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田舎の貧乏男爵の娘ですが、前世の知識でパンを焼いていただけなのに王都の騎士団長に溺愛されてます〜気づけば兵站改革で国が強くなってました〜  作者: はりねずみの肉球
第6章:奪われた価値の証明

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シーン1:約束の黄金パンと、崩れ去った旧体制

第一騎士団総本部の大厨房に、かつてないほど濃厚で、暴力的なまでの甘い香りが満ちていた。

 分厚い石窯の扉の隙間から漏れ出す熱気が、私の額に薄っすらと汗を浮かばせる。だが、その熱すらも心地よい。

 私は焦る気持ちを抑えながら、窯の中の温度と生地の膨らみを、小さな小窓から食い入るように見つめていた。


「ピキュッ、ピキュピキュッ!」


足元の作業台で、トゲマルが後ろ足で立ち上がり、鼻先をひくひくと動かして狂喜のダンスを踊っている。

 無理もない。今、窯の中で爆発的に膨らんでいるのは、ただのパンではないのだ。

 レオンが私のために、早馬を飛ばして実家のフォルティス領から取り寄せてくれた、最高級の発酵バター。それを、通常の三倍近い量、惜しげもなく生地に折り込んだ『特製のバター・カンパーニュ』。


「待っててね、トゲマル。今、バターの層が生地の中で沸騰して、極限まで旨味を閉じ込めているところだから」


私は厚手のミトンを両手にはめ、深く息を吸い込んだ。

 あの公爵邸での凄まじい夜明けから、すでに太陽は高く昇り、王都は新しい一日を始めている。

 私たちは無事に要塞へと帰還し、私は真っ先にこの厨房へと向かった。泥だらけの服を着替え、エプロンを締め直して、あの冷徹な騎士団長との『約束』を果たすために。


「よし、今よ!」


私は石窯の重い鉄扉を引き開け、長いピールを差し込んで、奥で黄金色に輝く丸い塊を一気に引きずり出した。


――バチバチッ、ピチピチピチッ!


外の空気に触れた瞬間、パンの表面が微かにひび割れ、大音量の『天使の拍手』が厨房に鳴り響く。

 凄まじい湯気。

 発酵バターの芳醇なミルクの香りと、焦げた小麦の香ばしさが一体となり、嗅覚を通して脳の芯を直接揺さぶってくる。

 表面には、バターの油分で揚げ焼きにされたような、恐ろしく薄くてパリパリの極上クラスト(外皮)が形成されていた。


「完璧だわ……前世の私でも、ここまで完璧な焼き上がりは出せなかった」


私がカッティングボードの上にパンを移し、その美しさに見惚れていた、その時だった。


「……その暴力的な匂いは、兵士たちの訓練の邪魔になるな」


背後から、低く、少しだけ掠れた声が降ってきた。

 振り返ると、そこには黒鋼の鎧を脱ぎ、漆黒の詰襟の軍服に身を包んだレオンが立っていた。

 首元を少しだけ緩め、いつもは完璧に撫でつけられている漆黒の髪が、微かに乱れている。徹夜の事後処理で疲労困憊のはずなのに、その灰色の瞳には、隠しきれない期待の光が宿っていた。


「レオン! ちょうど焼き上がったところよ。約束、ちゃんと果たしたからね」


「あぁ。王宮での詰まらん会議を抜け出してきた甲斐があった」


レオンはカツンとブーツを鳴らして作業台に歩み寄り、湯気を立てる黄金色のカンパーニュを真っ直ぐに見下ろす。


「切るわよ。火傷しないように気をつけてね」


私は波刃のパン切り包丁を構え、カンパーニュの中央に刃を当てた。


――ザクゥッ!!


刃が沈んだ瞬間、サクサクという軽快な音と共に、閉じ込められていた熱烈なバターの香りが、白い蒸気となって爆発的に噴き出した。

 内側の生地クラムは、幾重にも折り重なったバターの層が空洞を作り、まるで黄金の絹糸が絡み合ったような美しい蜂の巣状になっている。


私はその一番良い中心部分を切り出し、木のお皿に乗せてレオンへと差し出した。

 彼は無言のまま、手袋を外した大きな素手でそれを受け取る。

 そして、一切の躊躇なく、大きな口を開けてかぶりついた。


バリィッ!


小気味良い音が厨房に響く。

 レオンの咀嚼が、一度、二度と動いたところで――ピタリと止まった。


「……」


彼の灰色の瞳が、限界まで見開かれる。

 噛み締めるたびに、極限まで熱せられた発酵バターの濃厚な旨味が、高加水生地のもっちりとした食感と絡み合い、口の中で暴力的なまでの甘みに変わっていく。

 ごくりと喉仏が動き、彼はそのまま二口目、三口目と、まるで飢えた獣のようにパンを胃袋へと流し込み始めた。


「ど、どう? 美味しい?」


私が恐る恐る尋ねると、レオンは最後の一欠片まで飲み込み、手についたパン屑を惜しそうに舐め取ってから、深く、深く息を吐き出した。


「……美味い、などという陳腐な言葉で表現できる次元ではないな。このパンを公爵邸で焼いていたのなら、あの豚どもが狂ったように執着した理由も頷ける」


「ふふっ。私のフォルティス領のバターと、私の腕が合わさったんだもの。無敵に決まってるわ」


私が胸を張ると、レオンはわずかに口角を上げ、私の頭をポンと撫でた。


「そうだな。お前の勝ちだ、エリナ」


その言葉には、ただのパンの味に対する賛辞以上の、重い意味が込められていた。

 私は少しだけ表情を引き締め、彼を見上げる。


「会議を抜け出してきたって言ってたけど……事後処理は、どうなったの?」


「完全に片がついた」


レオンは私の隣に腰を下ろし、まだ湯気を立てている残りのパンの端をちぎりながら、淡々と語り始めた。


「お前が見つけ出した『裏の帳簿』。あれが決定打となった。軍の食糧庫への放火指示、傭兵団への違法な資金提供。すべての証拠を貴族院の議会に叩きつけてやった」


「公爵は……抵抗しなかったの?」


「喚き散らしてはいたが、言い逃れができる証拠ではなかったからな。結果として、ローディア公爵は爵位を剥奪され、国家反逆の罪で王立地下牢へ収監された。公爵家は事実上の取り潰しだ」


取り潰し。

 この国で最も権力を持ち、特権階級の象徴だったあの大貴族が、たった一夜で完全にその地位を失ったのだ。


「それだけではない。公爵と癒着し、技術の独占で暴利を貪っていた『パン職人ギルド』にもメスが入った。ギルド長ガルドは公爵の共犯として逮捕。ギルドが持っていた王都での小麦粉と塩の独占流通権は、法的に無効化された」


「無効化されたってことは……」


「あぁ。これからは、誰でも自由に小麦を買い、誰でも自由にパンを焼いて売ることができる。ギルドは解体され、ただの職人の互助組合へと再編されることになった」


レオンの言葉が、私の心臓をドクンと大きく跳ねさせた。

 誰でも自由にパンを焼ける。

 それこそが、私がレシピを無料公開した時に、一番望んでいた世界だ。

 一部の特権階級が美味しいものを独占し、下々の者が石のようなパンをかじる理不尽な構造。それが、法と制度の面からも完全に破壊されたのだ。


「お前がばら撒いたレシピは、もはや国が保護する『公用技術』として認定された。これからは、王都だけでなく、すべての地方の村々で、お前の考案したパンが合法的に焼かれ、民の胃袋を満たしていく」


レオンは私を真っ直ぐに見据え、灰色の瞳に深い敬意を滲ませた。


「お前がやったのだ、エリナ。お前が、この国の腐りきった秩序を根底からひっくり返し、新しい時代を作り上げた」


「私が……」


私は自分の白いエプロンを見下ろし、粉まみれになった両手をぎゅっと握りしめる。

 ただ、不味いパンを食べて泣いている兵士たちを見過ごせなかっただけ。

 ただ、美味しいものをみんなで分かち合いたかっただけ。

 その小さな願いが、これほどまでに巨大な変化を生み出したという実感が、今になってようやく全身に押し寄せてきた。


「……なんだか、信じられない。私が、国を変えちゃったなんて」


「自覚しろ。お前はもう、ただの田舎の男爵令嬢ではない。この国の兵站を救い、民衆に新しい価値を与えた英雄だ」


「英雄なんて柄じゃないわよ。私はただのパン職人だもの」


私が照れ隠しに笑うと、レオンはフッと短く息を吐き、立ち上がった。


「そうだな。お前はただの職人でいい。政治の泥被りや、お前を利用しようと群がってくるハイエナどもの相手は、すべて私が引き受ける」


彼は黒革の手袋をはめ直し、いつも通りの、隙のない『戦場の鬼』の顔に戻る。

 だが、その声色には、以前のような私を鳥籠に閉じ込めようとする支配的な響きはなかった。


「お前はもう、私の背中に隠れて守られるだけの存在ではない。お前自身の価値が、お前自身をこの世界で立たせている。……だが、それでも」


レオンは一歩だけ私に近づき、私の頬にこびりついていた小麦粉を、指の腹で優しく拭い取った。


「お前がその腕を振るい続ける限り、私は何度でもお前の盾になろう。……これからは、対等な共犯者としてな」


対等な共犯者。

 その言葉が、私の胸の奥にじんわりと温かく染み込んでいく。

 もう、狭い鉄格子の中に閉じ込められることはない。私は自分の足で立ち、自分のパンで世界を幸せにしながら、この不器用で優しすぎる騎士団長と共に歩んでいくのだ。


「ええ。よろしく頼むわね、私の優秀な盾さん」


私が最高の笑顔で答えると、レオンは微かに目を細め、静かに頷いた。

 厨房の小窓から差し込む眩しい朝の光が、二人の影を石畳の上に長く伸ばしていた。

 戦いは終わった。ここから始まるのは、誰もが美味しいパンを頬張り、笑顔で明日を語り合える、本当に豊かな日常だ。

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