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田舎の貧乏男爵の娘ですが、前世の知識でパンを焼いていただけなのに王都の騎士団長に溺愛されてます〜気づけば兵站改革で国が強くなってました〜  作者: はりねずみの肉球
第6章:奪われた価値の証明

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シーン2:月光の執務室と、崩れ落ちる支配者の足元

張り詰めた冷たい空気が、肺の奥をチクチクと刺激する。

 蝋燭の火が落とされた深夜の廊下は、まるで巨大な魔物のはらわたの中のように暗く、底知れない不気味さを漂わせている。

 私は、先を歩くリリアの背中から目を離さないように、足音を極限まで殺して石造りの床を進む。時折、遠くから風の唸る音や、屋敷のどこかが軋む音が聞こえるたびに、ビクッと肩が跳ね、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。


「エリナ様、こちらです」


リリアが声を潜め、廊下の突き当たりにある一際大きな両開きの扉を指差した。

 見事な透かし彫りが施された、重厚なマホガニーの扉。中央にはローディア公爵家の紋章である『剣と天秤』が金箔で描かれている。その威圧的なデザインは、ここから先がこの屋敷の絶対的な支配者の領域であることを無言で主張していた。


「鍵は?」


「先ほど、見張りの兵士からくすねてきました」


リリアは震える手で、真鍮製の重たい鍵の束を取り出す。

 ガチャ、カチャカチャッ。

 鍵穴に差し込み、慎重にシリンダーを回す。静寂の中では、その微かな金属音すらも雷のように大きく聞こえ、私の背筋に冷たい汗が伝う。


――カチリ。


重い手応えと共に、錠が外れた。

 私はリリアと顔を見合わせ、静かに頷く。そして、重い扉を両手でゆっくりと押し開けた。


執務室の中は、想像以上に広大だった。

 壁一面を天井まで埋め尽くす巨大な本棚には、革張りの分厚い書物が隙間なく並べられている。知識すらも特権階級の娯楽として独占している公爵の傲慢さが、その蔵書量から痛いほど伝わってくる。

 部屋の奥には、黒曜石で作られた巨大なデスクが鎮座し、分厚いビロードのカーテンの隙間から差し込む月光を鈍く反射していた。

 鼻を突くのは、高級な葉巻の甘ったるい匂いと、古い羊皮紙、そしてインクの酸っぱい匂い。


「リリアは扉のところで、誰か来ないか見張ってて。私は公爵のデスクを探るわ」


「はいっ。お気をつけて」


私は足早に部屋の中央を横切り、黒曜石のデスクへと回り込む。

 デスクの上には、羽ペンとインク壺、そしていくつかの書類が綺麗に整頓されているが、私が探しているような『裏の帳簿』がこんな堂々と置かれているはずがない。


「引き出しの中……いえ、公爵みたいな疑い深い人間なら、もっと分かりにくい場所に隠すはずよね」


私はデスクの引き出しを一つずつ開け、中を検分していく。

 領地の税収記録、貴族院への根回しの手紙、どれも公爵の黒さを裏付けるものだが、レオンの嫌疑を晴らし、軍の食糧庫放火の指示を出したという『決定的な証拠』には届かない。


「ピキュッ、ピキュピキュッ!」


その時、私のエプロンのポケットからトゲマルが這い出し、デスクの一番下の、特に大きな引き出しの中に飛び込んだ。


「ちょっと、トゲマル! 見つかったら……」


「ピギィッ!」


トゲマルは私の制止も聞かず、引き出しの奥の木の板を、鋭い爪で『カリカリカリッ』と執拗に引っ掻き始めた。

 その音に違和感を覚える。

 ただの木の板を引っ掻く音じゃない。奥が空洞になっているような、軽い音がする。


「……二重底?」


私は引き出しの奥に手を伸ばし、トゲマルが引っ掻いていた部分の板を指の腹で探る。

 微かな段差。そこを強く押し込むと、カチッという小さな音と共に、底板がふわりと持ち上がった。

 心臓が高鳴る。

 底板の下の隠しスペースには、黒い革で装丁された分厚い手帳と、蝋封が切られた数通の手紙が隠されていた。


「これだわ……!」


私は震える手で黒い手帳を取り出し、月明かりの下でページをめくる。

 そこに記されていたのは、表の帳簿には絶対に載らない、血と金にまみれた記録の数々だった。


『パン職人ギルド長ガルドより、特例上納金として金貨一万枚を受領』

『王都南区における流通封鎖の指示。実行部隊には裏街のゴロツキを雇用』

『黒狼傭兵団への前払い金、金貨五千枚。目的:第一騎士団管轄の第三、第四軍糧庫の焼却』


「……っ」


息を呑む。

 見つけた。公爵が私を誘拐し、軍の食糧を燃やし、王都を混乱に陥れたすべての黒幕であるという、言い逃れのできない完全な証拠。

 これさえあれば、レオンは軍を動かした反逆の罪に問われることはない。むしろ、公爵を国家反逆罪で処断する大義名分が完成する。


「エリナ様! ありましたか!?」


扉のところにいたリリアが、期待に満ちた声で囁く。

 私が大きく頷き、手帳をエプロンのポケットにねじ込もうとした、その瞬間だった。


『――見事な嗅覚だ。まさか、あの厳重な鉄格子を抜け出し、私の執務室にまで入り込むとはな』


背筋が完全に凍りつくような、冷酷で傲慢な声。

 パチンッ、と。

 部屋の隅で何者かが指を鳴らした瞬間、執務室の壁に設置されていた魔石のランプが一斉に眩い光を放ち、部屋中を真昼のような明るさで照らし出した。


「きゃっ……!」


突然の光に目が眩み、私は思わず腕で顔を覆う。

 光に慣れた視界の先に立っていたのは、漆黒のフロックコートを着こなしたローディア公爵と、脂ぎった顔に勝利の笑みを張り付かせたガルドだった。

 さらに彼らの背後には、抜刀した四人の完全武装の私兵が控えている。


「エリナ様……っ!」


扉の側にいたリリアが、私兵の一人に背後から腕を捩り上げられ、悲鳴を上げる。


「離しなさい! リリアは関係ないわ!」


「関係ない? 我が家の使用人が、誘拐してきた娘の逃亡を手助けしているのだぞ。これは明確な主人への反逆だ。地下牢で鞭打ちの刑にしてくれるわ」


公爵はステッキで床をコツンと叩き、余裕たっぷりの足取りで私の方へと歩み寄ってくる。

 その青灰色の瞳には、ネズミを追い詰めた猫のような、底意地の悪い愉悦が浮かんでいた。


「どうやら、見張りの兵士に毒を盛って眠らせたようだな。なかなかの知恵だが、詰めが甘い。お前が大人しくしているなどとは端から思っていない。お前の部屋の前の廊下には、気配を感知する魔法陣を仕掛けておいたのだよ」


「……ッ」


最初から、泳がされていたのだ。

 証拠を見つけ出し、私が最も希望に満ちた瞬間に、それを叩き潰して絶望させるために。


「さぁ、その手帳を渡しなさい。そうすれば、そのメイドの命くらいは助けてやろう」


公爵が手を差し出す。

 私は手帳を胸に強く抱きしめ、彼を真っ直ぐに睨み返した。


「渡さない。あなたが王都を燃やし、罪のない人たちを苦しめた証拠よ。絶対に、レオンのところに届けてみせる!」


「レオンだと? まだあの狂犬が助けに来るなどという妄想を抱いているのか。いい加減に現実を見ろ、小娘!」


ガルドが横からしゃしゃり出て、醜悪な唾を飛ばす。


「お前はここで終わりだ! 大人しく我々のためにパンを焼き続ける奴隷になれ!」


「ふざけないで! あなたたちみたいな、価値を独占して人を見下すような人間のために、私のパンを焼く気はないって何度言ったらわかるの!」


私が怒鳴り返すと、公爵はついに表情から余裕の笑みを消し、苛立たしげに私兵たちへと顎で合図をした。


「……もういい。手足の骨を一本ずつ折ってでも、その手帳を奪い取れ。メイドは殺せ」


「やめて!!」


私が絶叫する。

 四人の屈強な私兵たちが、冷たい笑みを浮かべて私とリリアに迫る。

 彼らが腰の剣の柄に手をかけ、引き抜こうとした――その瞬間だった。


――ガキィィィッ!!


「……あ?」

「な、なんだこれ……抜けねぇ!?」


私兵の一人が声を上げ、剣の柄を力任せに引っ張る。

 だが、剣は鞘の中で完全に固着し、ピクリとも動かない。

 他の私兵たちも慌てて剣を抜こうとするが、全員の剣が、まるで鞘と一体化してしまったかのように抜けなくなっていた。


「何を手間取っている! 早く抜け!」


公爵が怒鳴るが、私兵たちは焦ったように剣をガチャガチャと鳴らすばかりだ。


「公爵様! 鞘の中に、何か強力な酸のようなものが流し込まれて、刃が完全に錆びついて張り付いてます!」


「なんだと……!?」


公爵が驚愕に目を見開く。

 私はその光景を見て、思わず口角を吊り上げた。


(トーマス……! やってくれたわね!)


彼が馬小屋だけでなく、私兵の武器庫にまで忍び込み、鎧の油に酸を混ぜるという見事な工作サボタージュを完了させていたのだ。

 だが、反逆の連鎖はそれだけでは終わらない。


「う、ぐぉぉっ……!」


リリアを押さえつけていた私兵が、突如として腹を抱え、その場にうずくまった。


「おい、どうした!」


「は、腹が……内臓が、千切れるように痛てぇ……ッ! 今日の夕食の、スープ……!」


バタバタと、他の三人の私兵たちも次々に膝をつき、腹を押さえて呻き声を上げ始める。

 使用人たちが仕込んだ、強烈な下剤効果のある野草だ。彼らは剣も抜けず、立つことすらままならない状態に陥り、文字通り公爵の足元で無力化されていく。


「な……何が起きている! 貴様ら、立て! 私の命令が聞こえないのか!」


公爵がステッキを振り回し、顔を真っ赤にして怒鳴り散らす。

 だが、苦痛にのたうつ私兵たちには、もはや主人の声など届いていない。

 拘束を解かれたリリアが、ふらつきながら私の背中へと駆け寄ってくる。


「……気づかなかったのね、公爵様」


私は手帳をポケットにしまい、崩れ落ちていく私兵たちを見下ろしながら、ゆっくりと一歩前に出た。


「お前……! 一体、何をした!?」


「私は何もしてないわ。ただ、あなたのお屋敷で働く使用人たちに、私が焼いた『美味しいパン』を振る舞っただけ。彼らはみんな、私に感謝して、私の味方になってくれたのよ」


「使用人どもが、私に逆らったというのか……!? 馬鹿な、あいつらは私が金で飼ってやっている犬だぞ! 犬が主人を噛むはずがない!」


公爵は信じられないというように、部屋中を見回す。

 だが、彼を守るべき力は、すでにこの部屋から完全に消失していた。

 恐怖と混乱で顔を歪める公爵に、私は容赦なく言葉の刃を突きつける。


「あなたたちが石ころみたいなパンを押し付け、支配しようとしていた人たちが、美味しいパン一つで結託して、あなたの足元を崩したのよ。価値を独占するだけじゃ、人の心は絶対に縛れない」


「ヒィッ……! こ、公爵様、ここは一旦引きましょう! 別部隊を呼んで……!」


状況の不利を悟ったガルドが、公爵の袖を引いて扉の方へ逃げようとする。

 だが、公爵はそれを乱暴に振り払った。


「黙れッ!! 私が、こんな田舎の小娘に敗北するなど、あってはならない! 我がローディア公爵家の誇りにかけて!」


公爵の青灰色の瞳が、血走った狂気に染まる。

 彼は懐から、銀の装飾が施された短剣を引き抜いた。魔法によって鋭く研ぎ澄まされた、護身用の業物だ。


「エリナ様、危ないっ!」


リリアが叫ぶ。

 公爵はステッキを投げ捨て、なりふり構わず短剣を振りかぶって私へと突進してきた。

 武術の心得などないはずだが、己のすべてを奪われかけた権力者の執念と狂気が、彼の身体に恐ろしいまでの速度を与えている。


刃が、月光を反射して冷たく光る。

 避ける余裕はない。

 私は咄嗟にリリアをかばい、目をギュッと閉じた。


――その、刹那。


『――ズドォォォォォォォォォォォンッ!!!!』


屋敷全体を根元から揺るがすような、鼓膜を破る凄まじい轟音が、外の世界から響き渡った。

 執務室の分厚いガラス窓が一斉に粉々に砕け散り、暴風が部屋の中へと吹き込んでくる。

 タペストリーが千切れ飛び、本棚の書物が紙吹雪のように舞い散る。


「な、なんだ!? 地震か!?」


公爵の突進が止まり、短剣を持ったまま床に転がる。

 私は舞い散るガラス片から顔を庇いながら、壊れた窓の外へと視線を向けた。


王都の郊外、深い森に囲まれた絶対の安全圏であるはずの、公爵邸の正門。

 その見上げるほど巨大な鉄格子が、内側に向かってひしゃげ、無惨に吹き飛ばされていた。

 巻き上がる凄まじい土埃。

 その向こう側から、無数の松明の炎が、地獄の業火のように揺らめきながらこちらへと向かってくる。


先頭を走るのは、巨大な漆黒の軍馬。

 騎乗しているのは、月光よりも冷たく、炎よりも熱い殺気を纏った、黒鋼の鎧の騎士。


「……レオン!」


私の口から、歓喜の叫びが漏れる。


『――第一騎士団、全軍突入!! 我が所有物を奪った愚か者どもを、一人残らず叩き斬れェェェッ!!!』


夜の闇を切り裂く、レオンの雷鳴のような怒号。

 それに呼応し、数百の精鋭騎士たちが一斉にときの声を上げ、公爵の私領地へと雪崩れ込んでくる。

 法も、政治の壁も、大貴族の権威も。

 私の焼くパンに胃袋を掴まれた戦場の鬼は、そんなものすべてを力ずくで粉砕し、私の名を呼んで一直線に駆けつけてきたのだ。


崩れ落ちる支配者の足元で、私は舞い散る書類の中に立ち、確かな勝利の笑みを浮かべた。

 鋼鉄の鳥籠は、ついに内と外から完全に破壊されたのだ。

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