シーン4:焦げた匂いの夜と、崩れ落ちる鋼鉄の絶対防壁
深夜。
王都を照らす青白い月光が、分厚いガラス窓をすり抜けて、ふかふかの絨毯の上に四角い光の池を作っていた。
私はベッドの中で身をよじり、何度も寝返りを打つ。
眠れない。
高級な羽毛布団は、田舎の硬いベッドとは比べ物にならないほど温かくて軽いのに、心がずっとざわついている。
テーブルの上に置かれた革張りの箱――レオンが取り寄せてくれた発酵バターの存在が、嬉しい反面、彼がそこまでして私を部屋に縛り付けておかなければならない『外の異常事態』を、嫌でも実感させていた。
「ピキュゥ……」
枕元で丸くなっているトゲマルも、浅い眠りの中で時折ビクッと小さな体を震わせている。
静かすぎるのだ。
昼間はあれほど活気に満ちていた第一騎士団の総本部が、今はまるで巨大な墓標のように沈黙している。時折、廊下を巡回する警備兵の硬い足音が響く以外、何も聞こえない。
(……考えすぎよ、エリナ。ここは国で一番安全な場所じゃない)
自分に言い聞かせるように目を閉じ、深呼吸をする。
鼻を抜けるのは、貴族好みの香の匂い。
――その時だった。
『――カンッ!! カンッ!! カンッ!!』
突如として、けたたましい鐘の音が静寂を切り裂いた。
心臓が跳ね上がる。
ただの時報じゃない。乱打される鐘の音は、明らかに緊急事態を知らせる警報だ。
「な、何!?」
私は弾かれたようにベッドから跳ね起きた。トゲマルも目を覚まし、全身の針を逆立てて威嚇のポーズをとる。
窓際へ駆け寄り、厚いカーテンの隙間から外を覗き込んだ。
王都の南区――商業ギルドや倉庫が立ち並ぶエリアの空が、不自然なほど赤く染まっている。
火事だ。
それも、一箇所ではない。夜空を焦がすような黒煙が、数カ所から同時に立ち上っている。
『総員、武装しろ! 南区の第三、第四軍糧庫に火が放たれた!』
『暴徒の数は数百! 鎮火と暴徒鎮圧班、急ぎ出装せよ!』
中庭から、兵士たちの怒号が突き上げてくる。
軍の食糧庫が放火された?
偶然の火事じゃない。明らかに、計算された組織的なテロ行為だ。
バンッ!
突然、私の部屋の重厚な扉が勢いよく開かれた。
入ってきたのは、完全武装したレオンだった。手にはすでに抜き身の長剣が握られ、その刃が月光を反射してギラリと冷たく光っている。
「レオン! 外が……火事……!」
「窓から離れろ、エリナ!」
レオンは鋭く叫ぶと、足早に私に近づき、力強い手で私の腕を引いて窓辺から引き剥がした。
彼の纏う空気が、昼間の執務室で見せた疲労感とは全く違う、完全に『戦場の鬼』のそれに切り替わっている。むせ返るような鉄と、張り詰めた殺気。
「南区の倉庫街が襲撃された。公爵派に雇われた傭兵と、職を失ったギルドのゴロツキどもの仕業だ。奴ら、軍の兵糧を燃やすことで、お前のパンがもたらした兵站の余裕を物理的に削り取るつもりらしい」
「そんな……私のせいで、王都が燃えてるの……?」
「己を過剰に責めるな。これは権力闘争だ。火種がお前だったというだけで、いずれ破裂するべくして破裂した膿にすぎん」
レオンは私の肩を強く掴み、真っ直ぐに私の目を見た。
「私はこれから、部隊を率いて鎮圧に向かう。火の手がこれ以上広がれば、王都の機能が完全に停止する。軍のトップとして、出向かないわけにはいかない」
「行かないで!」
私は無意識に、彼の手首にすがりついていた。
怖い。
理屈じゃない。彼がこの要塞からいなくなるという事実が、得体の知れない恐怖となって私の喉を締め付ける。
「これが罠だって、レオンも分かってるんでしょ!? 倉庫を燃やしてあなたを外におびき出して……本当の狙いは……!」
「分かっている。だからこそ、だ」
レオンは私にすがりつかれた手を、逆に私の手を包み込むように優しく、けれど力強く握り返した。
「この部屋の扉は、外から物理的に施錠する。さらに、私の直属の近衛兵の中でも、最も信頼の置ける二名を扉の前に配置した。私が戻るまで、何があっても――たとえ国王の勅命だと名乗る者が来ても、絶対に扉を開けるな。いいな」
彼の灰色の瞳が、祈るような、それでいて絶対的な命令の色を帯びて私を射抜く。
私が小さく頷くと、彼はほんの一瞬だけ、私の額に自分の額をコツンと押し当てた。
冷たい鋼鉄の兜の感触と、彼自身のひどく熱い体温。
「必ず戻る。……お前が焼くバターのパンを、食わねばならないからな」
それだけ言い残し、レオンは翻ったマントの音と共に部屋を飛び出していった。
ガチャン、と重々しい金属音が響き、外から鍵がかけられる音がする。
「……」
一人取り残された部屋は、先ほどよりもずっと広く、冷たく感じられた。
私はテーブルの上のバターの箱を胸に抱きしめ、ベッドの隅にうずくまる。
トゲマルが私の足元にすり寄り、不安げな鳴き声を上げた。
時間が、ひどくゆっくりと流れていく。
窓の隙間から、遠くの街が燃える焦げた匂いが入り込んでくる。
廊下からは、バタバタと走り回る兵士たちの足音と、怒号が絶え間なく聞こえていた。それが一時間ほど続き……やがて、潮が引くように要塞の喧騒が消えていった。
出撃可能な部隊は、すべて火災の鎮圧と暴徒の制圧に駆り出されたのだろう。
残っているのは、最低限の警備兵だけ。
静かだ。
自分の心臓の音だけが、耳の奥でうるさいくらいに鳴り響いている。
(……大丈夫。レオンの近衛兵が外にいる。ここは、絶対に安全)
そう自分に言い聞かせ、抱え込んだ膝に顔を埋めた、その時だった。
――ドサッ。
扉のすぐ外、廊下の向こう側で、重い土嚢が落ちたような鈍い音がした。
ビクッと肩が跳ねる。
「……え?」
私は息を殺し、扉の方を凝視した。
『カシャッ』という、金属同士が微かに擦れ合う音。
それきり、外からの気配が完全に消失した。
先ほどまで微かに聞こえていた、近衛兵たちが姿勢を変える時の鎧の衣擦れの音すら、全く聞こえない。
「ピギィッ!!」
トゲマルが、ベッドから飛び降りて扉の前に立ち、全身の針を限界まで逆立ててけたたましい威嚇音を上げた。
嫌な汗が、全身の毛穴から噴き出す。
頭の中で警鐘が鳴り響いている。
近づいちゃダメだ。でも、確認しなきゃ。
私は震える足でベッドから降り、音を立てないようにゆっくりと扉へ近づいた。
冷たい木製の扉に耳を押し当てる。
無音。
いや――違う。
カチャッ、カチャッ。
鍵穴に、何かがねじ込まれる金属音。
外から施錠されているはずの重厚なシリンダーが、魔法か特殊な工具によって、強引にこじ開けられようとしている音だ。
「誰……ッ!?」
私が悲鳴のような声を上げた瞬間。
ガチャコンッ! という重い音と共に、掛けられていたはずの鍵が外れた。
重厚なオーク材の扉が、ゆっくりと内側へ開いていく。
廊下の薄暗い松明の光を背に受けて、三つの黒い影が部屋の中に滑り込んできた。
彼らは、第一騎士団の制服を着ていた。
だが、私は一瞬で彼らが『偽物』だと直感した。
匂いだ。
レオンや第一騎士団の兵士たちからは、厳しい訓練で染み付いた汗と鉄の匂い、そして最近では、食堂で食べる私のパンの甘い香りが微かに漂っている。
だが、目の前に立つこの三人の男たちから漂ってくるのは、安酒の饐えた匂い、路地裏の泥の匂い。
そして何より――酷く酸化した古い油と、死にかけた酵母の酸っぱい悪臭。
「……パン職人ギルドの……暗殺者」
私が震える唇で呟くと、真ん中に立つ男が、ニィッと黄色い歯を剥き出しにして嗤った。
「ご名答だ、お嬢ちゃん。いやぁ、あの『戦場の鬼』を外におびき出すために、随分と高くついたぜ。まさか倉庫を四つも燃やす羽目になるとはな」
男は手にした短剣をヒュンと弄びながら、一歩、部屋の中へ足を踏み入れる。
その後ろの廊下には、レオンが残していったはずの屈強な近衛兵二人が、首筋から血を流して無惨に倒れているのが見えた。
「来ないで……ッ!」
私は後ずさり、テーブルの上にあった重い銀の燭台を引っ掴んで構えた。
「無駄な抵抗はやめとけ。俺たちはアンタを殺しに来たわけじゃない。ローディア公爵様と、うちのギルド長が、アンタのその『魔法の腕』を欲しがっててな。これからは公爵邸の地下牢で、一生俺たちのために美味いパンを焼き続けてもらうぜ」
「誰が……あんたたちなんかのために……!」
私は燭台を思い切り男の顔面に向けて投げつけた。
銀の塊が空を切る。
だが、男はあっさりとそれを片手で叩き落とした。ガシャンッ! とけたたましい音が響き、燭台が床に転がる。
「手荒な真似はしたくなかったんだがな」
男が顎で合図すると、左右にいた二人の大男が一気に私との距離を詰めてきた。
「ピギィィィッ!!」
勇敢にも、トゲマルが男の足元に飛びかかり、鋭い針でブーツの隙間に噛み付く。
「痛ぇッ! なんだこのドブネズミは!」
男の一人が苛立たしげに足を振り上げ、トゲマルの小さな体を壁に向かって思い切り蹴り飛ばした。
「トゲマルッ!!」
鈍い音がして、トゲマルが床に力なく転がる。
その光景に私の頭が真っ白になった瞬間、背後からもう一人の男に両腕を背中に捻り上げられ、完全に拘束された。
「離して! やめて、レオン……ッ!!」
「無駄だ。あいつは今頃、南区で火消しに走り回ってるよ」
リーダー格の男が懐から、甘ったるい異臭を放つ布を取り出し、私の口と鼻を背後から力強く塞いだ。
「むぐっ……! んんっ……!!」
息ができない。
無理やり吸い込んでしまった空気に混じる、強烈な薬の匂い。
一瞬にして、脳の芯が痺れるような感覚が全身に回っていく。
視界がぐにゃりと歪み、手足の力が急速に抜け落ちていく。
「すぐにおとなしくなる。公爵様へのお土産だ、丁寧に運べよ」
男のくぐもった声が、遠く、水底から聞こえるように響く。
(嫌だ……)
薄れゆく意識の中で、私の視界の端に映ったのは、床に転がった革張りの箱と、そこから転がり出た黄金色の発酵バター。
一番最初に、とびきり美味しいパンを焼くって約束したのに。
(レオン……)
助けを呼ぶ声は喉の奥で溶け、私の意識は、完全な暗闇の中へと沈んでいった。
こうして、私が手に入れた『守られる日常』は、あっけなく崩れ去った。
王都の秩序が私のパンによって崩壊したように、私の絶対的な安全圏もまた、権力の悪意によって蹂躙されたのだ。




