シーン4:不可逆の波と、冷徹なる保護者の鳥籠
石造りの壁に囲まれた、ひんやりとした執務室。
第一騎士団総本部の中枢にあるレオンの私室は、彼の性格をそのまま形にしたように、一切の無駄がない空間だった。
分厚いオーク材のデスクの上には、軍事報告書や地図が几帳面に分類され、壁には実戦用の剣がただ一振りだけ立てかけられている。装飾品と呼べるものは何一つなく、漂ってくるのは古い羊皮紙と、ツンと鼻を突くインクの匂いだけだ。
「――王都南区の市場にて、ギルド公認の標準パンの価格が八割下落。買い手がつかず、大量の廃棄処分が発生中」
デスクの向こう側で、レオンが淡々とした声で報告書を読み上げる。
黒革の手袋をはめた長い指が、次から次へと羊皮紙をめくっていく。
「東区の労働者街では、住民たちが共同で石窯を組み上げ、お前の記したレシピ通りにパンを焼き始めた。結果、小麦粉と塩の需要が爆発的に跳ね上がり、物流に影響が出始めている。……さらに、ギルドの末端にいた若い職人たちが、次々とギルドを脱退。自分たちで新しいパン屋を開業する動きを見せているそうだ」
「……たった数日で、そんなに?」
私は来客用の硬い革張りのソファに深く座り込みながら、信じられない思いで呟いた。
手の中にある銀のティーカップからは、熱い紅茶の湯気が立ち上っている。でも、その温もりすら肌寒く感じるほど、事態の進行速度は私の想像を遥かに超えていた。
あの厨房での宣言から数日。
私のレシピは、軍の圧倒的な伝達網と印刷技術によって、文字通り『嵐』のように王都中にばら撒かれた。
最初は半信半疑だった市民たちも、実際に水と粉を混ぜ、高温で焼いてみて、その出来栄えに腰を抜かしたらしい。
硬くて味気ない石ころが常識だった世界に、突如として『外はパリッと、中はふんわり』という天上の食感が、誰の手にも届く形で降り注いだのだ。
「民衆というものは、一度でも『本物の価値』を知れば、二度と劣悪なものには戻れない。お前が世界に解き放った技術は、今や王都の経済を根底から作り変えようとしている」
レオンは読み終えた報告書をデスクにコトリと置き、その灰色の瞳を真っ直ぐに私へと向けた。
「あのガルドとかいう男のギルドは、完全に機能不全に陥った。彼らが長年かけて築き上げた『技術の独占』という名の城は、お前のたった一枚の紙切れによって、もろくも崩れ去ったわけだ」
「……ざまあみろ、って言いたいところだけど。なんだか、少し怖くなってきたわ」
私はティーカップをソーサーに戻し、自分の膝をギュッと抱え込んだ。
肩の上のトゲマルが、私の不安を感じ取ったのか「ピキュゥ」と小さく鳴いて頬ずりをしてくる。
私がやったことは、間違っていないはずだ。美味しいものを、みんなで共有する。誰もが笑顔で食卓を囲めるようにする。
でも、それが意味するのは、今までその『不味いパン』で莫大な利益を得ていた人間たちの首を、物理的に絞め上げるということでもある。
「後悔しているのか」
「してないわ。絶対に」
私は即座に首を振った。
「兵士たちが遠征で死ななくなった。町の子供たちが、美味しいパンを食べて笑顔になってる。それ以上の正解なんてないもの。でも……既得権益を失った人たちが、このまま黙って引き下がるとは思えないわ」
「その通りだ」
レオンは立ち上がり、ゆっくりとした足取りで私の座るソファへと近づいてきた。
カツン、カツンという重いブーツの音が、静かな執務室に響く。
彼は私のすぐ目の前で立ち止まると、見下ろすようにして言った。
「ガルドの後ろ盾となっているのは、王都の流通と商業を牛耳る大貴族――ローディア公爵家だ」
「ローディア……」
「極端な選民思想の持ち主でな。『価値あるものは、選ばれた人間だけが支配し、愚民どもには与えるな』という古き悪しき貴族の典型だ。ガルドのギルドが暴利をむさぼっていた裏には、このローディア公爵への莫大な上納金が存在している」
レオンの声が、一段と低く、冷たくなる。
「お前は、レシピを公開することで、ガルドからの『独占への誘惑』を断ち切った。それは軍の顧問としての価値を証明する見事な手だった。だが同時に……お前はローディア公爵の顔に泥を塗り、彼の金庫から莫大な富を奪い取ったことと同義だ」
背筋に、ゾクリと冷たい汗が伝う。
ただのパン職人のつもりが、気づけばこの国で最も権力を持つ大貴族を完全に敵に回してしまったのだ。
「彼らは必ず報復に動く。レシピ自体はすでに世界に広まったが、その『大元』であるお前を排除、あるいは拉致し、自分たちの管理下に置くことで、失った権威を取り戻そうとするだろう」
「……拉致って。そんな、白昼堂々……」
「相手は法を作る側の人間だ。どんな手を使ってくるか分からん」
レオンはそう言うと、突然、私の座るソファの背もたれに手をついた。
ガタン、と音がして、彼のがっしりとした身体が、私の視界をすっぽりと覆い隠す。
至近距離に迫る、端正で冷徹な顔立ち。黒鋼の鎧から漂う、微かな鉄と、レオン自身の体温の匂い。
「ひゃっ……」
あまりの近さに、私は思わず肩をすくめて後ずさろうとしたが、ソファの背もたれに阻まれて逃げ場がない。
「いいか、エリナ」
彼の灰色の瞳が、私の目を逃さず射抜く。
そこにあるのは、圧倒的な『支配欲』と、それ以上に強烈な『保護欲』だ。
「今日から、お前の警護体制を最高レベルに引き上げる。軍の厨房と、お前にあてがった私室以外の立ち入りは一切禁ずる。もちろん、総本部から一歩でも外に出ることは許可しない」
「えっ……!? ちょっと待って、外に出られないって……それじゃあ、本当にただの囚人じゃない!」
私は弾かれたように抗議の声を上げた。
いくら命を狙われているかもしれないとはいえ、完全な軟禁状態なんて冗談じゃない。市場の活気も見られない。新しい素材の買い出しにも行けないなんて。
「囚人ではない。保護だ。これは決定事項だ」
「決定事項って……私にも意見を言う権利くらいあるでしょ! 護衛をつけてくれるなら、少しは外に……」
「ダメだ」
レオンは有無を言わさぬ口調で私の言葉を叩き斬った。
そして、空いている方の手で、私の頬にそっと触れる。
黒革の手袋越しに伝わる、恐ろしいほどの力強さと、不器用な優しさ。
「……お前は自分の価値をまだ理解しきれていない。お前が焼くパンは、我が軍の命綱だ。そしてお前自身は……」
そこで一度言葉を切り、レオンは微かに目を細めた。
「絶対に、誰の手にも渡したくない。たとえ王であっても、私の手からお前を奪うことは許さん」
ドクン、と。
私の胸の奥で、心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
これは、軍の物資としての執着なのか。それとも、もっと別の……個人的な感情によるものなのか。
彼の冷たい瞳の奥に渦巻く熱情に当てられて、私は呼吸の仕方すら忘れてしまいそうになる。
「ピギィ……」
トゲマルが、空気を読んで私の膝の上で丸くなった。
「わ、わかったわよ……。でも、厨房の材料の手配だけは、私の指定した通りにやってもらうからね。軟禁される分、パン作りくらいは自由にやらせてもらうわ」
私が精一杯の強がりで睨み返すと、レオンはフッと短く息を吐き、口角をわずかに上げた。
「……生意気な口を叩く。だが、それでいい。お前はただ、私の庇護下で世界一美味いパンを焼いていればいい」
レオンが身を離すと、圧迫感から解放された私は、こっそりと安堵の息を吐き出した。
執務室の窓の外から、遠く王都の喧騒が微かに聞こえてくる。
あの音の中には、確実に私のパンを食べて笑顔になっている人たちの声が混じっているはずだ。
私が起こした波は、もう誰にも止められない。不可逆の変化が、この国を飲み込もうとしている。
でも、その代償として、私は自由を失った。
この『戦場の鬼』と呼ばれる不器用な騎士団長が作り上げた、鋼鉄の鳥籠の中で。
嵐の前の静けさ。
自分が『狙われる側』になったという事実が、真綿で首を絞めるように、じわじわと私の日常を浸食し始めていた。




