シーン1:支配者の鳥籠と、譲れない矜持
ズキズキと、頭の芯が鈍く脈打っている。
口の奥にへばりついているのは、ひどく苦くて、胃液がせり上がってくるような甘ったるい薬品の味だ。
ゆっくりと鉛のように重い瞼を持ち上げると、視界が水面のようにぐにゃりと揺れる。
「……う、ん」
掠れた声が、自分の喉から漏れる。
冷たい床の感触が、頬から直接伝わってくる。ここは、どこだ。
手足を動かそうとするが、指先が痺れていてうまく力が入らない。
……そうだ。私は、レオンの部屋で。外で火事が起きて、偽物の近衛兵が入ってきて、薬を嗅がされて……。
ハッと息を呑み、私は弾かれたように上半身を起こす。
「トゲマル……ッ!」
パニックになりながら周囲を見回す。
だが、返事はない。愛らしい小さな相棒の姿は、この見知らぬ部屋のどこにも見当たらない。
最後に見た、壁に向かって無惨に蹴り飛ばされた光景が脳裏にフラッシュバックし、心臓がギリッと冷たく締め付けられる。あの子は無事なのだろうか。レオンは、ちゃんとあの子を見つけて保護してくれただろうか。
震える手で壁に手をつき、ふらつく足でなんとか立ち上がる。
部屋の中をぐるりと見渡す。
そこは、第一騎士団の質実剛健な部屋とは真逆の、悪趣味なまでに豪華な空間だ。
床には足首まで沈み込みそうなほど毛足の長いボルドー色の絨毯が敷かれ、壁には金糸で刺繍された巨大なタペストリーが掛けられている。猫足の化粧台、天蓋付きの巨大なベッド。
だが、その豪華さとは裏腹に、部屋の空気はひどく淀んでいる。
窓へ向かってよろけながら歩み寄る。
分厚いビロードのカーテンを引き開けた瞬間、私の希望は完全に打ち砕かれる。
窓枠には、手首ほどの太さがある黒鋼の鉄格子が、隙間なくはめ込まれているのだ。
鉄格子の向こうに見えるのは、見慣れた王都の街並みではない。手入れの行き届いた広大な庭園と、はるか遠くにそびえる高い城壁。そして、朝靄に包まれた見知らぬ森。
(……王都の中心部じゃない。郊外の、貴族の私領地……)
絶望的な事実が、じわじわと脳内に浸透してくる。
間違いなく、私は誘拐されたのだ。
軍の最重要拠点の奥深くにいながら、火事という囮を使われ、近衛兵を殺されて。
ガチャリ。
唐突に、背後の重厚な扉の鍵が開く音がする。
私はビクッと肩を跳ねさせ、窓辺から距離を取って壁際に背中を押し付ける。
ゆっくりと開いた扉の向こうから、複数の足音が部屋の中へと流れ込んでくる。
「ほう。薬の量が少し多かったかと思ったが、もう目を覚ましていたか。田舎育ちは思いのほか頑丈にできているらしい」
滑らかで、底知れぬ傲慢さを孕んだ声。
部屋に入ってきたのは、上質な漆黒のフロックコートに身を包んだ、五十代半ばほどの男だ。
銀色に輝く髪は一糸乱れず撫でつけられ、片眼鏡の奥にある青灰色の瞳が、冷徹な光を放って私を上から下まで値踏みしている。
その後ろには、見覚えのある脂ぎった顔――パン職人ギルド長のガルドが、卑屈な笑みを浮かべて控えている。さらにその後方には、武装した屈強な私兵が二人。
「……あなたが、ローディア公爵ね」
私は震える膝に力を込め、努めて平坦な声で言い放つ。
男はわずかに眉を上げ、薄い唇を歪めて笑う。
「いかにも。王都の経済と流通を束ねる、ローディア公爵家当主、マクシミリアン・フォン・ローディアだ。このような荒っぽい招待になった非礼は詫びよう。だが、あの狂犬のような騎士団長が、お前を鉄の檻に囲い込んでいたのでな。少々力技を使わざるを得なかった」
「荒っぽい招待? ふざけないで。近衛兵を傷つけて、私のトゲマルまで蹴り飛ばして……これが貴族のやることなの!?」
怒りが恐怖を塗り潰し、私は声を荒げる。
だが、ローディア公爵は痛痒すら感じていない様子で、手にはめた純白の絹手袋をゆっくりとなぞる。
「虫ケラが数匹死んだところで、大局には何の影響もない。それよりも、お前自身が持つ『価値』の話をしようではないか、エリナ・フォルティス男爵令嬢」
公爵は悠然とした足取りで部屋の中央に進み、猫足の椅子の背もたれに手をかける。
「お前がばら撒いたあの紙切れのせいで、我が公爵家の被った損害は計り知れない。特権階級が管理すべき高度な技術を、無知な平民どもに与えるなど、愚かにもほどがある。秩序の破壊だ」
「秩序じゃないわ。あなたたちが不味いパンで暴利を貪っていただけの、ただの搾取よ!」
「それが『正しい姿』なのだよ、小娘」
公爵の青灰色の瞳が、ゾッとするほどの冷たさを帯びて私を射抜く。
「価値あるものは、選ばれた者が独占し、管理する。愚民どもは、我々が与えるものを黙って口に運び、我々のために労働すればいい。それが国を豊かにし、強固にする唯一の手段だ。お前のように『共有』などという甘ったるい幻想を抱く者がいるから、民が身の程を忘れ、反乱の火種が生まれる」
絶対的な選民思想。
この男の根底にあるのは、自分たち特権階級以外の人間を、同じ人間としてすら見ていないという恐ろしい価値観だ。
「だから、お前が犯した大罪を、ここで精算させてやろう」
公爵は指を鳴らす。
すると、後ろに控えていたガルドが、もみ手をして前へ出る。
「エリナお嬢様。公爵様は、実に寛大なお方です。軍の厨房などという泥臭い場所ではなく、この公爵邸の広大な地下厨房を、あなた専用に与えてくださると仰っているのですよ」
ガルドの言葉に、私は眉をひそめる。
「そこで何をするって言うの」
「もちろん、パンを焼くのだ。我々のためだけにな」
公爵が冷たく言い放つ。
「お前にはこれから、あの『二度焼き』の保存パンを、我が公爵家の専属職人として生産してもらう。軍へ納入する分はもちろん、他国への輸出ルートもすでに構築済みだ。もちろん、レシピは我が家門の最高機密として封印する。市中に出回っている紙切れの類は、すでに私兵を使って回収・焼却させている」
「……そんなこと、できるわけないでしょ。もう何千人っていう人が、あの焼き方を知ってるのよ!」
「知っていればどうなる? 小麦と塩の流通を止めてしまえば、平民どもは石のパンすら焼けなくなる。数日もすれば、腹を空かせて我々の足元に這いつくばるさ」
淡々と語られる恐ろしい計画に、私は言葉を失う。
この男は、自分たちの権威を取り戻すためなら、王都の人間を飢えさせることすら何とも思っていないのだ。
「私が……頷くと思ってるの?」
私は両手を強く握りしめ、公爵を真っ直ぐに睨み返す。
「私はパンを焼くわ。でも、それはお腹を空かせている人を笑顔にするためよ。あなたみたいな、権力と金にまみれた冷酷な人間の胃袋を満たすために、生地を捏ねるつもりは一切ないわ!」
私の明確な拒絶の言葉を聞いても、公爵の表情は全く崩れない。
むしろ、哀れむような目で私を見下してくる。
「威勢がいいのは結構だ。だが、お前には選択肢がないということを理解していないようだな」
公爵は懐から、一枚の封筒を取り出す。
それは、見覚えのあるフォルティス家の家紋が押された、古ぼけた封筒。
レオンが持ってきてくれた、あのミーナからの手紙が入っていた封筒と、同じ材質。
「……っ」
「お前の実家であるフォルティス男爵領は、現在、我が公爵家の私兵部隊が完全に取り囲んでいる。領民ともども、いつ火を放たれてもおかしくない状況だ。さらに言えば、お前の父親の借金の債権は、すべて私が買い取った」
「卑怯者……ッ!」
私は反射的に公爵へと飛びかかろうとする。
だが、その前にガルドの背後にいた護衛の大男が立ちはだかり、私の肩を乱暴に突き飛ばす。
「きゃっ……!」
床の絨毯に無様に転がり、肩に鈍い痛みが走る。
公爵は見下ろす視線を一歩も動かさず、静かに告げる。
「これが現実だ。お前がここでパンを焼くことを拒めば、お前の家族と領民はすべて灰になる。だが、おとなしく私に傅き、我が公爵家の利益のためにその腕を振るうなら、実家の安全と、一生遊んで暮らせるだけの富を約束しよう。……賢い選択をすることだ」
公爵はそれだけ言うと、踵を返して扉へと向かう。
ガルドが私を見下ろし、醜悪な笑みを浮かべる。
「せいぜい、頭を冷やして考えることですな。軍の狂犬も、公爵様の領地までは手出しできませぬから。ここで朽ち果てるか、我々のために腕を振るうか。二つに一つですぞ」
重い扉が閉まり、外から再び厳重な鍵がかけられる音が響く。
部屋には、私一人だけが残される。
私は絨毯の上にへたり込んだまま、力なく俯く。
悔しい。自分の無力さが、たまらなく悔しい。
私が広げたパンの波は、確かに世界を変えようとしていた。
でも、権力という巨大な暴力の前では、一人の少女の知識など、こんなにも簡単に押し潰されてしまうのだ。
(レオン……)
胸の奥で、彼の名前を呼ぶ。
不器用で、冷酷なフリをして、誰よりも優しかった彼。
今頃、火事の鎮圧を終えて、私の部屋が空になっていることに気づいているだろうか。
彼なら助けに来てくれる。そう信じたい。
でも、公爵の言う通り、貴族の私領地に軍が強行突入することは、明確な国家反逆行為になりかねない。いくら彼でも、政治の壁を越えることは容易ではないはずだ。
「……待ってるだけなんて、私らしくない」
私はゆっくりと顔を上げ、床を強く叩く。
「守られるだけの鳥籠なんて、もうたくさんよ。私のパンは、私自身の力で世界に届かせるんだから」
絶望の淵で、私の中の『パン職人としての意地』が、静かに、けれど熱く燃え上がり始める。
この巨大な鳥籠の中から、自分の価値を武器にして、状況をひっくり返してやる。
反逆の意志を固めた私の戦いは、この絶望的な密室から幕を開けるのだった。




