シーン3:不器用な贈り物と、戦場の鬼の謝罪
軟禁生活が始まってから、三日が過ぎた。
私にあてがわれた特別室は、田舎のフォルティス家の屋敷が十個は入りそうなほど豪華で、そしてどうしようもなく退屈だった。
床には足音が全く鳴らないほど分厚い真紅の絨毯が敷き詰められ、壁には見事な細工が施された燭台が並んでいる。
食事は三食、軍の料理長が私のレシピを忠実に再現したパンと、豪華な肉料理が運ばれてくる。
だけど、この部屋には『匂い』がない。
鼻腔をくすぐる小麦の香りも、発酵を待つ間のツンとした酵母の息吹も、石窯が放つ暴力的な熱気もない。代わりに漂っているのは、貴族好みの甘ったるい香と、磨き上げられた家具の乾いた匂いだけだ。
「……手が、白くなっちゃった」
私は窓辺のソファに寝転がりながら、自分の両手を太陽の光に透かして見た。
毎日生地を捏ね、窯の熱を浴びていた私の手は、たった数日休んだだけで、すっかり貴族の令嬢らしい柔らかさを取り戻しつつあった。
それが、ひどく虚しい。
自分の価値を奪われ、ただ箱の中で呼吸しているだけのお人形になった気分だ。
「ピキュゥ……」
私のお腹の上で丸くなっていたトゲマルも、すっかり退屈しきった顔で大きな欠伸をしている。
外に出られないストレスは、この小さな相棒にも確実に伝わっているらしい。
その時、ふと開け放たれた窓の外から、野太い声の合唱が聞こえてきた。
『――黄金のパンが行くぞ! 俺たちの胃袋の救世主!』
『固い石ころは豚に食わせろ! 俺たちはもう、涙を流して飯を食わねえ!』
思わず身を起こし、窓から身を乗り出して下を覗き込む。
中庭では、訓練を終えたばかりの兵士たちが、私が考案した『保存パン』を片手に掲げながら、即興の歌を歌って行進していた。
彼らの顔は汗と泥にまみれているのに、その表情は信じられないくらい明るく、活力に満ち溢れている。
私がいない厨房でも、料理長たちがしっかりと私のレシピを引き継ぎ、彼らの命と士気を繋いでくれているのだ。
「……ふふっ。変な歌」
私は窓枠に顎を乗せ、少しだけ笑みをこぼした。
私の身体はここに閉じ込められているけれど、私の生み出した『価値』は、確実に外の世界で生きている。それだけが、今の私にとって唯一の救いだった。
ガチャリ。
唐突に、背後の重厚なオーク材の扉が開く音がした。
ノックもなしに入ってくる人間なんて、この要塞には一人しかいない。
私は窓の外から視線を戻し、少しだけ唇を尖らせて振り返った。
「レオン。いくら自分の執務室の隣だからって、乙女の部屋にノックなしで入ってくるのはマナー違反よ」
文句を言いかけて、私はハッと口をつぐんだ。
部屋に入ってきたレオンの姿が、いつもと少し違ったからだ。
黒鋼の鎧は相変わらず冷たい光を放っているが、その下からのぞく彼の顔には、隠しきれないほどの深い疲労が刻み込まれていた。
目の下には薄く隈が張り付き、いつもは隙のない灰色の瞳が、ほんのわずかに充血している。
「……なんだか、ひどい顔ね」
「素直な感想を痛み入る。連日、貴族院の老いぼれどもと顔を突き合わせていれば、誰だってこうなる」
レオンは重いブーツの音を響かせながら部屋の中央まで歩み寄ると、手に持っていた革張りの箱を、ローテーブルの上に『コトリ』と置いた。
そして、ドカッと音を立てて私の向かいのソファに腰を下ろし、黒革の手袋をゆっくりと外し始める。
「貴族院って……ローディア公爵たちのこと?」
「あぁ。奴ら、ギルドの崩壊で受けた損失の腹いせに、第一騎士団への軍事予算の削減を議会に提出しやがった。さらに、地方からの小麦の流通経路を裏から手を回して封鎖しようと試みている。……お前のレシピでパンを焼こうとする民衆を、兵糧攻めにするつもりだろうな」
レオンは外した手袋をテーブルに放り投げ、太い指で自分のこめかみを強く揉んだ。
なんて汚いやり方だろう。自分たちの利益のためなら、民衆が飢えることすら厭わないなんて。
「でも、それじゃあ王都中が大パニックになるじゃない! 軍の配給だって……」
「安心しろ。その程度の盤面はすでにひっくり返してある」
レオンは低く笑い、充血した瞳で私を見た。
「お前がレシピを『無料』でばら撒いた効果が、ここに来て絶大な威力を発揮している。王都の商人や労働者たちが、ギルドを通さずに、直接地方の農村から独自のルートで小麦や塩を買い付け始めたのだ。公爵家の息がかかった正規の流通網など、もはや誰も必要としていない。……民衆の『美味いものを食いたい』という執念は、貴族の権力すら凌駕するということだ」
それは、私が思い描いていた『共有の力』の勝利だった。
技術が広まれば、経済の形も変わる。特権階級が上から押さえつけようとしても、無数の人々の熱量は絶対に止められない。
「それなら……私たちの勝ちってことね?」
「局地戦ではな。だが、相手は追い詰められた。誇りと富を同時に奪われた大貴族が、次にどんな強硬手段に出てくるか……」
レオンは言葉を切ると、深く、重い溜息を吐き出した。
彼がこれほどまでに感情を表に出すのは珍しい。戦場では決して見せない『政治』の泥沼の疲労が、彼の肩に重くのしかかっているのがわかる。
すべては、私が軽はずみにレシピを公開したせいだ。
私が彼を守る側に回らせて、矢面に立たせている。
「……ごめんなさい」
私は膝の上で両手をギュッと握りしめ、俯いた。
「私のせいで、レオンに迷惑をかけてる。私がもっと賢く立ち回っていれば、こんなことには……」
「謝るな」
鋭い声が、私の言葉を遮った。
顔を上げると、レオンがソファから身を乗り出し、真っ直ぐに私を見据えていた。
「お前の選択は正しかった。軍を救い、民の腹を満たした。あのままギルドに屈していれば、いずれ国全体が腐り落ちていただろう。……私が疲弊しているのは、お前のせいではない。この国の古き悪しき膿を出し切るための、当然の陣痛だ」
彼はそう言って、テーブルの上に置いてあった革張りの箱を、私の前へとスッと押し出した。
「開けてみろ」
「……なに、これ?」
私は不思議に思いながら、箱の留め金を外した。
蓋を持ち上げた瞬間――部屋の空気が、一変した。
貴族の香の匂いを暴力的に塗り潰す、圧倒的に濃厚で、甘いミルクの香り。
「あ……」
箱の中に敷き詰められた氷の魔法石の中央に鎮座していたのは、見覚えのある黄金色の塊だった。
フォルティス領の特産品。私が何よりも愛用していた、最高級の発酵バターだ。
王都では絶対に手に入らないはずのそれが、なぜここに。
「お前が厨房に行けず、抜け殻のような顔をしていると、料理長から泣きつかれてな」
レオンは視線を逸らし、どこかバツの悪そうな顔で窓の外を向いた。
「早馬を出して、お前の実家から取り寄せた。……ここでパンは焼けないが、その匂いでも嗅いでいれば、少しは気が紛れるだろうと思ってな」
私は、箱の中のバターと、レオンの横顔を交互に見比べた。
この『戦場の鬼』と呼ばれる冷徹な男が。
政治の泥沼で睡眠すら削って戦っている男が、軟禁状態の私の機嫌を取るためだけに、わざわざ田舎からバターを取り寄せてくれたのだ。
あまりにも不器用で、効率度外視の、彼らしくない行動。
「……ぷっ」
私は堪えきれず、吹き出してしまった。
「な、何がおかしい」
「だって、おかしいわよ。バターの匂いを嗅いで我慢しろだなんて、まるで犬のしつけじゃない。そんなの、余計にパンが焼きたくなっちゃうに決まってるのに」
私がクスクスと笑うと、レオンの耳の端がわずかに赤く染まったように見えた。
彼は苛立たしげに舌打ちをし、ソファの背もたれに深く寄りかかる。
「……なら、捨てろ。私の気まぐれだ」
「捨てないわよ。絶対に」
私は箱を大事に胸に抱き寄せた。
冷たい魔法石の感触越しに、彼の不器用な優しさがじんわりと伝わってくる。
この鋼鉄の鳥籠は、私を支配するためじゃない。不器用な彼なりの、全力の『守り方』だったのだ。
「レオン」
私は笑みを収め、彼の灰色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ありがとう。……でも、私は絶対にここから出て、また厨房に立つわ。あなたがローディア公爵を完全に打ち負かして、私が外に出ても安全になったら、一番最初にこのバターで、とびきり美味しいパンを焼いてあげる」
「……約束だぞ」
レオンは低く呟き、長い腕を伸ばして、私の頭にポンと大きな手を乗せた。
素手から伝わる、ひどく熱い体温。
戦場で剣を振るうための、固いタコのある指先が、私の髪を不器用に梳いていく。
その感触が心地よくて、私は思わず目を細め、トゲマルと一緒に彼の手にすり寄ってしまった。
――この時、私は完全に油断していた。
レオンが傍にいてくれる限り、この要塞は絶対に安全だと。
追い詰められた獣が、どれほど異常な手段を使ってでも標的の喉首を狙ってくるという、血なまぐさい現実から目を背けていたのだ。
安寧の時間は、これが最後だった。
静かに、そして確実に。破滅の足音は、この鋼鉄の檻のすぐ外側まで迫ってきていた。




