シーン4:地下で膨らむ反逆の火種と、小さな密使
パチパチ、と大理石の暖炉の中で薪が爆ぜる音が、静寂に包まれた深夜の部屋に心地よく響き渡る。
私は額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながら、燃え盛る炎の中に鎮座する分厚い鋳鉄鍋を、じっと見つめている。
今日で、この『秘密の深夜営業』を始めてから三日目の夜だ。
「エリナ様、焼けましたか!?」
隠し扉からひょっこりと顔を出したリリアが、目をキラキラと輝かせながら小声で尋ねてくる。
彼女の頬は、私が初めて会った三日前のげっそりとこけた青白い顔が嘘のように、うっすらと健康的な桜色に染まっていた。たった数日、栄養価の高い高加水パンを食べただけで、人間の身体はここまで劇的に回復するのだ。
「もう少しよ。今、鍋の中でスチームが最高潮に達して、生地の表面をパリッとコーティングしているところ。……よし、いいわね」
私は分厚い布を手に巻き、重い鉄の蓋をガタンッと持ち上げる。
途端に、暴力的なまでに香ばしい小麦と焦がしバターの匂いが、白い湯気と共に部屋いっぱいに立ち込めた。
「はわぁ……っ!」
リリアが両手で口を覆い、感極まったような声を漏らす。
鍋の底で黄金色に輝いているのは、今日は少し趣向を変えて、公爵の厨房からくすねてきてもらったチーズを巻き込んだ『チーズ・カンパーニュ』だ。
とろけ出したチーズが鍋肌でカリカリに焦げ、それがまた、たまらなく食欲を刺激する匂いを放っている。
「熱いうちに持っていきなさい。火傷しないようにね」
私が布で包んだパンを渡すと、リリアはそれをまるで神殿の宝物でも受け取るかのように、恭しく胸に抱きしめた。
「ありがとうございます! これ、馬番のトーマスと、洗濯係のアンナにも分けてあげます。二人とも、エリナ様のパンを食べてから、見違えるように仕事が早くなったんですよ」
「そう。公爵や料理長には怪しまれてない?」
「ふふっ、大丈夫です」
リリアは悪戯っぽく笑い、声を潜める。
「料理長は、私たちが配給の『石ころパン』を全く手をつけずに残しているのを見て、不思議そうに首を傾げています。でも、私たちが飢えて倒れるどころか、以前よりずっと元気に重い荷物を運んでいるものだから、気味が悪くて何も言えないみたいです」
その報告を聞いて、私は思わず口元をほころばせた。
私の作戦は、完璧に機能している。
公爵は、物理的な壁と暴力で私を支配しようとした。だが、この巨大な屋敷を実際に動かしているのは、公爵自身ではなく、虐げられている無数の使用人たちなのだ。
彼らの胃袋を美味しいパンで満たし、心を掴む。
それは、公爵の足元を支える土台を、音もなく根こそぎ作り変える『静かなるクーデター』に他ならない。
「エリナ様は、本当に魔法使いみたいです。たった一つのパンで、私たち下働きの世界をこんなに明るくしてくださるなんて」
「魔法じゃないわ。美味しいものを美味しいって笑い合える、当たり前の権利を取り戻しているだけよ」
リリアは深く頷き、隠し扉の奥へと消えていった。
私は一人残された部屋で、暖炉の火を小さくし、窓際のソファへと腰を下ろす。
使用人たちは完全に私の味方になった。彼らは今、私の指示一つで、この部屋の鍵を開け、私を外へ逃がす手引きすらしてくれるだろう。
でも、私はまだ動かない。
ただ逃げ出すだけでは、公爵はまた私を執拗に追いかけ、今度こそ実家の家族や領民に牙を剥く。
この状況を完全に終わらせるには、外から公爵の権力を物理的に叩き潰す『決定打』が必要だ。
(レオン……)
夜空を見上げ、冷たいガラスに額を押し当てる。
彼が今、どこで何をしているのか。
私の失踪に気づき、怒り狂っているだろうか。それとも、冷静に盤面を読み、私を奪い返すための軍を動かしているだろうか。
――ガチャンッ!!
唐突に、背後の重厚な扉の鍵が乱暴に開けられる音がした。
ビクッと肩が跳ねる。深夜に正面の扉から人が来るなんて、想定外だ。
私は慌てて暖炉の前に散らばっていた小麦粉の袋をタペストリーの裏に蹴り込み、ソファに座り直して表情を引き締めた。
「……ずいぶんと、くつろいでいるようだな」
冷酷な声と共に部屋に入ってきたのは、漆黒のフロックコートを羽織ったローディア公爵だった。
その後ろには、相変わらず脂ぎった笑みを浮かべるガルドの姿がある。
公爵の青灰色の瞳が、部屋の中を鋭く一瞥する。
「三日もこの部屋に閉じ込められ、泣き喚いて許しを乞うかと思えば、ずいぶんといい顔をしているではないか」
「残念だったわね。私は、ただ閉じ込められているだけで心を折られるほど、ヤワな育ち方はしていないのよ」
私は腕を組み、不敵な笑みを浮かべて言い返す。
公爵は不快そうに眉をひそめ、片眼鏡の奥の目を細めた。
「強がりはよせ。お前はすでに、世界のすべてから見捨てられた籠の鳥だ。あの狂犬……レオン・ヴァルディスも、お前を助けには来ない」
「……どういう意味」
「奴は今、王都の治安維持と、反乱分子の制圧にかかりきりだ。私が貴族院を動かし、第一騎士団の権限を王都内に限定する法案を緊急で通したからな。奴が軍を率いてこの私領地に足を踏み入れた瞬間、それは明確な『国家への反逆』となる」
公爵の言葉に、私の心臓がドクンと嫌な音を立てる。
法という名の鎖で、レオンの手足を完全に縛り上げたというのか。
「軍を動かせない奴に、大貴族の私兵が守るこの城を落とすことは不可能だ。お前は一生、この屋敷から出ることはできない」
ガルドが横からしゃしゃり出て、醜悪な笑い声を上げる。
「ヒヒッ! そういうことですな、エリナお嬢様。そろそろ観念して、公爵様のためにあの美味しいパンを焼く契約書にサインをしてはいかがです? そうすれば、干からびた石ころパンではなく、極上の食事を与えて差し上げますぞ」
勝ち誇った二人の顔を見て、私はふつふつと湧き上がる怒りを、冷たい微笑みの裏に隠し込んだ。
彼らは知らない。
私がすでに、彼らの足元を支える使用人たちを掌握していることを。
そして、私が与えられる食事など待たずとも、自らの手で極上のパンを焼き上げていることを。
「……お断りよ。何度言われても答えは同じ。私は、あなたたちみたいな人間のためには、絶対にパンを焼かない」
「チッ……忌々しい小娘が」
公爵は舌打ちをし、苛立たしげに踵を返した。
「強がっていられるのも今のうちだ。明日から、お前への水と配給パンの量を半分に減らす。飢えと渇きが、お前のその無駄なプライドをいつまで支えられるか、見物だな」
バタンッ! と乱暴に扉が閉められ、再び重い鍵がかけられる。
残された私は、ふぅ、と長く息を吐き出した。
(焦ってるわね、あの公爵)
言葉とは裏腹に、彼の態度は明らかに余裕を失っていた。
私が屈しないことへの苛立ち。そして、王都でレオンがどのような反撃に出るか、完全には読み切れていないことへの恐怖が、彼の背中から微かに透けて見えた。
レオンは、法案ごときで止まるような男じゃない。
必ず、何か仕掛けてくる。
そう確信した、その時だった。
カリカリッ。
カリカリカリッ。
タペストリーの裏に隠された秘密の小扉の奥から、微かな、何かが引っ掻くような音が聞こえた。
リリアが戻ってきたのだろうか? いや、彼女ならもっと静かに、合図のノックをするはずだ。
私は息を殺し、ゆっくりとタペストリーに近づく。
音は、壁の奥の暗闇から、必死に何かを訴えかけるように続いている。
「誰……?」
私は震える手で、小さな木製の扉をそっと押し開けた。
暗い通路の奥。
そこに丸まっていた、小さな、泥だらけのシルエット。
「ピ、ピキュゥ……」
「えっ……嘘」
私は弾かれたように膝をつき、両手でその小さな体を掬い上げた。
丸い鼻、黒くてクリクリした瞳、そして、背中のチクチクとした針。
誘拐されたあの夜、男に壁に向かって蹴り飛ばされ、生き別れになっていた私の大切な相棒――トゲマルだった。
「トゲマル! 生きてたのね……っ、無事だったのね!」
私は涙腺が決壊し、泥だらけの彼を頬にすり寄せた。
トゲマルは弱々しく「ピキュ……」と鳴きながら、私の指先を小さな舌でペロペロと舐めてくれる。
よく見ると、彼の小さな身体には、不器用だがしっかりと、清潔な白い包帯が巻かれていた。
公爵邸の人間が、ネズミ同然に扱うこの子を手当てするはずがない。
ということは。
「トゲマル。あなた、この包帯……誰に巻いてもらったの?」
私が尋ねると、トゲマルはブルブルと身を震わせ、自分の背中の針の間に挟まっていた『何か』を、ポトリと私の手のひらに落とした。
それは、小さく切り取られた、黒い革の欠片。
無骨で、分厚くて、微かに血と鉄の匂いが染み付いた、軍用グローブの指先部分だ。
「……ッ」
息が、止まるかと思った。
間違いない。レオンの手袋だ。
私はその黒革の欠片を裏返す。そこには、先の尖ったナイフか何かで、乱暴に刻み込まれた文字があった。
『耐えろ。檻は、俺が壊す』
たった一言。
極限まで削ぎ落とされたその言葉に込められた、圧倒的な熱量と殺気、そして私への不器用すぎる愛情が、文字の形を通して私の心臓に直接突き刺さる。
「……バカ。遅いってば」
ポロポロと涙がこぼれ落ち、黒い革を濡らしていく。
公爵は『レオンは来られない』と言った。法で縛り、軍を動かせないようにしたと。
でも、あの戦場の鬼が、そんなちっぽけなルールの前で立ち止まるわけがない。彼は必ず、すべてをなぎ倒して私の元へやって来る。
トゲマルがこの隠し通路を通ってここまで来れたということは、レオンの放った斥候が、すでにこの公爵邸の構造を完全に把握し、内部への侵入ルートを確立している証拠だ。
「ピギィッ!」
トゲマルが、私を励ますように小さな声で力強く鳴いた。
「ええ、そうね。泣いてる場合じゃないわ」
私は涙を乱暴に拭い、トゲマルをエプロンのポケットに優しくしまい込む。
手の中の黒革の欠片を、お守りのようにギュッと握りしめる。
レオンが外からこの鳥籠を破壊しに来る。
なら、私はただ待っているだけのヒロインで終わるつもりはない。
彼が突入してくるその瞬間に合わせて、この屋敷の内部を完全に崩壊させてやる。
すでに、使用人たちの胃袋と忠誠心は、私の焼いたパンが完全に掌握しているのだから。
「ローディア公爵。あなたが私から奪った日常の代償は、とてつもなく高くつくわよ」
窓の外、夜明けが近い藍色の空を見上げ、私は不敵な笑みを浮かべる。
反逆の準備は整った。
王都を巻き込んだパンと権力の戦争は、いよいよ最終局面へと突入しようとしていた。




