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田舎の貧乏男爵の娘ですが、前世の知識でパンを焼いていただけなのに王都の騎士団長に溺愛されてます〜気づけば兵站改革で国が強くなってました〜  作者: はりねずみの肉球
第6章:奪われた価値の証明

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シーン3:蹂躙される権力と、提示される『反逆の証明』

地鳴りのような怒号と、硬質な鉄と鉄がぶつかり合う音が、粉々になった窓枠の外から波のように押し寄せてくる。

 吹き込む夜風が、私のエプロンの裾と、公爵の執務室の千切れたタペストリーを激しく揺らす。


「ば、馬鹿な……! 私兵部隊は何をしている! 第一騎士団を門から一歩も入れるなと命じたはずだぞ!」


ローディア公爵が、床に転がった短剣を拾い上げるのも忘れ、窓の外の惨状を見下ろして絶叫する。

 だが、彼の誇る私兵部隊が、あの『戦場の鬼』を止められるはずがない。

 眼下の庭園では、松明の明かりに照らされた黒鋼の鎧の集団が、まるで黒い濁流のように公爵の兵たちを飲み込んでいる。

 剣を交えるまでもない。圧倒的な気迫と練度の差、それに加えて、トーマスたち使用人の工作サボタージュによって武器もまともに抜けない私兵たちは、第一騎士団の突進の前に、枯れ葉のように次々と吹き飛ばされていく。


「ひ、ひぃぃっ……! 公爵様! お逃げください、このままでは我々も……!」


ガルドが顔面を蒼白にし、這うようにして部屋の奥へと後ずさる。

 だが、逃げ道などすでにどこにも存在しない。


ズンッ、ズンッ。


廊下の奥から、重く、規則的なブーツの音が近づいてくる。

 それは無数の足音ではない。たった一人の、しかし、百の軍勢よりも恐ろしい圧倒的な『死』を纏った足音だ。

 腹の底を直接揺さぶるようなその響きに、腹を押さえてうずくまっていた四人の私兵たちすら、恐怖に顔を引きつらせて後ずさりをする。


――ドゴォォォンッ!!


執務室の重厚なマホガニーの両開き扉が、まるで紙切れのように内側へと吹き飛んだ。

 蝶番が千切れ、分厚い木の板が床を滑り、壁に激突して凄まじい音を立てる。

 舞い上がる木屑と砂埃。

 その向こう側の暗がりから、一人の男がゆっくりと姿を現す。


漆黒の軍馬から降り立ち、返り血一つ浴びていない完璧な黒鋼の鎧。

 手には、抜き身の長剣。

 そして何より恐ろしいのは、彼の灰色の瞳に宿る、絶対零度の殺意だ。

 部屋に入ってきた瞬間に、空気の温度が急激に下がったように錯覚するほどのプレッシャー。


「レオン……ッ」


私の唇から、安堵と喜びの混じった声が漏れる。

 レオンは部屋の中を一瞥し、私と、私の背後に庇われるようにして震えているリリアの姿を視界に収める。

 私が無傷で立っているのを確認した瞬間、彼の瞳の奥で渦巻いていた吹雪のような殺気が、ほんのわずかに――だが確かに、安堵の熱へと溶けるのがわかった。


「……遅くなったな、エリナ」


低く、少しだけ掠れた声。

 たった数日会わなかっただけなのに、彼がここにいるという事実だけで、張り詰めていた心の糸がふっと緩みそうになる。


「き、貴様ぁッ! レオン・ヴァルディス! 自分が何をしているのか分かっているのか!」


公爵が、ステッキを震える手で握り直し、金切り声を上げる。


「大貴族の私領地に軍を率いて押し入るなど、明確な国家反逆罪だ! 貴族院が、そして国王陛下が、この暴挙を許すはずがないぞ!」


公爵の吠えるような言葉に、レオンは冷たく鼻を鳴らす。

 彼はゆっくりとした足取りで部屋の中央へと進み、抜き身の長剣の切っ先を、公爵の喉元へと真っ直ぐに突きつけた。


「ヒッ……!」


「反逆、だと? 笑わせるな、豚め。我が軍の最重要機密であり、私の所有物である『特任顧問』を拉致したのだ。お前の屋敷を根絶やしにするには、それだけで十分すぎる大義名分だ」


「そ、所有物だと……!? たかが小娘一人のために、お前は自分の首を飛ばす気か!」


「お前には、あの娘の価値が永遠に理解できんようだな。だが、法に縋るしか能のないお前に教えておいてやろう」


レオンの瞳が、残酷なまでの冷たさを帯びる。


「私がここに踏み込んだ時点で、貴族院の決定などすでに紙屑だ。私はお前をこの場で斬り捨て、私兵の暴走による『不慮の事故』として処理する。誰が文句を言おうと、圧倒的な武力の前には沈黙するしかないのだ。それが戦場の……いや、この世界の真理だ」


淡々と告げられる死の宣告。

 レオンの言葉がハッタリではないことを悟り、公爵の顔から完全に血の気が引く。

 ガルドに至っては「ひぃぃぃっ!」と情けない悲鳴を上げ、自らの尿でズボンを濡らしながら床にへたり込んだ。


レオンは本気だ。

 私のために、大貴族を暗殺し、その泥を一生被る覚悟でここに来たのだ。

 その不器用で重すぎる愛に、胸が熱くなる。

 でも、私は彼にそんな汚れ役を背負わせるために、この部屋のデスクを暴いたわけじゃない。


「待って、レオン!」


私は彼と公爵の間に割って入り、公爵の喉元に突きつけられた剣の前に両手を広げて立ち塞がった。


「エリナ、退け。そいつは私が処理する」


「ダメよ! そんな強引なやり方をしたら、あなたが本当に『反逆者』として追われることになっちゃうじゃない! 私を助けるために、あなたが破滅するなんて絶対に嫌!」


「私のことは気にするな。お前を取り戻せるなら、この身にどれほどの泥を被ろうが構わん」


レオンの言葉は、恐ろしいほどの熱を持っていた。

 自分がどうなってもいい。私さえ無事なら、世界中を敵に回しても構わない。

 そんな重すぎる執着をぶつけられて、私が黙っていられるはずがない。


「バカ! 気にするに決まってるでしょ! ……それに、そんな乱暴なことしなくても、この公爵を合法的に引きずり下ろす方法はちゃんとあるわ」


「……何?」


レオンが怪訝そうに眉をひそめる。

 私は自分のエプロンのポケットに手を突っ込み、その奥に隠していた黒い革装丁の分厚い手帳を引っ張り出した。

 月光の下で、その表紙が鈍い光を放つ。


「これよ」


私はその手帳を、レオンの目の前で高く掲げてみせた。


「な、貴様……ッ! いつの間にそれを!」


公爵が悲鳴のような声を上げ、私の手から手帳を奪おうと手を伸ばす。

 だが、レオンが剣の切っ先をわずかに動かして威嚇すると、公爵は「ヒッ」と息を呑んで再び後ずさった。


「これは、公爵のデスクの隠し引き出しから見つけた『裏の帳簿』よ」


私はレオンの目を真っ直ぐに見つめ、はっきりと告げる。


「ガルドからの莫大な上納金の記録。それに、軍の食糧庫を燃やすために、黒狼傭兵団にお金を払った指示書まで、全部ここに書かれているわ」


「……ッ」


レオンの灰色の瞳が、驚愕に大きく見開かれる。


「お前……これを、自分一人で見つけ出したというのか」


「一人じゃないわ。この屋敷で働くリリアや、馬番のトーマス……美味しいパンを食べて、私と『共犯者』になってくれたみんなが協力してくれたの」


私は背後で震えているリリアを振り返り、優しく微笑みかける。

 リリアは涙ぐみながら、深く頷き返してくれた。


「公爵は、権力で私を閉じ込めた気になっていたけど。私はあの暖炉を使って、毎晩とびきり美味しいパンを焼いて、使用人たちの胃袋を完全に掌握したわ。武器庫の剣が抜けないのも、私兵たちが腹痛で倒れているのも、全部私たちの『反逆』の成果よ」


私の言葉を聞き、レオンは呆然としたように私を見つめ、やがて……。


「……くっ、ふはははっ!」


突然、彼が顔を天に仰ぎ、大声で笑い出したのだ。

 いつも感情を一切表に出さない『戦場の鬼』が、腹の底から愉快そうに笑い声を上げている。

 その予想外の反応に、私だけでなく、公爵も私兵たちも、完全に毒気を抜かれてぽかんと口を開ける。


「おい、聞いていたかお前ら」


レオンは笑い収めると、背後の廊下で待機していた部下たちに向かって振り返る。


「我が軍の特任顧問は、守られるだけの非力な小娘ではなかったらしい。敵の懐に攫われながら、パン一つで大貴族の屋敷を内側から完全に制圧し、証拠まで手に入れたそうだ。……まったく、恐ろしい女だ」


『ハッ!! さすがはエリナ様! 我らの胃袋を支配した御方に不可能はありません!!』


廊下の外から、部下の騎士たちの一糸乱れぬ熱狂的な叫びが返ってくる。

 私は顔を真っ赤にして、レオンの胸元を軽く叩く。


「もうっ! からかわないでよ!」


「からかってなどいない。私はただ、己の見る目の正しさを痛感しているだけだ」


レオンは私の手から黒い手帳を受け取ると、その表紙を撫で、冷酷な笑みを浮かべて公爵へと視線を戻した。


「聞いたな、ローディア公爵。お前を裁くのに、不当な武力など必要なくなった。この手帳と、お前が軍の物資を意図的に焼却したという事実があれば、貴族院の老いぼれどもも、お前を見捨てるしかなくなる」


「ば、馬鹿な……こんなことで、我がローディア家が……! 私は、特権階級の誇りを守ろうとしただけだ! それを、こんな田舎の小娘が焼いたパン一つで……ッ!」


公爵はステッキを取り落とし、絨毯の上に両膝をつく。

 彼の構築していた『価値を独占する』という歪んだ秩序は、私がばら撒いた『共有』の力と、美味しさという抗いようのない真理の前に、完全に崩れ去ったのだ。


「連行しろ。抵抗する者は容赦なく斬って構わん」


レオンが短く命じると、背後から数人の屈強な騎士たちが雪崩れ込み、公爵とガルド、そして倒れていた私兵たちを次々と乱暴に拘束していく。


「や、やめろ! 私に触るな! 私は公爵だぞ!」

「エリナお嬢様ぁっ! どうかお慈悲を! 私は公爵に命令されただけで……っ!」


見苦しくわめき散らす二人の姿は、あっという間に廊下の奥へと引きずられていき、やがてその声も聞こえなくなった。

 残されたのは、粉々になった窓ガラスと、静寂を取り戻した執務室。

 そして、私とレオンだけだ。


「……終わったわね」


私が大きく息を吐き出すと、エプロンのポケットからトゲマルが「ピキュッ」と鳴いて這い出し、私の肩の上へとよじ登った。


「ピギィ!」


「あ、トゲマル。レオン、この子があなたのお手紙を運んでくれたのよ。……これ」


私はポケットの奥から、彼が記してくれた『黒革の手袋の欠片』を取り出し、彼に見せる。

 レオンはわずかに目を細め、自分の右手にはめられた、指先の欠けたグローブを隠すように背中へ回した。


「……余計なものを見せたな」


「余計じゃないわ。これがあったから、私、最後まで諦めずに戦えたんだもの」


私が微笑むと、レオンは深い溜息を吐き、静かに剣を鞘に納めた。

 そして、一歩、また一歩と私との距離を詰め、私の目の前で立ち止まる。

 長身の彼に見下ろされ、灰色の瞳に吸い込まれそうになる。

 彼はゆっくりと両腕を広げ、私の身体を、折れるかと思うほどの強い力で、自らの胸の中へと抱き寄せた。


「きゃっ……レオン……?」


「……無事で、本当によかった」


耳元で囁かれたその声は、震えていた。

 冷徹で完璧な騎士団長の彼が、こんなにも人間らしい、切実な声で私を抱きしめている。

 黒鋼の鎧越しに伝わる、彼の心臓の激しい鼓動。それが、彼がどれだけ私を失うことを恐れていたかを何よりも雄弁に語っていた。


「心配かけて、ごめんなさい」


私は抵抗するのをやめ、彼の広い背中にそっと両手を回した。

 少しだけ血の匂いが混じった、でも安心する、彼の匂い。


「お前は、私が檻に閉じ込めておくには、あまりにも眩しすぎるようだ。……私がどれだけ外の悪意から遠ざけようとしても、お前は自分の力で、その価値を世界に見せつけてしまう」


レオンは私を抱きしめたまま、ポツリと本音をこぼす。


「もう、私を無理やり隠そうとはしない?」


「……善処しよう。だが、私の目の届かないところへ行くことは、今後一切許さん」


「ふふっ。やっぱり、過保護なのは変わらないのね」


私が笑うと、レオンは私の肩から身を離し、少しだけ意地悪な笑みを浮かべた。


「さぁ、帰るぞ、エリナ。お前が焼くと言った、一番美味いバターのパンを、まだ食っていないからな」


「ええ、任せて。きっと、今までで一番のパンを焼いてあげる」


私は彼の差し出した大きな手を取り、力強く握り返した。

 窓の外から差し込む夜明けの光が、壊れた執務室を白く照らし出し始めている。

 私が奪われた日常は、ただ元に戻るだけじゃない。

 自分の価値を自分の手で証明し、この不器用な騎士団長との関係を、ただ『守られるだけ』のものから、共に並び立つものへと進化させたのだ。


新しい朝の光を浴びながら、私たちは公爵邸を後にした。

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