必要はなかったはずよ」


出会ったあの日。彼は私のパンを一口食べただけで、その価値を戦局を覆す戦略兵器だと見抜いた。ただのグルメや美食家ではない、食に対する異常なまでの分析力と執念。

 そして、私の自由を奪ってでも手元に置こうとした、あの重すぎる過保護。

 すべての背後には、彼自身の何か『個人的な理由』があるような気がしてならなかった。


私の問いかけに、レオンはすぐには答えなかった。

 彼は視線を遠くの地平線へと向け、長い、ひどく重たい溜息を吐き出す。

 そして、手すりを掴む黒革の手袋をギリッと握りしめた。


「……五年前だ」


低く、地の底から響くような声が、夕暮れの風に溶ける。


「私はまだ一部隊の隊長に過ぎず、北方の極寒の地へ遠征を命じられた。相手は国境を脅かす野蛮な蛮族ども。戦力は拮抗していたが、何より過酷だったのは、天候と……劣悪極まりない兵站だった」


彼の灰色の瞳の奥に、過去の吹雪が吹き荒れるのが見えたような気がした。

 私は息を殺し、彼の言葉に耳を傾ける。


「荷馬車は雪に足を取られ、補給線は完全に断たれた。手元に残ったのは、あのギルドが作っていた、石のように硬く、カビの生えた標準パンだけだ。……だが、それすらも数日で底をついた」


レオンの声が、微かに震えている。


「兵士たちは、雪をすくい、木の根を噛み、最後には革のベルトを煮込んで飢えを凌ごうとした。……敵の刃で死んだ者は数えるほどしかいなかった。私の部下たちは皆、飢えと寒さで幻覚を見ながら、私の腕の中で次々と凍りついていったのだ」


「レオン……」


「最後に残った副官が、事切れる直前に私に言った。……『団長、死ぬ前に一度でいいから、温かくて柔らかいパンが食べたかったですね』と」


ギリッ、と。

 手すりを掴む彼の手の甲に、青筋が浮かび上がっている。

 無感情な戦場の鬼。そう呼ばれる彼が、どれほどの絶望と無力感を、その冷たい鎧の下に隠し続けてきたのか。

 食べ物がないということが、どれだけ人間の尊厳を奪い、心を壊していくか。

 彼はそれを、地獄の底で嫌というほど味わってきたのだ。


「私は己の無力を呪った。剣の腕がどれだけ立とうが、兵の腹を満たすことはできない。だから私は、第一騎士団のトップに立つと同時に、兵站の改善を最優先課題とした。……だが、王都のギルドは特権に胡坐をかき、何度要求してもあの不味い石ころしか出してはこなかった」


レオンはゆっくりと私の方へ顔を向け、その切実な灰色の瞳で私を射抜いた。


「そんな時だ。お前が現れたのは」


彼の大きな手が伸びてきて、私の頬をそっと包み込む。

 黒革の手袋を外し、素手で触れてくる彼の指先は、不器用で、ひどく熱かった。


「お前が泥まみれの歩兵に差し出した、あの黄金色のパン。一口食べた瞬間、私は五年前の雪原に引き戻されるような衝撃を受けた。これがあれば、もう誰も無駄死にさせることはない。私の部下たちを、もう二度と飢えで失わずに済むと」


「……だから、私を強引に連れてきたのね」


「あぁ。私はお前の技術に、狂ったように縋りついた。だから、あのローディア公爵が裏で動いていると知った時、私は恐怖したのだ。……お前を失うことが、どうしようもなく恐ろしかった」


レオンの言葉が、私の心臓をドクンと強く打ち鳴らす。

 軍の戦略物資としてではない。彼自身の、魂の救済として。


「私はお前を部屋に閉じ込め、二重三重の鍵をかけ、見張りを置いた。あの公爵どもと同じだ。価値を独占し、己の不安を打ち消すために、お前の自由を奪った。……結果として、お前をあの危険な地下牢へと追いやる原因を作ってしまった」


彼の手が私の頬から離れ、自責の念に駆られるように、力なく下へと落ちようとする。

 私はその手を、空中で両手でガシッと掴んだ。


「エリナ……?」


「バカね、レオンは」


私は彼の手を自分の胸元に引き寄せ、真っ直ぐに彼を見つめ返した。


「あなたが私を閉じ込めたのは、私が大切だったからでしょ? やり方はすっごく強引で、腹が立ったけど……でも、あなたの不器用な優しさは、ちゃんと私に伝わってたわよ。あの発酵バター、わざわざ取り寄せてくれたじゃない」


「……あんなもの、気休めにもならなかっただろう」


「ううん、あれがあったから、私は公爵の屋敷でも絶対に折れないって誓えたの。あなたが私を守ろうとしてくれたように、私も自分の力で、私のパンの価値を証明してやろうって」


私は彼の手を包み込む力を強め、ニッと笑ってみせた。


「それに、もう私を閉じ込める必要はないでしょ? レシピは国中に広まった。あなたの部下たちが遠征で飢えることは、もう二度とないわ」


「……あぁ、そうだな」


レオンは私の言葉に、憑き物が落ちたような、深い安堵の息を吐き出した。

 そして、彼の方から私の両手を握り返し、ゆっくりと距離を詰めてくる。

 夕日の逆光を背に受けた彼の顔が、すぐ目の前まで迫る。


「お前は、私が用意した鉄の鳥籠を自らの手で壊し、世界を救ってみせた。……もう、私がお前を『守る』という言葉は、傲慢でしかないな」


「じゃあ、これからはどうするの?」


私が上目遣いで尋ねると、レオンの口角がわずかに上がり、今までで一番優しく、そして力強い笑みを浮かべた。


「守るのではない。……これからは、お前の隣で、お前の歩く道を切り拓く『盾』として、お前を全力で支えよう」


その宣誓は、騎士団長としての命令ではなく、一人の男としての、私への絶対的な忠誠の誓いだった。

 ドクン、ドクンと、重なり合った手から彼の熱い鼓動が伝わってくる。

 私の胸の奥も、同じくらい激しく鳴っていた。


「……ふふっ。盾にするには、ちょっと過保護すぎる気もするけど。でも、悪くないわね」


私が笑いかけると、レオンは堪えきれないように私の身体を抱き寄せた。

 黒鋼の鎧の冷たさすらも、今の私には心地いい。

 トゲマルが私たちの間で「ピキュッ」と少し潰されたような声を上げて、私の肩までよじ登って逃げ出した。


夕日が完全に地平線に沈み、王都に夜の帳が降り始める。

 街のあちこちで灯る魔石の明かりが、まるで星空のように美しく輝いている。

 かつては絶望と理不尽に満ちていたこの国は、私たちが起こした『パン革命』によって、確実に豊かで温かいものへと生まれ変わっていた。

 もう、奪われるだけの日常は来ない。

 私は彼に支えられながら、彼と共に、明日を焼き上げていくのだ。

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