シーン3:暖炉の石窯(ダッチオーブン)と、涙の黄金パン
深夜。
分厚いカーテンの隙間から差し込む月光だけが、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
廊下の見張りの足音は、一定のリズムで遠ざかっては近づき、また遠ざかっていく。
私は大理石の暖炉の前に座り込み、その足音が最も遠のくタイミングをじっと待っていた。
――コトッ。
タペストリーの裏から、ネズミが壁を這うような微かな音がした。
私は素早く立ち上がり、タペストリーをめくり上げる。
隠し扉がキィと小さく鳴って開き、中から煤で顔を汚したリリアが、ふらつく足取りで這い出してきた。
彼女の両腕には、彼女の細い体には不釣り合いなほど巨大で重々しい、黒光りする鋳鉄の鍋が抱えられている。
「はぁっ、はぁっ……エリナ、様……お持ち、しました」
「よくやったわ、リリア。重かったでしょう」
私は急いでその重い鍋を受け取り、音を立てないように絨毯の上に置いた。
リリアは肩で息をしながら、エプロンのポケットから麻袋に入った小麦粉、小さな塩の包み、そしてコルク栓のされたガラス瓶を取り出した。
「お水と、粉と、お塩です。それと、これは……」
リリアがためらいがちに差し出したのは、木製の小さなボウル。
ラップ代わりの布をめくると、鼻を刺すような強烈な酸っぱい匂いが立ち上った。
公爵邸の厨房で使われている『死にかけの酵母』だ。
「……ひどい匂い。過発酵で、乳酸菌と酢酸菌が暴走してるわね」
私が顔をしかめると、リリアは申し訳なさそうに首をすくめた。
「料理長は、いつもこの種をそのまま使って、水分を極限まで減らしてパンを固めているんです。エリナ様……こんな臭い種で、本当にあの黄金色のパンが焼けるんですか?」
「焼けるわ。酵母は生き物だもの。弱っているなら、美味しいご飯をあげて元気にしてあげればいいのよ」
私はボウルの中のドロドロとした種を指ですくい、匂いと粘り気を確認する。
最悪の状態だが、完全に死滅しているわけではない。
前世でサワードウ(自然発酵種)を扱っていた私にとって、種のリフレッシュ(活性化)は基本中の基本だ。
「いい? リリア。この酸っぱすぎる種をそのまま使うから、パンが不味くなるの。だから、まずこの種の九割を捨てるわ」
「えっ!? す、捨てるんですか!?」
「そう。残った一割の『芯』に、新しい粉と水をたっぷりと混ぜ合わせるの。そうすれば、酸味が薄まって、休んでいた酵母菌が新しい栄養を食べて爆発的に増殖を始めるわ」
私はガラス瓶の水をボウルに注ぎ、小麦粉を足して、指先で素早く、空気を抱き込むようにかき混ぜる。
すると、数分もしないうちに、ボウルの中から『プツッ、プツッ』という微かな音が聞こえ始めた。
強烈だった酸っぱい悪臭がすーっと消え、代わりに、果実のような爽やかな甘い香りが立ち上がってくる。
「嘘……あんなに臭かったのに、いい匂いが……」
「これが発酵の魔法よ。さぁ、生地を作るわよ」
私はテーブルの上の大皿を綺麗に拭き上げ、そこに大量の粉と水、塩、そして蘇った酵母を流し込んだ。
スプーンがないので、自分の手で直接混ぜ合わせる。
水分の多い『高加水』の生地は、最初は泥のように手にへばりつくが、両手で持ち上げては叩きつけ、空気を巻き込むように折りたたんでいくと、次第に絹のように滑らかな弾力を持った球体へと変化していった。
「す、すごいです……生地が、生きてるみたいにプルプルして……」
リリアが目を輝かせて、私の手元を食い入るように見つめている。
「発酵を待つ間に、暖炉の準備をするわ。リリア、その隠し通路にあった薪を少し出してくれる?」
私が指示すると、リリアは手際よく薪を暖炉にくべた。
火打ち石で火を起こし、炎が赤々と燃え上がり始める。
部屋の温度が上がり、貴族の香の匂いが薪の焦げる匂いに上書きされていく。
「ここからが『ダッチオーブン』の真骨頂よ」
私は燃え盛る炎の中に、分厚い鋳鉄の鍋を蓋ごと突っ込んだ。
「ええっ!? お鍋が真っ赤になっちゃいますよ!」
「それが狙いよ。鍋そのものを、何百度という熱を持った『オーブン』に進化させるの」
一時間後。
部屋の隅で休ませていた生地は、元の二倍の大きさにふっくらと膨らみ、表面には発酵の証である細かな気泡が透けて見えていた。
私は厚手の布をミトン代わりにし、暖炉の炎の中から限界まで熱せられた鉄鍋を引きずり出す。
蓋を開けた瞬間、熱気と白煙が顔を打つ。
私は手早く生地の表面にクープ(切れ込み)を入れ、熱々の鉄鍋の中へと滑り込ませた。
――ジュウゥゥッ!!
生地が鍋肌に触れた瞬間、激しい音が鳴る。
私はすかさず、重厚な鉄の蓋を『ガタンッ』と閉め、再び鍋を暖炉の灰の中へと戻し、上から燃える薪を被せた。
「……これで、本当に焼けるんですか?」
リリアが不安そうに暖炉を見つめる。
「ええ。鍋の中で生地の水分が一気に蒸発して、逃げ場を失った水蒸気が鍋の中に充満するわ。そのスチームが生地の表面を薄くコーティングして、中身が膨らむのを助けてくれるの。そして最後は、そのスチームごと焼き切って、最強の『殻』を作る」
待つこと、数十分。
変化は、聴覚よりも先に『嗅覚』に訪れた。
重厚な鉄の蓋の隙間から、微かに、本当に微かに漏れ出した一筋の白い煙。
それが鼻腔に触れた瞬間、リリアの腹の虫が『ギュルルルルッ!!』と、かつてないほど大きな悲鳴を上げた。
「あ……」
リリアが真っ赤になって顔を覆う。
無理もない。
それは、小麦のデンプンが極限の熱で糖化し、焦げる寸前のカラメルへと変化した、暴力的で圧倒的な甘い香りだった。
公爵が好むような上品で気取った香水など、一瞬で消し飛ばしてしまうほどの、人間の生存本能に直接語りかける『暴力的な美味』の匂い。
「そろそろね。蓋を開けるわよ」
私は布を幾重にも重ねて手に巻き、鍋の上の薪を退け、重い蓋を持ち上げた。
ブワァッ!!
閉じ込められていた濃密な湯気と香りが、爆発するように部屋中に広がる。
熱気が晴れた鍋の底に鎮座していたのは、見事な黄金色に輝く、丸々としたカンパーニュだった。
クープは大きく弾け、エッジが鋭く反り返り、そこから覗く内側の生地は透き通るような白さ。
パチパチ、ピチピチ。
冷たい空気に触れた表面が、微かにひび割れながら『天使の拍手』を鳴らしている。
それを見たリリアは、完全に言葉を失い、へなへなと絨毯の上に膝をついた。
「う……うそ……。石窯もない、あんな臭い種と、たった一つのお鍋だけで……こんな、おとぎ話みたいなパンが……」
私は熱々のパンを鍋から取り出し、両手で掴んで、勢いよく半分に割った。
パリィッ! という快音とともに、真っ白な湯気が上がり、絹のようにきめ細かい内層が姿を現す。
外側は鎧のように硬く、内側は赤ん坊の頬のように柔らかい。
「さぁ、食べてみて。公爵の豪華なディナーには勝てないかもしれないけど、少なくとも、あなたの胃袋は幸せにしてあげられるわ」
私は湯気を立てる半分を、へたり込んでいるリリアの手に押し付けた。
彼女は震える両手でそれを受け取り、信じられないものを見るように、黄金色の断面を見つめる。
そして、ゆっくりと口に運び、かぶりついた。
――サクッ。
彼女の細い歯が、香ばしい外皮を突き破り、もっちりとした高加水生地へと沈み込んでいく。
「…………ッ!!」
リリアの目が見開き、咀嚼の動きがピタリと止まる。
次の瞬間、彼女の喉仏が大きく動き、ゴクリと飲み込んだ。
そして、堰を切ったように、二口、三口と、貪り食うようにパンを口へねじ込み始めた。
「あぁ……っ、おい、しい……っ! 甘い……パンって、こんなに甘くて、温かい食べ物だったんですね……!」
ボロボロと、大粒の涙が彼女の頬を伝い、パンの表面に染み込んでいく。
限界まで空腹だった胃袋に、酵母の旨味と小麦の甘みが暴力的なまでの速度で吸収されていくのが、見ている私にもわかるほどだった。
「ゆっくり食べて。まだ半分あるから」
私が優しく背中を撫でると、リリアは泣きじゃくりながら、私に向かって深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございます……! 私、こんな美味しいもの、生まれて初めて食べました……! 公爵様が毎日食べている白パンなんかより、ずっと、ずっと美味しいです!」
リリアの言葉は、私の胸の奥にあった不安を完全に吹き飛ばしてくれた。
貴族の権力も、厳重な鉄格子も、関係ない。
私の生み出したパンの『圧倒的な美味しさ』は、身分や立場の壁を軽々と越えて、人の心を確実に支配するのだ。
「ねえ、リリア」
私は彼女の涙を指で拭い、真剣な目で見つめた。
「このパンの焼き方、あなたにも教えてあげる。そうすれば、あなたはもう、料理長の作る石ころみたいなパンを我慢しなくてよくなるわ」
「えっ……? わ、私に、ですか?」
「ええ。でも、条件があるの。この美味しいパンを、明日から少しずつ、他の使用人たちにも食べさせてあげて。もちろん、公爵や料理長には内緒でね」
リリアは一瞬、戸惑うように目を泳がせた。
公爵への裏切り。見つかれば、命はない。
だが、彼女は手元に残った黄金色のパンの欠片を見つめ、ゴクリと息を飲んだ。
「……やります。私、やります」
顔を上げた彼女の瞳には、先ほどまでの怯えた光は一切なく、確かな『反逆の意志』が宿っていた。
「私の友達のメイドも、馬番の男の子も、みんなお腹を空かせて、公爵様を恨んでいます。このパンを食べれば、みんな絶対に、エリナ様の味方になります!」
私はニヤリと笑い、リリアの手を強く握り返した。
見張りの兵士が、扉の向こうで『何かいい匂いがしないか?』とヒソヒソ話しているのが聞こえる。
私の静かなる侵略は、公爵の足元であるこの使用人たちから、劇的な速度で広がり始めていた。




