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第35話 小さな大賢者は、山岳地に赴く

 鐘の音が学園の回廊に響いたのは、午前の講義が終わった直後だった。

 石造りの天井から反響する低い音が、今日がいつもとは違う一日の始まりであることを告げる。


「みんなに伝えることがある」


 講壇に立った教員が声を張り上げると、ざわめきが一気に広がった。

 生徒たちの表情にはすでに期待の色が浮かんでいる。――それも当然だった。


「本日をもって、五日間の休暇を与える。帝都や故郷に帰る者も、図書塔で研究を続ける者も、それぞれ自由に過ごすといい」


 歓声が教室を満たす。

 隣の席では、フィオナ・レオニードが机に身を乗り出し、きらきらした瞳でこちらを見た。


「ねぇ、エルフィーナ! 一緒に街に行かない? 市の広場では春祭りが始まってるの。露店もたくさん出るし、楽しいと思う!」


 天真爛漫な笑み。断るのが難しい類の誘いだった。

 けれど――エルは小さく息を吐き、淡々と返す。


「ごめんなさい。少し……調べ物があるの。休暇中に済ませておきたいことが」


「また研究? 本当に真面目なんだから」


 フィオナは頬をふくらませたが、すぐに「じゃあ終わったら一緒に!」と明るく言葉を重ねる。

 その無邪気さに、エルは苦笑を返すしかなかった。


 ――調べ物。それは方便だ。

 実際には、先日王国から受け取った暗号通信が真の目的を告げていた。


 「北東山岳地帯、座標一三七。古代遺構利用の魔導装置、稼働の兆候あり」


 戦場ではない。けれど、戦場より危うい。

 帝国が古代の遺構を利用しているとすれば、その影には必ず「第七枝」の動きがある。


《主、断れたのは良いが……本当に一人で行くつもりか?》


 ノワールの声が心に響く。

 机の上で丸くなっていた黒い毛並みが、金の瞳を細めてこちらを見た。


「一人じゃない。あなたもいるでしょう」


《そういう意味ではない。――フィオナをどうする? あの子はお前に付いてくる気満々だ》


「だから、巻き込まない。今回ばかりは」


 その言葉に、ノワールは低く鼻を鳴らす。

 ――だが反論はしなかった。


 エルは小さく拳を握る。

 学園の休暇。誰もが自由を謳歌する時間。

 だが彼女にとっては、新たな監視網を探り、切断するための時間に過ぎなかった。


 休暇の朝、学園の門は普段よりもにぎやかだった。

 鞄を抱えた生徒たちが次々と外へ出ていく。帝都の市場へ遊びに行く者、故郷に一時帰省する者。笑い声と荷馬車の音が混じり合い、石畳は活気にあふれていた。


 その流れの中で、エルは一人、淡々と歩を進める。

 荷物は最小限。外套と水袋、乾燥パンと小瓶に詰めた薬草。普通の学生が小旅行に出る程度の装備にしか見えない。だが、外套の裏には符号で刻まれた王国式の小札が隠されていた。緊急時の連絡具だ。


《主、馬車で行かないのか》

 ノワールが肩の上で首を傾げる。


「目立つから。……歩く方が、静かに行ける」


 北東の山岳地帯までは三日。馬車を使えば一日半で着くが、検問も多い。荷車に紛れるより、森を縫うように歩く方が安全だった。


 森に足を踏み入れると、喧騒が遠ざかり、静寂が広がった。

 木々の間から差す光が揺れ、鳥のさえずりが風に混じる。帝都の空気にはない匂い――湿った土と草の香りが鼻を満たした。


 途中、小さな川を渡る。

 エルは靴を脱ぎ、素足で冷たい水に触れた。水面を撫でると、魔力が自然と波紋を描く。

 ――《アクア・ストリーム》。

 小さな流れを変える術だ。声には出さず、ただ意識を滑らせるだけで、水の動きは素直に従った。


「三日後までに戻らなければ、休暇明けの授業に穴を開ける。……無駄なく進まないと」


《まるで遠足の計画みたいに言うな。行き先は“遺構”だぞ》


 ノワールのぼやきに、エルは小さく笑みを浮かべた。

 確かにこれは遠足ではない。帝国が隠しているかもしれない装置を探り、もし危険があれば無力化する――命懸けの任務だ。

 それでも、この道を歩く足取りはどこか軽やかだった。学園という枠の外で、ただ「自分の判断」で進む自由。それは戦場とは違う緊張感を、奇妙に心地よくしていた。


 夕刻。丘を越えた先に、山々の稜線が赤く染まっていた。

 その影の奥に――目的の古代遺構が眠っている。


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