シーン2:絶望の晩餐と、暖炉の前の小さな共犯者
冷たい鉄格子に額を押し当て、私は外の景色をただ無言で見つめていた。
空はすでに深い藍色に沈み、遠くの森の境界線が闇に溶け込もうとしている。王都の中心部なら、この時間でも街灯が瞬き、人々の喧騒が絶えないはずだが、ここは恐ろしいほどに静かだった。
聞こえるのは、風が木々を揺らす微かな音と、自分の規則的な呼吸音だけ。
(……トゲマル。無事でいてね)
目を閉じると、脳裏に浮かぶのは小さな相棒が壁に叩きつけられた瞬間の光景だ。
胸の奥がギリッと軋む。
あの男たちは「ネズミ」と呼んで一瞥しただけだったから、わざわざトゲマルまで攫ってはこなかったはずだ。レオンが部屋に戻れば、きっと見つけて手当をしてくれる。そう信じるしかなかった。
そして、レオン自身のこと。
私が部屋から消えたと知った時、あの冷徹な騎士団長はどんな顔をするだろうか。激怒して公爵邸に単騎で乗り込んでくるかもしれない。でも、それは公爵の罠だ。軍のトップが明確な証拠もなく大貴族の私領地に攻め込めば、それこそ国家反逆の口実を与えてしまう。
「……ッ、バカみたい。私がいちばん、状況を甘く見てた」
自分の不甲斐なさに、ギリッと奥歯を噛み締める。
彼がどれだけ過保護に私を鳥籠に閉じ込めようとしたか、その理由が今なら痛いほどよくわかる。
権力者にとって、私の命など、チェス盤のポーン以下の価値しかないのだ。
その時、廊下の向こうから微かな足音が近づいてくるのが聞こえた。
私はビクッと身を強張り、窓際から離れて壁を背にする。
ガチャリ、カチャカチャッ。
厳重な複数の鍵が開けられる金属音。続いて、重いオーク材の扉がゆっくりと内側へと開かれた。
「……失礼いたします」
蚊の鳴くような細い声と共に部屋に入ってきたのは、暗殺者でも公爵でもなく、地味なメイド服を着た一人の少女だった。
年齢は私と同じか、少し下くらいだろうか。
彼女は両手に大きな銀のトレイを抱え、床に視線を落としたまま、小刻みに震えている。トレイの上には、銀のドーム型の蓋が被せられた皿と、クリスタルグラス、そして琥珀色の液体が入ったデキャンタが乗っている。
「公爵様より、夕食をお持ちするよう申し付かりました」
少女は私の顔を一切見ようとせず、部屋の中央にある猫足のテーブルへと歩み寄り、カチャカチャと音を立てながらトレイを置いた。
漂ってくるのは、濃厚な赤ワインと、香草でローストされた肉の匂い。
明らかに、最高級の食材を使った豪奢な晩餐だ。
「……豪華な食事ね。毒でも入ってるのかしら」
私が警戒心も露わに冷たく言い放つと、少女は「ひっ」と短く息を呑み、慌てて首を横に振った。
「そ、そのようなことは決して! 公爵様は、エリナ様が我が家の専属になられるのであれば、これからはこのような至高の食事を毎晩約束する、とおっしゃせられておりました」
「そう。ずいぶんと分かりやすい餌ね」
私はテーブルに歩み寄り、銀の蓋を無造作に持ち上げた。
現れたのは、見事な焼き色のついた鴨肉のローストと、美しく飾り切りされた野菜たち。
だが、私の視線は肉ではなく、皿の端に添えられた『丸い物体』に釘付けになった。
「……なに、これ」
「えっ……? そ、それは、パンでございますが……」
少女が戸惑ったように答える。
確かにそれは、王都の高級レストランで出されるような『白パン』の形をしていた。だが、表面はカサカサに乾燥し、指で触れると石のように硬い。
私が顔を近づけて匂いを嗅ぐと、古い油と、酸味の強すぎる劣悪な酵母の匂いがツンと鼻を突いた。
「これがパン? 冗談でしょ。鴨肉のソースの香りを完全に殺してるじゃない。公爵邸の厨房には、まともな酵母の管理もできない三流の職人しかいないわけ?」
「あ、あの……それは、私ども使用人が食べる用の、配給パンでして……」
少女が消え入りそうな声で呟く。
「は?」
「公爵様や上流の皆様が召し上がる白パンは、王都のギルドから毎日焼き立てが運ばれてくるのですが……本日は、ギルドからの納品が完全にストップしてしまいまして。厨房の料理長が激怒し、エリナ様への『見せしめ』として、あえて使用人用の最も硬いパンを添えるようにと……」
なるほど。
ギルドの機能が停止しているのは、私がレシピをばら撒いたせいだ。その腹いせに、私にこの『ゴミ』を食べさせて屈辱を与えようという魂胆か。
実に陰湿で、貴族らしい嫌がらせだ。
だが、私の思考は別のところに向かっていた。
「ねえ、あなた」
私は鴨肉から視線を外し、目の前で震えている少女を真っ直ぐに見つめた。
改めて観察すると、彼女の姿はひどく痛々しい。
メイド服は清潔に保たれているが、彼女自身の頬はこけ、目の下には濃い隈が張り付いている。そして何より、トレイを持つ彼女の両手は、ひび割れ、無数の火傷の痕や、刃物で切ったような細かな傷で覆われていた。
爪の間に微かに残る白い粉。
「あなた、お屋敷のメイドじゃないわね。普段は地下の厨房で働いてるでしょう」
「っ……! ど、どうしてそれを……」
少女が驚愕に目を見開く。
「その手を見ればわかるわ。火の熱に晒され、水仕事で油分を奪われた、下働きの料理人の手よ。それに……」
私は彼女の顔に顔を近づけ、小声で囁いた。
「さっきから、あなたのお腹、ずっと鳴ってるわよ」
ボンッ、と音がしそうなほど、少女の顔が真っ赤に染まった。
彼女は慌てて両手で自分の胃のあたりを押さえ、涙目になって後ずさる。
「も、申し訳ございません! お聞き苦しい音を……! わ、私、すぐにお暇いたしますので……!」
「待ちなさい」
私は逃げようとする彼女の手首を、ガシッと掴んだ。
ひどく細く、骨ばった手首だ。
「食事の支度をして、こんなに美味しそうな匂いを一日中嗅がされているのに、自分たちはあの石ころみたいなパンしか食べさせてもらえない。……そうでしょう?」
私の言葉に、少女は抵抗する力を失い、コクリと小さく頷いた。
「公爵様は……私ども使用人を、道具としか見ておられません。少しでも仕事でミスをすれば、食事を抜かれます。私、もう三日も……ちゃんとしたものを、食べていなくて」
ポロリと。
彼女の大きな瞳から、一粒の涙がこぼれ落ち、絨毯に染みを作った。
その瞬間、私の中で、公爵に対する怒りとは別の、静かな炎が燃え上がった。
美味しいものを独占し、下で働く者たちを飢えさせる。
そんな理不尽なシステム、絶対に許せない。
「……名前は?」
「え……?」
「あなたの名前。教えて」
私が強い口調で尋ねると、少女は怯えながらも口を開いた。
「リ、リリア……と申します」
「そう、リリアね。私はエリナ。エリナ・フォルティスよ」
私は彼女の手首を離し、テーブルの上の鴨肉のローストを、ドーム型の蓋ごとリリアの胸元に押し付けた。
「えっ……? エ、エリナ様?」
「これ、あげる。私、公爵の用意した食事なんて食べる気になれないから。後で厨房の隅にでも隠れて、こっそり食べなさい」
「そ、そんな! 滅相もございません! もし料理長に見つかれば、私は鞭打ちの上、屋敷を追い出されてしまいます!」
リリアは恐怖で顔を真っ青にして、皿を突き返そうとする。
私はそれを手で制し、ニヤリと悪戯っぽく笑ってみせた。
「じゃあ、バレないようにすればいいのよ。それに、私からの頼み事を一つ聞いてくれるなら、このお肉よりもずっと美味しいものを、あなたに食べさせてあげる」
「美味しいもの……ですか?」
リリアが、キョトンとした顔で私を見る。
「ええ。あなたが王都の噂で聞いたことがあるかもしれない、『外はパリパリ、中はふんわり』の、黄金色のパンよ」
その言葉を聞いた瞬間、リリアの瞳孔が開いた。
「……黄金のパン。それって、兵士の命を救ったという、あの奇跡の……」
「奇跡じゃないわ。ただの科学と愛情よ。でも、このお屋敷の料理長が焼く石ころよりは、百万倍マシな自信があるわ」
私は部屋の奥に視線を向けた。
そこにあるのは、豪奢な装飾が施された、巨大な大理石の暖炉だ。
今は火が入っていないが、人が二人ほど入れるほどの広さがあり、煙突はまっすぐに上へと伸びている。
「リリア。あなた、厨房の鍵を持ってるわよね?」
「は、はい。下働きの私は、早朝に火を起こす役目がありますので……」
「なら、今夜の深夜。皆が寝静まった後に、厨房から少しだけ材料を盗み出してきてちょうだい」
私が計画を口にすると、リリアは信じられないものを見るように後ずさった。
「む、無理です! お部屋の外には屈強な見張りが二人も立っているのですよ! 材料を運び込むなんて、すぐに見つかってしまいます!」
「正面から持ち込む必要はないわ。この部屋の暖炉、薪の補充はどうしてるの?」
「それは……裏廊下にある、使用人専用の小さな隠し扉から……」
ビンゴだ。
貴族の屋敷には、主人の視界を使用人が横切らないための、壁の裏を通る動線が必ず存在する。
私は壁際に歩み寄り、豪奢なタペストリーの端をめくり上げた。そこには、壁の色と同化した、かがまなければ通れないほどの小さな木製の扉があった。
「ここから、薪に紛れさせて持ってきて。必要なのは、小麦粉、塩、水。そして、あの石ころパンに使われている『酸っぱい酵母』の残りを少しだけ」
「で、でも……お部屋に石窯はありませんよ? どうやって焼くおつもりですか?」
リリアの疑問はもっともだ。
パンを焼くには、生地全体を均等な熱で包み込むオーブンが必要不可欠。暖炉の直火で炙れば、ただ表面が黒焦げになるだけだ。
だが、私には前世の知識がある。
「だから、もう一つだけ頼みがあるの。厨房にある『蓋の分厚い、鋳鉄の鍋』を一緒に持ってきて」
「……鉄のお鍋、ですか?」
「そう。深さがあって、蓋が重くてぴったり閉まるやつ。それさえあれば、この暖炉が世界最高の石窯に早変わりするわ」
前世で言うところの『ダッチオーブン』だ。
熱した鋳鉄鍋の中に生地を入れ、重い蓋をして暖炉の灰の中に埋める。
すると、鍋の内部から生地の水分が蒸発し、その蒸気が密閉された空間に充満する。これがプロの石窯で使われる『スチーム機能』と全く同じ役割を果たし、外は鎧のようにバリッと、中は驚くほどしっとりとしたカンパーニュを焼き上げることができるのだ。
「……」
リリアは鴨肉の乗った皿を抱きしめたまま、葛藤に顔を歪めている。
見つかれば、ただでは済まない。その恐怖が彼女を縛り付けている。
だが、彼女の胃袋が、キュルキュルと再び悲鳴を上げた。
限界まで空腹なのだ。毎日毎日、美味しい匂いだけを嗅がされて、自分は石ころをかじるだけの生活。
「リリア。私はね、パンは人を幸せにするためにあるって信じてるの」
私は彼女の目線の高さに合わせてしゃがみ込み、その荒れた手にそっと自分の手を重ねた。
「支配するためでも、誰かを見下すためでもない。美味しいものを食べて、明日も頑張ろうって笑い合うために、生地を捏ねるの。……あなたにも、その魔法を味わわせてあげる」
私の言葉に、リリアの瞳から再び大粒の涙が溢れた。
彼女は唇を強く噛み締め、何度も何度も、首を縦に振った。
「……わかり、ました。私、やります。今夜、必ずお持ちします」
「ありがとう。気をつけてね」
リリアは銀のトレイを脇に抱え、隠し扉の方へとは向かわず、あえて正面の扉から部屋を出て行った。
見張りの兵士を誤魔化すためだ。
バタン、と扉が閉まり、再び外から鍵がかけられる。
私は一人、静かになった部屋で、大理石の暖炉の前に座り込んだ。
冷たい灰を指でかき混ぜ、空気の通り道を計算する。
公爵は、私を鳥籠に閉じ込め、家族を人質に取り、従順な奴隷にしようとした。
だが、彼は致命的なミスを犯している。
(……職人を、材料と火のある場所に近づけちゃダメなのよ)
私の武器は剣でも魔法でもない。
小麦と水、そして火の熱を操る技術だ。
この閉ざされた部屋から、一枚のパンを使って、公爵の足元を支える使用人たちを根こそぎこちら側に引き摺り込んでやる。
静かな反逆の炎が、私の心の中で、暖炉の種火のようにチロチロと燃え始めていた。
夜が更けるのを、私は今か今かと待ちわびていた。




