表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
田舎の貧乏男爵の娘ですが、前世の知識でパンを焼いていただけなのに王都の騎士団長に溺愛されてます〜気づけば兵站改革で国が強くなってました〜  作者: はりねずみの肉球
第6章:奪われた価値の証明

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/23

シーン1:甘い反逆の匂いと、寝返る歯車たち

トゲマルが秘密の通路を通って現れてから、さらに二日が経過した。

 私の生活は、表向きは公爵の宣言通り、水と『石ころパン』すら半分に減らされた、過酷な兵糧攻めの真っ最中ということになっている。

 だが、現実の私は、毎晩大理石の暖炉で焼き上げる極上のカンパーニュを頬張り、公爵の嫌がらせなどどこ吹く風とばかりに、ピンピンしていた。


「エリナ様、今夜の分の材料です。それと……今日は少しだけ、厨房の奥から蜂蜜をくすねてきちゃいました」


深夜。タペストリーの裏から顔を出したリリアが、ふんわりと笑いながら小瓶を差し出す。

 彼女の背後には、見知らぬ少年の姿があった。


「リリア、その子は?」


「馬番のトーマスです。どうしても、エリナ様に直接お礼が言いたいと……」


トーマスと呼ばれた、そばかすだらけの少年が、もじもじとしながら一歩前へ出る。

 彼は私の顔を見ると、弾かれたように深く頭を下げた。


「あ、あのっ! エリナ様! 毎日、美味しいパンをありがとうございます! 俺、あんな美味いもの食ったの、生まれて初めてで……その、俺にできることがあったら、なんでも言ってください!」


少年の瞳には、私への絶対的な忠誠と、公爵への明確な反抗心がメラメラと燃え上がっていた。

 私は微笑み、彼の泥だらけの手を両手で包み込んだ。


「ありがとう、トーマス。あなたがそう言ってくれるのが、一番の力になるわ。……それで、お願いがあるんだけど、外の様子はどう?」


私が尋ねると、トーマスは顔を上げ、声を潜めて報告を始めた。


「屋敷の周りの警備は、昨日から倍に増えています。でも、公爵様の私兵どもは、俺たち使用人の動きなんて全く気にしてません。……だから、あいつらの武器庫の鍵のすり替えも、馬の鞍のベルトに細工をするのも、あっさり終わりましたよ」


「よくやったわ。怪しまれてはいない?」


「ええ。俺たちが配給のパンを食わずに捨てているのも、あいつらは『腹を空かせて倒れるのも時間の問題だ』って笑い合ってるだけです。俺たちの胃袋が、毎晩エリナ様の黄金パンで満たされてるなんて、夢にも思ってませんからね」


トーマスが悪戯っぽくニヤリと笑う。

 リリアもそれに同調し、クスリと笑い声を漏らした。


現在、公爵邸で働く下働きの使用人たちのほぼ全員が、私の焼くパンの虜になり、完全なる『共犯者』となっていた。

 美味しい食事は、人を動かす最大の原動力だ。

 彼らは私が指示した通り、屋敷の機能に致命的なダメージを与えない程度に、巧妙なサボタージュ(業務妨害)を展開している。


見張りの兵士に出されるスープには、ほんの少しだけ下剤代わりの野草が混ぜられ。

 私兵たちの鎧を磨く油には、錆を誘発する酸が薄く塗られている。

 そして何より――屋敷内の『情報』が、すべて筒抜けで私の耳に入ってくるようになっていた。


「エリナ様」


リリアが真剣な表情に戻り、私に耳打ちをする。


「今日の夕方、公爵様がガルドを呼び出し、ひどく怒鳴り散らしていました。どうやら、王都でレオン団長が動き出したようです。貴族院の決定を無視して、第一騎士団の精鋭部隊が、この私領地の境界線ギリギリまで進軍してきていると……」


「レオンが……」


私は胸の奥にあった、お守りのような黒革の欠片をギュッと握りしめた。

 やはり彼は、法や政治の壁など無視して、強行突破の構えを見せているのだ。


「公爵様は『あの狂犬め、本当に軍を動かすとは。だが、私領地に一歩でも踏み入れば、それを口実に国王へ反逆罪を上奏してやる』と息巻いておられました」


リリアの言葉に、私は眉をひそめる。

 レオンは私を助けに来てくれる。でも、このまま彼が正面から屋敷に突入すれば、公爵の言う通り、彼自身が『国家反逆』の汚名を着せられてしまう。

 それは絶対に避けなければならない。

 彼に汚名を着せずに、公爵の不正を暴き、この屋敷を崩壊させる。そのための『切り札』が、私には必要だ。


「リリア、トーマス」


私は二人を真っ直ぐに見つめ、静かに、けれど力強く告げた。


「今夜が、最後になるかもしれないわ。だから、とびきり美味しいパンを焼くわよ。蜂蜜をたっぷり使って、兵士たちが匂いだけで狂いそうになるくらいのやつをね」


「最後……ですか?」


「ええ。外でレオンが動いているなら、私たちも内側からこの鳥籠を壊す時よ」


私は暖炉の火を起こし、リリアが持ってきてくれた材料で生地を捏ね始める。

 小麦粉、水、塩、そして蘇った天然酵母。そこに、黄金色の蜂蜜をたっぷりと練り込んでいく。

 生地が手のひらに吸い付くような弾力を持ち、発酵の魔法によって生命の息吹を上げ始める。


「トーマス。あなたは馬小屋に戻って、いつでも馬を出せるように準備をしておいて。公爵の私兵たちの馬は、例の細工でまともに走れないはずだから、私たちが逃げるための馬だけを確保してちょうだい」


「はいっ! 任せてください!」


トーマスは力強く頷き、隠し扉の奥へと消えていった。


「リリア。あなたには、一番危険な役目をお願いすることになるわ」


私は生地を休ませながら、リリアの手を強く握る。


「私のお部屋の前に立っている見張り、あの二人。今夜の『特製のパン』が焼き上がったら、彼らに直接、差し入れとして持って行ってほしいの」


「えっ……!? 見張りの兵士に、ですか? でも、もし公爵様にバレたら……」


「バレないわ。だって、あの匂いを嗅がされて、三日もまともな休憩をもらっていない兵士たちが、目の前に出された焼きたてのパンを我慢できるはずがないもの」


私はニヤリと笑う。

 連日のサボタージュによって、私兵たちは慢性的な下痢と睡眠不足に悩まされている。そこに、限界まで食欲を刺激する蜂蜜とバターの香りをぶつけるのだ。

 理性が吹っ飛び、本能のままに貪り食う姿が目に浮かぶ。


「パンの中には、睡眠薬代わりに『マンドラゴラの根の粉末』をほんの少しだけ混ぜてあるわ。トーマスが馬用の薬箱からくすねてきてくれたやつ。致死量には程遠いけど、一晩ぐっすり眠るには十分な量よ」


リリアはゴクリと生唾を飲み込み、私の手を見つめ返した。


「……わかりました。私、やります」


「ありがとう。見張りが眠ったら、私の部屋の鍵を開けて。そこから、一気に『公爵の執務室』へ向かうわ」


「執務室!? 逃げるのではないのですか!?」


驚くリリアに、私は静かに首を振った。


「ただ逃げるだけじゃダメなの。公爵が私を誘拐し、軍の兵糧を燃やしたという『明確な証拠』を見つけ出さないと、レオンが反逆罪に問われてしまう。この屋敷のどこかに、必ずギルドや傭兵とやり取りした書類が隠されているはずよ」


公爵の急所を、私の手で暴き出す。

 それが、私を守るために泥を被ろうとしているレオンへの、私なりの『恩返し』だ。


一時間後。

 重厚な鋳鉄鍋の中で、蜂蜜をたっぷりと含んだカンパーニュが、極限のスチームと熱によって完璧な姿へと焼き上がった。

 蓋を開けた瞬間、部屋中に充満する、頭がくらくらするほどの甘く暴力的な香り。


「はぁっ……エリナ様、これ……匂いだけで、お腹が空いて倒れそうです……」


リリアがふらつきながら呟く。

 私は熱々のパンを切り分け、最も香りの強い中心部分をリリアの持つ銀のトレイに乗せた。


「さぁ、行って。私たちの反逆の始まりよ」


リリアは深く頷き、銀のトレイを抱えて正面の扉へと向かう。

 コンコン、と。

 彼女が内側から扉を叩き、「見張りの方、公爵様からの夜食の差し入れをお持ちしました」と声をかける。

 ガチャリと鍵が開く音がして、扉がわずかに開いた。


『なんだ……って、おい! なんだこの匂いは……!』

『夜食って、なんだ!? 料理長がこんな美味そうなものを焼くはずが……』


隙間から漏れ出した暴力的な香りに、兵士たちの理性が一瞬で吹き飛ぶ音が聞こえた。

 私は部屋の奥の暗がりで息を潜め、扉の向こうで兵士たちがパンを貪り食う、下品な咀嚼音をじっと聞いていた。

 数分後。

 ドサッ、ドサッという重い音が二つ連続して響き、いびきが聞こえ始める。


扉が全開になり、リリアが青ざめた顔で手招きをした。


「エリナ様……! 眠りました!」


「上出来よ。行くわよ、リリア」


私はエプロンを脱ぎ捨て、ポケットの中で丸くなっているトゲマルをそっと撫でる。

 冷たい石畳の廊下へと足を踏み出す。

 見張りの兵士たちは、壁にもたれかかって完全に熟睡していた。

 私は壁際の松明の光を頼りに、リリアの案内で、公爵の執務室がある屋敷の最奥部へと向かって走り出した。


――静かなるクーデターは、ついに物理的な反逆へと姿を変えた。

 奪われた価値を、私の手で証明する。

 鋼鉄の鳥籠の鍵は、すでに私の手の中にあるのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ