シーン4:朝焼けの帰還と、檻を捨てた二人の新しい距離
公爵邸の崩れ落ちた正門を抜けると、東の空が白み始め、夜と朝の境界線が森の木々を淡い黄金色に染め上げていた。
ひんやりとした朝露の匂いが、肺の奥底まで染み渡る。
庭園の石畳には、武装解除され、ロープで縛り上げられた公爵の私兵たちがずらりと並ばされている。かつてこの屋敷で絶対的な権力を振るっていた公爵とガルドは、すでに罪人用の護送馬車に押し込まれ、王都へ向けて出発した後だった。
「エリナ様!」
私がレオンの漆黒の軍馬の傍に立っていると、屋敷の奥からリリアとトーマスが駆け寄ってきた。
二人とも、徹夜の騒ぎで顔に煤をつけているが、その表情は今までで一番明るく、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「二人とも、怪我はなかった?」
「はい! 騎士団の皆様が、私たち使用人は安全な裏庭に避難させてくださいましたから」
リリアがホッとしたように笑う。
私はエプロンのポケットから、コルク栓をした小さなガラス瓶を取り出し、リリアの手に握らせた。
「エリナ様、これは……?」
「あの暖炉でパンを焼いた時に使った、元気な『酵母ちゃん』の半分よ」
私がウインクをすると、リリアの目が大きく見開かれる。
「公爵がいなくなったこのお屋敷の管理は、しばらく王家が引き継ぐことになると思うわ。でも、あなたたちはもう、誰かのために不味い石ころパンを我慢しなくていい。その種を継ぎ足して、美味しいパンを焼き続けなさい。もし王都に来ることがあったら、第一騎士団の厨房を訪ねてきて。いつでも大歓迎するから」
「……っ、エリナ様……!」
リリアはガラス瓶を胸に抱きしめ、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
トーマスも目を赤くして、何度も何度も深く頭を下げる。
権力に縛られていた彼らは、もう立派な一人の職人であり、自分の人生を切り開く力を持っている。私の手から離れたパンの技術が、彼らをこれからずっと支えてくれるはずだ。
「さぁ、行くぞエリナ」
頭上から、レオンの低い声が降ってくる。
彼の手綱捌きで、巨大な黒馬がブルルと低くいななき、私のすぐ横へと歩み寄ってきた。
レオンは馬上から身を乗り出し、黒革の手袋をはめた大きな手を私に向かって差し出す。
「乗れ。私にしがみついていれば落ちない」
「えっ……私も、これに乗るの?」
「馬車など手配している暇はなかったからな。それとも、私が抱えて走った方がいいか?」
「冗談言わないでよ」
私は苦笑し、彼の手をしっかりと握り返した。
グンッ、と体が宙に浮き、次の瞬間には、私はレオンのすぐ前、馬の鞍の上に横座りのような形で抱き上げられていた。
背中には、レオンの分厚い胸板と硬い黒鋼の鎧の感触。
私の腰には彼の力強い腕が回され、完全に逃げ場のない密着状態になる。
「ひゃっ……ちょっと、レオン、近すぎない!?」
「暴れるな。馬が驚く」
耳元で囁かれる低音に、私の顔が一気に熱を持つ。
肩に乗っていたトゲマルが「ピキュゥ」と鳴いて、居心地の良さそうなレオンのマントの裏地へと潜り込んでいく。相変わらず、ちゃっかりしたハリネズミだ。
『――全軍、王都へ帰還する! 歩調を合わせろ!』
レオンの号令と共に、第一騎士団の部隊が一斉に行軍を開始する。
ズシン、ズシンと、数百の馬の蹄が大地を揺らす。私たちはその先頭を切り、朝靄の立ち込める森の街道を、王都へ向けてゆっくりと進み始めた。
朝の冷たい風が頬を撫でる。
でも、背中から伝わってくるレオンの体温がひどく熱くて、寒さは全く感じない。
しばらく無言のまま揺られていると、頭上からポツリと、彼の声が降ってきた。
「……私の負けだ」
「え?」
私が首だけを動かして見上げると、レオンは前方の街道を見据えたまま、自嘲気味に口角をわずかに上げていた。
「お前を安全な箱に閉じ込めて、私だけが守り抜く。それが最善だと信じていた。だが、お前はその箱すらも自分の力で破壊して、外の敵まで平らげてみせた。……私の過保護は、お前の価値を殺すだけの愚行だったと思い知らされたよ」
その言葉には、今まで彼が纏っていた『支配者』としての傲慢さは一切なく、ただ純粋な敗北宣言のような、心地よい響きがあった。
「愚行だなんて言ってないわ。あなたが私を守ろうとしてくれたこと、すっごく嬉しかったんだから」
私は彼に背中を預けたまま、素直な気持ちを口にする。
「でもね、私はやっぱり、あなたの背中に隠れて震えているだけじゃダメなのよ。あなたが最前線で剣を振るうなら、私はその背中を支えるためのパンを焼く。そうやって、隣に並んで戦いたいの」
「……隣、か」
レオンは低く呟き、私の腰に回した腕の力を、ほんの少しだけ強めた。
「お前の隣に立つには、私もずいぶんと己を鍛え直さねばならないらしい。剣の腕だけでは、到底釣り合わんからな」
「ふふっ、そうね。まずはパンの生地を綺麗に丸める練習から始めてもらうわよ、団長さん」
冗談めかして笑うと、彼も「お手柔らかに頼む」と短く息を吐いて笑った。
私たちの関係は、確実に変わった。
戦場の鬼と、それに拉致されたパン職人の娘。そんな奇妙な力関係は崩れ去り、互いの価値を認め合い、背中を預け合う対等なパートナーへと。
鋼鉄の檻を捨てた彼との距離は、以前よりもずっと近く、そして何より温かい。
やがて、森の木々が途切れ、視界が一気に開けた。
朝日を背に受けてそびえ立つ、巨大な王都グランヴェルザの城壁。
昨夜の放火の煙はすでに風に流されて消え、空はどこまでも澄み切った青色に広がっている。
そして――。
「……ねえ、レオン。この匂い」
「あぁ。風に乗って、ここまで届いているな」
城門が近づくにつれ、私たちの鼻をくすぐったのは、昨夜の焦げ臭い煙の匂いではなかった。
それは、暴力的なまでに甘く、香ばしい、焼きたての小麦の匂い。
公爵やギルドといった『古い支配者』が消え去った王都の街で。
名もなき市民たちが、私が無料公開したレシピをもとに、自分の手で生地を捏ね、自分たちのためのパンを一斉に焼き始めている匂いだ。
「すごい……。王都の匂いが、完全に変わっちゃった」
「お前が変えたのだ、エリナ。……これが、お前の証明した『価値』の全貌だ」
レオンが誇らしげに囁く。
私が生み出したパンは、軍を救い、大貴族の陰謀を打ち砕き、そして今、この国全体を新しい時代へと塗り替えようとしている。
誰かが価値を独占する世界は終わり、美味しいものを美味しいと笑い合える、そんな当たり前の世界が、ここから始まっていくのだ。
「さぁ、帰るぞ。私たちの居場所へ」
「ええ。一番美味しいバターのパンを焼くって約束、果たさなきゃね」
私たちは光に包まれた王都の城門へと、真っ直ぐに馬を進めていった。
奪われるだけだった日常を自らの手で取り戻し、共に前へ進む。
パンで国を変えた少女と、不器用な騎士団長の革命の物語は、ここから最大の『結末』へと向かっていくのだった。




