シーン1:無自覚な救国と、地方からの手紙
石窯の中で爆ぜる薪の音が、静かな厨房に心地よいリズムを刻んでいる。
私の額からはとめどなく汗が流れ落ち、白いエプロンはすでに小麦粉で真っ白だ。それでも、目の前でぷっくりと膨らんでいく生地を見ていると、疲れなど一瞬で吹き飛んでしまう。
「よしよし、いい子ね。ドライベリーとクルミの油分が、しっかり生地に馴染んでる」
私は両手にたっぷりと打ち粉をまぶし、作業台の上で発酵を終えたばかりの巨大な生地を優しく折りたたむ。
今日試作しているのは、従来の『保存パン』にさらなる改良を加えた栄養強化版だ。
過酷な行軍を続ける兵士たちにとって、塩気と小麦のカロリーだけでなく、果実の酸味とナッツの脂質は、枯渇した精神を回復させる劇薬になる。
「ピキュッ! ピキュピキュッ!」
作業台の隅っこで、トゲマルが前足をパタパタと動かして催促してくる。
私の指先からこぼれ落ちたクルミの欠片を狙っているのだ。
「ダメよ、トゲマル。これは兵士さんたちのための試作品なんだから。後でトゲマル用のはちみつパンを焼いてあげるから、少し待ってて」
私がウインクをすると、トゲマルは「ピキュゥ……」と残念そうに針を寝かせ、丸くなってふて寝の姿勢に入った。その愛らしい仕草に、思わず頬が緩む。
「いやはや、エリナ先生。こいつはまた、とんでもなく腹の虫を鳴かせる匂いですねぇ」
厨房の奥から、両手いっぱいに薪を抱えた料理長が顔を出す。
彼の太い鼻がひくひくと動き、石窯から漂い始めた甘酸っぱい香りを全力で吸い込んでいた。
「果実の甘みとナッツの香ばしさ……。俺たち軍の料理人は、いかに腹を膨らませるかしか考えてきませんでした。こんな風に『食べる喜び』を兵糧に組み込むなんて、思いつきもしなかったですよ」
「食べる喜びがない食事なんて、ただの餌だもの。人間は、美味しいものを食べるために生きてるのよ」
私が得意げに胸を張った、その時。
ガチャリ、と。
厨房の重い鉄扉が開き、外の冷たい空気が一気に流れ込んできた。
「……相変わらず、ここは戦場よりも熱気があるな」
現れたのは、黒鋼の鎧に身を包んだレオンだ。
彼の纏う絶対零度の空気は、灼熱の厨房に立っていても全く揺らぐことがない。だが、その灰色の瞳の奥には、以前のような冷徹な刺々しさはなく、どこか穏やかな光が宿っている。
「レオン。ちょうどよかった、今新しい試作品を窯に入れたところよ。焼き上がったら一番に――」
「試食の前に、お前に聞かせるべき報告がある」
レオンは私の言葉を遮り、手に持っていた数枚の羊皮紙を作業台の上に置いた。
カツン、とブーツを鳴らして私の隣に立つと、彼は静かに口を開く。
「北方の山岳地帯へ向かっていた第二部隊から、早馬で報告が届いた。……遠征は、完璧な成功だ」
「本当!? じゃあ、みんな無事に……」
「あぁ。だが、ただの成功ではない。特筆すべきは、その『過程』だ」
レオンは羊皮紙の束を指先で弾き、私を真っ直ぐに見下ろした。
「通常、あの険しい山岳地帯への行軍では、寒さと疲労、そして何より『劣悪な食事』による士気の低下で、必ず二割の脱落者が出る。脱走兵が出ることも珍しくない。だが今回は……脱落者も、逃亡者も、ただの一人も出なかった」
ただの一人も。
その言葉の重みに、私は息を呑む。
「兵士たちは、お前の考案した『保存パン』を懐に忍ばせ、行軍の合間にそれをかじった。水分を保ち、小麦の甘みを凝縮したそのパンは、凍える山の中でも石のように硬くなることはなく、兵士たちの胃袋と心を同時に満たした」
レオンの言葉を聞いていた料理長が、顔を覆って「うぅっ……」と咽び泣き始めた。無理もない。兵士たちに不味い配給を渡し続けてきた彼にとって、これは何よりの救いの知らせなのだ。
「結果として、部隊は予定より三日も早く目標地点に到達し、無傷で任務を完遂した。……お前のパンが、何百という命を繋ぎ、我が第一騎士団に圧倒的な勝利をもたらしたのだ」
「……よかった。本当に、よかった」
私は胸の奥からじんわりと湧き上がる熱いものを感じながら、両手で顔を覆った。
私がやったことは、ただ前世の知識を使って、パンを美味しく焼いただけ。
でも、その『美味しい』という感情が、過酷な戦場に立つ人々の心を折れさせず、命を救う力になった。その事実が、たまらなく嬉しかった。
「この戦果を受け、軍上層部も手のひらを返したようにお前と私のやり方を絶賛している。私の評価も、かつてないほどに高騰しているそうだ」
レオンはどこか他人事のように言い捨てると、羊皮紙の束の一番下から、一枚の封筒を取り出した。
王都の公式な書類とは違う、少し粗末な、黄色く変色した紙の封筒。
「……それは?」
「お前の実家、フォルティス男爵家を経由して届いた手紙だ。お前宛にな」
レオンから手渡された封筒を受け取る。
かすかに、懐かしい牧草とミルクの匂いがした。
私は不思議に思いながら封を切り、中の便箋を広げる。
そこに書かれていたのは、少し丸みを帯びた、一生懸命に書かれたような不器用な文字だった。
『エリナ・フォルティス様へ。
突然のお手紙、お許しください。私は東の小さな酪農村に住む、ミーナ・ルルティアと申します。
先日、村の広場に貼り出されたあなたの「パンの作り方」の紙を見ました。
最初は信じられませんでしたが、見よう見まねで作ってみたんです』
「……東の村の、女の子からだわ」
私はレオンに見えるように手紙を傾けながら、その先を読み進める。
『エリナ様の書かれた通りに、たくさんのお水を入れて、一度高温で焼いてからもう一度焼きました。
そうしたら、今まで食べたこともないくらい、外はパリパリで中はふわふわのパンが焼けました!
村のみんなも、おじいちゃんもおばあちゃんも、涙を流して喜んでくれました』
文字の端々から、彼女の興奮と喜びが伝わってくる。
私が無料でばら撒いたレシピは、確実に地方の村にまで届き、そこに新しい笑顔を生み出しているのだ。
だが、私の目を釘付けにしたのは、その後の文章だった。
『でも、少しだけ私なりに変えてみたところがあります。
お水の代わりに、チーズを作る時に出る「ホエイ(乳清)」を少し混ぜてみたんです。
それから、うちの村の特産の発酵バターを、生地を折りたたむ時に薄く挟み込んでみました。
そうしたら、エリナ様のパンよりも、もっともっと長持ちして、香りも強くなったんです!
いつか、このパンをエリナ様にも食べていただきたいです』
「……えっ」
私は手紙を持ったまま、完全に硬直した。
「どうした。脅迫状でも混ざっていたか」
レオンが鋭い声で尋ねるが、私は慌てて首を振る。
「違うの。このミーナって子……ホエイを使って水分量を安定させつつ、バターを層にして折り込んでる。それって……」
前世の知識で言えば、クロワッサンやデニッシュの製法に近い。しかも、ホエイの乳酸菌を利用して生地の老化を遅らせるという、高度な科学的アプローチを無意識にやってのけているのだ。
私が教えたのは、あくまで基礎的な『高加水・二度焼き』の理論だけ。
それを、この地方の十四歳の女の子が、地元の最高の素材と掛け合わせることで、たった数日で『私を超越する形』へと進化させてしまった。
「……あははっ」
私は、気づけば声を上げて笑っていた。
「何がおかしい」
「だって、すごいじゃない! 私のレシピが、こうやって誰かの手に渡って、さらに美味しくなっていく。技術を独占していたら、絶対に生まれなかった進化よ!」
私は手紙を胸に抱きしめ、窯の中で膨らむパンを見つめた。
無料公開。
その波は、私の想像を遥かに超える速度で、この国の常識を塗り替え始めている。
王都の職人ギルドが何十年もかけて停滞させてきた食文化が、名もなき村の少女の手によって軽やかに飛び越えられていく。
これが、共有の力。私が信じた『正解』の姿だ。
私が喜びに浸っている間、レオンは壁に寄りかかり、腕を組んだまま静かに私を見つめていた。
その灰色の瞳には、私の無邪気な喜びを肯定する光と、もう一つ――極めて冷徹な、為政者としての影が落ちている。
「喜ぶのは勝手だ。だが、現実はお前の理想通りには進まんぞ、エリナ」
レオンの低く冷たい声に、私はハッと顔を上げた。
「お前がばら撒いたレシピによって、王都のパン職人ギルドの収入は、たった数日で八割減少した。彼らが独占していた『標準パン』は、今や誰も見向きもしないゴミに成り下がったからだ」
「……それは、自業自得よ」
「そうだな。だが、彼らの背後にいるローディア公爵をはじめとする特権階級の貴族たちは、自分たちの懐に入ってくるはずだった莫大な利益が、お前という一人の小娘のせいで消し飛んだという事実を、決して許しはしない」
レオンの纏う空気が、ピリッと張り詰める。
彼は私との距離を詰め、黒革の手袋で私の肩を力強く掴んだ。
「世界を変えるということは、誰かの居場所を奪うということだ。お前は無自覚なまま、この国の巨大な『秩序』の喉首に刃を突き立てた」
至近距離で見つめ合う灰色の瞳の奥に、私は初めて、背筋が凍るような『危機感』を見た。
パンで笑顔が増える裏側で、確実に誰かの殺意が膨れ上がっている。
鋼鉄の鳥籠の中で守られているはずの私に、見えない敵の足音が、すぐそこまで迫ってきていた。




