シーン2:まとわりつく視線と、過保護すぎる鋼鉄の檻
その『違和感』に気づいたのは、ミーナからの手紙を受け取った翌日のことだった。
厨房の小窓から、ふと外の中庭へと視線を向けた時だ。
普段なら屈強な兵士たちが剣の素振りをしているだけの殺風景な石畳の隅に、見慣れない制服を着た男が立っていた。
手押し車を押して食材を運んできた業者のようだが、その男の顔の向きがおかしい。
荷降ろしをしながらも、首だけをこちらへ向け、小窓の奥にいる私を、まるで値踏みするかのようにねっとりと観察しているのだ。
「……ッ」
目が合った瞬間、背筋にヌルリとした冷たいものが這い上がった。
男はすぐに視線を逸らし、何事もなかったかのように荷車を引いて去っていったが、その後に残ったのは、肌にこびりつくような気味の悪い感触だった。
「どうした、お嬢ちゃん。火加減が強すぎたか?」
生地を捏ねていた料理長が、私の異変に気づいて声をかけてくる。
私は慌てて小窓から離れ、首を振った。
「ううん、なんでもない。ちょっと外の空気が冷たかっただけ」
愛想笑いを浮かべて作業に戻るが、心臓は嫌なリズムで脈打ったままだ。
ここ最近、あんな風に私を『見る』目が増えている。
廊下を歩く時。食堂で兵士たちと話している時。さらには、私室の窓の外からすら、何者かの気配を感じることがあった。
私は軍の技術顧問として迎えられ、ここにいる兵士たちからは信じられないほどの好意と感謝を向けられている。なのに、その温かい空気の中に、時折スッと冷たい刃のような悪意が混ざり込むのだ。
「ピギィ……」
トゲマルもその異様な空気を察知しているのか、今日は朝からずっと私のエプロンのポケットの中に潜り込み、震えるように身を縮めている。
「エリナ」
唐突に背後から名前を呼ばれ、私はビクッと肩を跳ねさせた。
振り返ると、いつの間にか厨房に入ってきていたレオンが、眉間に深いシワを寄せて立っていた。
「レ、レオン。驚かさないでよ。足音くらい立てて……」
「今すぐ荷物をまとめろ。厨房での作業はここまでだ」
レオンの言葉は、氷のように冷たく、そして有無を言わさぬ断定だった。
「は……? 何言ってるのよ。まだ明日の遠征用のパンを仕込んでいる途中――」
「残りの作業は料理長たちに引き継がせろ。お前は今日から、私の執務室の隣にある特別室に寝泊まりしてもらう。厨房への出入りも、当面の間は禁止だ」
「なっ……!」
私は手に持っていた木べらを、思わず作業台に叩きつけた。
「冗談じゃないわ! 厨房への出入り禁止って、パンを焼くなってみるみたいなものじゃない! 私が直接生地を見ないと、水分の微調整が――」
「お前の安全には代えられない」
レオンは私に一歩近づき、その大きな手で私の腕を掴んだ。
痛くはないが、絶対に逃がさないという鋼鉄の意思が伝わってくる。
「我が軍の諜報部から報告が上がった。昨夜、王都の一等地にあるローディア公爵邸で、パン職人ギルドの幹部と公爵派の貴族たちによる秘密会議が行われたそうだ」
ローディア公爵。
ガルドの背後にいる、この国の特権階級の象徴。
レオンの口から出たその名前に、私は息を呑んだ。
「会議の議題は一つ。お前が世界にばら撒いた『無料のレシピ』をどう対処するかだ。彼らは、お前の存在そのものを『国家の秩序を乱す危険分子』と認定した」
「危険分子って……私はただ、パンの焼き方を教えただけよ!」
「それが彼らにとっては致命傷なのだ。技術の独占によって得ていた莫大な富が、お前の一手で完全に崩壊した。彼らは失った権威を取り戻すため、お前を物理的に排除……あるいは、拉致して公爵家の地下深くで『専属の職人』として飼い殺しにする計画を立てている」
拉致。飼い殺し。
その物騒な単語の羅列に、私の目の前がクラリと揺れた。
さっき中庭で感じたあの気味の悪い視線は、気のせいなんかじゃなかった。私はすでに、彼らの『狩り』の標的として見定められていたのだ。
「すでに、この第一騎士団の総本部にすら、彼らの放ったスパイが入り込んでいる可能性がある。食材の搬入業者、新入りの歩兵、あるいは……清掃の人間。誰が敵か分からない状況だ。だから、お前は私の目の届く範囲から一歩も出るな」
レオンの灰色の瞳が、かつてないほどの鋭さで私を射抜く。
それは軍の要人を守るための冷徹な判断……の、はずだ。
なのに、彼の目からは、理屈を超えた執着と、私という存在を自分だけの安全な箱に閉じ込めてしまいたいという、ひどく歪んだ熱を感じた。
「……嫌よ」
私は震える声で、それでもはっきりと反論した。
「嫌って言ったの。確かに怖いけど……だからって、部屋に閉じこもって震えてるなんて嫌。パンを焼くのが私の仕事でしょ? 兵士たちが、私のパンを待ってるのよ!」
「お前の代わりなら、料理長が十分に務まる。お前が公開したレシピのおかげでな」
「ッ……!」
その言葉は、私の胸を鋭く突き刺した。
誰でも美味しく焼けるようにした。それは私の望みだったはずだ。
でも、それによって『私がいなくても大丈夫』になってしまったという事実を、他でもないレオンの口から突きつけられると、ひどく惨めな気持ちになった。
「私は……ただ守られてるだけのお荷物になるために、ここに来たんじゃないわ」
「お荷物ではない。お前は我が軍の『最高機密』だ」
「同じことよ! 価値があるから箱にしまっておくなんて、ガルドたちがパンの技術を独占しようとしていたのと同じじゃない!」
私が声を荒げると、レオンの表情がわずかに険しくなった。
彼は私の腕を掴んでいた手を離し、代わりに、私の両肩をガシッと力強く掴んだ。
長身の彼に覆い被さられるような形になり、私は思わず後ずさろうとするが、背中はすでに冷たい石の壁に押し付けられている。
「……ッ、レオン……」
「お前は、自分の命の軽さを分かっていない」
耳元で囁かれる低音に、全身の産毛が逆立つ。
彼の顔が、鼻先が触れそうなほどの距離まで近づいてきた。
冷徹な戦場の鬼の顔が崩れ、そこにあるのは、余裕を失った一人の男の焦燥だ。
「お前がどう思おうと構わない。私は、お前を失うわけにはいかないのだ。あの貴族どもの汚い手がお前に触れることなど、想像するだけで虫酸が走る。……お前はここで、私だけに守られていればいい」
それは、もはや軍事的な戦略を越えた、彼個人の強烈なエゴイズムだった。
私を傷つけたくない。誰にも奪われたくない。だから、自由を奪ってでも自分の手のひらの上に縛り付ける。
その不器用で、重すぎる『溺愛』が、今の私には息苦しくてたまらなかった。
「……離して」
私は両手で、彼の分厚い胸板をドンッと押しのけた。
ビクともしなかったが、私の拒絶の意思を感じ取ったのか、レオンはゆっくりと手を離した。
「分かったわよ。部屋から出ない。あなたがそうしろって言うなら、そうするわ。……でも、一つだけ言っておく」
私は彼を真っ直ぐに睨みつけ、言い放つ。
「守られるだけの籠の鳥でいるのは、私の性に合わない。そんなの、死んでるのと同じよ」
レオンは何も答えなかった。
ただ、その灰色の瞳に深い葛藤の色を浮かべたまま、踵を返して厨房を出て行く。
残された私は、作業台の前にへたり込み、両手で顔を覆った。
ポケットの中からトゲマルが這い出し、心配そうに私の指を舐めてくれる。
私が広げたパンの波が、国を豊かにしている裏で。
私の世界は今、レオンの過剰な保護と、見えない敵の悪意によって、極限まで狭く、息苦しいものへと変貌していた。
この閉塞感が、やがて訪れる決定的な『破綻』の予兆であることに、私はまだ気づいていなかった。




