シーン1:甘い反逆の匂いと、寝返る歯車たち
トゲマルが秘密の通路を通って現れてから、さらに二日が経過した。
私の生活は、表向きは公爵の宣言通り、水と『石ころパン』すら半分に減らされた、過酷な兵糧攻めの真っ最中ということになっている。
だが、現実の私は、毎晩大理石の暖炉で焼き上げる極上のカンパーニュを頬張り、公爵の嫌がらせなどどこ吹く風とばかりに、ピンピンしていた。
「エリナ様、今夜の分の材料です。それと……今日は少しだけ、厨房の奥から蜂蜜をくすねてきちゃいました」
深夜。タペストリーの裏から顔を出したリリアが、ふんわりと笑いながら小瓶を差し出す。
彼女の背後には、見知らぬ少年の姿があった。
「リリア、その子は?」
「馬番のトーマスです。どうしても、エリナ様に直接お礼が言いたいと……」
トーマスと呼ばれた、そばかすだらけの少年が、もじもじとしながら一歩前へ出る。
彼は私の顔を見ると、弾かれたように深く頭を下げた。
「あ、あのっ! エリナ様! 毎日、美味しいパンをありがとうございます! 俺、あんな美味いもの食ったの、生まれて初めてで……その、俺にできることがあったら、なんでも言ってください!」
少年の瞳には、私への絶対的な忠誠と、公爵への明確な反抗心がメラメラと燃え上がっていた。
私は微笑み、彼の泥だらけの手を両手で包み込んだ。
「ありがとう、トーマス。あなたがそう言ってくれるのが、一番の力になるわ。……それで、お願いがあるんだけど、外の様子はどう?」
私が尋ねると、トーマスは顔を上げ、声を潜めて報告を始めた。
「屋敷の周りの警備は、昨日から倍に増えています。でも、公爵様の私兵どもは、俺たち使用人の動きなんて全く気にしてません。……だから、あいつらの武器庫の鍵のすり替えも、馬の鞍のベルトに細工をするのも、あっさり終わりましたよ」
「よくやったわ。怪しまれてはいない?」
「ええ。俺たちが配給のパンを食わずに捨てているのも、あいつらは『腹を空かせて倒れるのも時間の問題だ』って笑い合ってるだけです。俺たちの胃袋が、毎晩エリナ様の黄金パンで満たされてるなんて、夢にも思ってませんからね」
トーマスが悪戯っぽくニヤリと笑う。
リリアもそれに同調し、クスリと笑い声を漏らした。
現在、公爵邸で働く下働きの使用人たちのほぼ全員が、私の焼くパンの虜になり、完全なる『共犯者』となっていた。
美味しい食事は、人を動かす最大の原動力だ。
彼らは私が指示した通り、屋敷の機能に致命的なダメージを与えない程度に、巧妙なサボタージュ(業務妨害)を展開している。
見張りの兵士に出されるスープには、ほんの少しだけ下剤代わりの野草が混ぜられ。
私兵たちの鎧を磨く油には、錆を誘発する酸が薄く塗られている。
そして何より――屋敷内の『情報』が、すべて筒抜けで私の耳に入ってくるようになっていた。
「エリナ様」
リリアが真剣な表情に戻り、私に耳打ちをする。
「今日の夕方、公爵様がガルドを呼び出し、ひどく怒鳴り散らしていました。どうやら、王都でレオン団長が動き出したようです。貴族院の決定を無視して、第一騎士団の精鋭部隊が、この私領地の境界線ギリギリまで進軍してきていると……」
「レオンが……」
私は胸の奥にあった、お守りのような黒革の欠片をギュッと握りしめた。
やはり彼は、法や政治の壁など無視して、強行突破の構えを見せているのだ。
「公爵様は『あの狂犬め、本当に軍を動かすとは。だが、私領地に一歩でも踏み入れば、それを口実に国王へ反逆罪を上奏してやる』と息巻いておられました」
リリアの言葉に、私は眉をひそめる。
レオンは私を助けに来てくれる。でも、このまま彼が正面から屋敷に突入すれば、公爵の言う通り、彼自身が『国家反逆』の汚名を着せられてしまう。
それは絶対に避けなければならない。
彼に汚名を着せずに、公爵の不正を暴き、この屋敷を崩壊させる。そのための『切り札』が、私には必要だ。
「リリア、トーマス」
私は二人を真っ直ぐに見つめ、静かに、けれど力強く告げた。
「今夜が、最後になるかもしれないわ。だから、とびきり美味しいパンを焼くわよ。蜂蜜をたっぷり使って、兵士たちが匂いだけで狂いそうになるくらいのやつをね」
「最後……ですか?」
「ええ。外でレオンが動いているなら、私たちも内側からこの鳥籠を壊す時よ」
私は暖炉の火を起こし、リリアが持ってきてくれた材料で生地を捏ね始める。
小麦粉、水、塩、そして蘇った天然酵母。そこに、黄金色の蜂蜜をたっぷりと練り込んでいく。
生地が手のひらに吸い付くような弾力を持ち、発酵の魔法によって生命の息吹を上げ始める。
「トーマス。あなたは馬小屋に戻って、いつでも馬を出せるように準備をしておいて。公爵の私兵たちの馬は、例の細工でまともに走れないはずだから、私たちが逃げるための馬だけを確保してちょうだい」
「はいっ! 任せてください!」
トーマスは力強く頷き、隠し扉の奥へと消えていった。
「リリア。あなたには、一番危険な役目をお願いすることになるわ」
私は生地を休ませながら、リリアの手を強く握る。
「私のお部屋の前に立っている見張り、あの二人。今夜の『特製のパン』が焼き上がったら、彼らに直接、差し入れとして持って行ってほしいの」
「えっ……!? 見張りの兵士に、ですか? でも、もし公爵様にバレたら……」
「バレないわ。だって、あの匂いを嗅がされて、三日もまともな休憩をもらっていない兵士たちが、目の前に出された焼きたてのパンを我慢できるはずがないもの」
私はニヤリと笑う。
連日のサボタージュによって、私兵たちは慢性的な下痢と睡眠不足に悩まされている。そこに、限界まで食欲を刺激する蜂蜜とバターの香りをぶつけるのだ。
理性が吹っ飛び、本能のままに貪り食う姿が目に浮かぶ。
「パンの中には、睡眠薬代わりに『マンドラゴラの根の粉末』をほんの少しだけ混ぜてあるわ。トーマスが馬用の薬箱からくすねてきてくれたやつ。致死量には程遠いけど、一晩ぐっすり眠るには十分な量よ」
リリアはゴクリと生唾を飲み込み、私の手を見つめ返した。
「……わかりました。私、やります」
「ありがとう。見張りが眠ったら、私の部屋の鍵を開けて。そこから、一気に『公爵の執務室』へ向かうわ」
「執務室!? 逃げるのではないのですか!?」
驚くリリアに、私は静かに首を振った。
「ただ逃げるだけじゃダメなの。公爵が私を誘拐し、軍の兵糧を燃やしたという『明確な証拠』を見つけ出さないと、レオンが反逆罪に問われてしまう。この屋敷のどこかに、必ずギルドや傭兵とやり取りした書類が隠されているはずよ」
公爵の急所を、私の手で暴き出す。
それが、私を守るために泥を被ろうとしているレオンへの、私なりの『恩返し』だ。
一時間後。
重厚な鋳鉄鍋の中で、蜂蜜をたっぷりと含んだカンパーニュが、極限のスチームと熱によって完璧な姿へと焼き上がった。
蓋を開けた瞬間、部屋中に充満する、頭がくらくらするほどの甘く暴力的な香り。
「はぁっ……エリナ様、これ……匂いだけで、お腹が空いて倒れそうです……」
リリアがふらつきながら呟く。
私は熱々のパンを切り分け、最も香りの強い中心部分をリリアの持つ銀のトレイに乗せた。
「さぁ、行って。私たちの反逆の始まりよ」
リリアは深く頷き、銀のトレイを抱えて正面の扉へと向かう。
コンコン、と。
彼女が内側から扉を叩き、「見張りの方、公爵様からの夜食の差し入れをお持ちしました」と声をかける。
ガチャリと鍵が開く音がして、扉がわずかに開いた。
『なんだ……って、おい! なんだこの匂いは……!』
『夜食って、なんだ!? 料理長がこんな美味そうなものを焼くはずが……』
隙間から漏れ出した暴力的な香りに、兵士たちの理性が一瞬で吹き飛ぶ音が聞こえた。
私は部屋の奥の暗がりで息を潜め、扉の向こうで兵士たちがパンを貪り食う、下品な咀嚼音をじっと聞いていた。
数分後。
ドサッ、ドサッという重い音が二つ連続して響き、いびきが聞こえ始める。
扉が全開になり、リリアが青ざめた顔で手招きをした。
「エリナ様……! 眠りました!」
「上出来よ。行くわよ、リリア」
私はエプロンを脱ぎ捨て、ポケットの中で丸くなっているトゲマルをそっと撫でる。
冷たい石畳の廊下へと足を踏み出す。
見張りの兵士たちは、壁にもたれかかって完全に熟睡していた。
私は壁際の松明の光を頼りに、リリアの案内で、公爵の執務室がある屋敷の最奥部へと向かって走り出した。
――静かなるクーデターは、ついに物理的な反逆へと姿を変えた。
奪われた価値を、私の手で証明する。
鋼鉄の鳥籠の鍵は、すでに私の手の中にあるのだ。




