第36話 小さな大賢者は、山岳地を調査する
夜の山は、学園の寮とはまるで違う顔をしていた。
風が梢を叩くたびに、黒い影がざわめく。月明かりが岩肌を銀色に照らし、谷間の奥からは冷たい水音が絶え間なく響いていた。
エルは焚き火を起こさない。小さな光一つが、見えない目を引き寄せるには十分だからだ。
外套に身を包み、岩陰に体を潜める。ノワールは尻尾を揺らし、耳をそばだてていた。
《主。……風が乱れている》
「うん。誰かが“仕込んでる”わね」
遺構があるとされる谷へ降りる途中、妙な気配がいくつも散らばっていた。
枝に結びつけられた紙片。岩に刻まれた不自然な線。空気を伝う魔力の揺れ。
一見すればただの山の痕跡だが、エルにはそれが“監視網”であるとすぐに分かった。
足を止め、そっと指先を地に触れる。
――《アース・ミュート》。
土の振動を吸収する小術式。声を出すまでもなく、意識の中で言葉を結ぶ。
次の一歩を踏み出すとき、靴底が石を弾く音は吸い込まれるように消えていた。
谷を下るにつれ、視界の奥に遺構の影が浮かんできた。
石を積んだ大きな円形の建造物。外壁は半ば崩れていたが、中央にはまだ古代の門らしきものが残っている。
そして、その門の前には――人影があった。
フードを深くかぶった二人の男。腰に下げた杖が淡く光を帯びている。
魔力の残滓を感じ取ろうと集中すると、冷たい鋭さが走った。帝国式の結界術だ。
《やっぱり先回りしてたか》
「でも、完全に閉じてはいない。……罠を見せて、相手を炙り出す気ね」
エルは岩陰に腰を落とし、手帳を開く。
昨夜書いた条件に一つを加える。
――“結界の位相を、風の流れと一致させる”。
指先で小さく印を切る。
――《ウィンド・スリップ》。
風が谷を駆け抜け、その一部が結界に触れた。結界はそれを“自然な揺れ”と認識し、わずかに開いた。
男たちは気づかない。だがその一瞬の隙で、エルはするりと門の内側に滑り込んだ。
遺構の内部はひんやりとしていた。
崩れた柱の影に苔が生え、壁の文様は半ば失われている。だが、床に走る魔法陣の痕跡はまだ鮮明だった。
淡く青白い光が、石の割れ目から立ち上っている。
(……これが、“位相鍵”の残骸?)
掌をかざすと、魔力の脈動がかすかに返ってきた。王国の記録に残る位相の調律法と一致する。
もし帝国がここを研究しているなら、確かに重要な拠点になるだろう。
《主。時間をかけすぎるな》
「分かってる」
エルは紙片を一枚、床の隙間に挟み込んだ。
――誤差の餌。拾う者がいれば、こちらの“追跡線”に引っかかる。
外へ戻ると、男たちの姿はもうなかった。交代の時間か、それとも何か異変を察したのか。
いずれにせよ、今夜はこれ以上踏み込まない方がいい。
山風が吹き抜け、髪を揺らした。
エルは外套を翻し、谷を離れた。
(明日には“偶然”を仕込んでおく。ここに潜む糸を、少しずつ切るために)
夜の帳を抜け、学園の尖塔が見えたのは、すでに東の空が薄く明るみを帯び始めた頃だった。
冷えた空気の中で吐く息が白く広がり、エルは歩を止めて振り返る。遠く山影に沈む谷――遺構が眠る場所を一度だけ見返し、外套の裾を揺らして寮の門へと向かった。
部屋へ戻ると、ノワールが机の上に飛び乗り、黄金の瞳でこちらを見下ろす。
《随分と長い“散歩”だったな》
「証拠は残さずに済んだ。……でも、あそこには確かに帝国の手が入っている」
椅子に腰掛け、机上のブレスレットを手に取る。
銀の輪は淡い青光を帯び、わずかな震えと共に起動した。
エルは目を閉じ、魔力を最小限に整えて波長を合わせる。
――《受信確認/王国》
――《報告内容の要約を送信せよ》
無機質な符号が意識に流れ込む。エルは深呼吸を一つしてから、淡々と返す。
――《監視網=位相線/遺構=帝国結界/見張り二名/残骸=位相鍵痕跡/詳細=回収不可》
短く、しかし核心を突いた符号だけを送る。無駄を省き、余計な感情は混ぜない。それがこの通信の鉄則だった。
数拍の沈黙の後、返答が届く。
――《確認。追加質問》
――《敵監視者の技能推定/危険度/継続監視の可否》
エルは眉を寄せ、短く答えを組み立てる。
――《技能=結界維持/軍人/危険度=中/継続監視=可能/ただし“偶然”装う必要あり》
送信と同時に、通信は途切れた。短いやり取り、それ以上の介入はない。
《相変わらず素っ気ないものだな》
「それでいいの。……余計な干渉は、こっちの動きを鈍らせるだけ」
ブレスレットを机に戻し、エルは背もたれに身を預ける。
瞼を閉じると、谷に残した光景が蘇る。崩れた石造りの遺構、淡い青光を放つ床の亀裂、そして門の前に立つ帝国の影。
(――あれは偶然じゃない。必ず“誰か”が仕組んでいた)
ノワールが声を潜める。
《主。……これで報告は済んだ。次はどう動く?》
「今日の放課後、もう一度、研究部会を覗くわ。フィオナや他の生徒に“偶然”を忍ばせる」
《また目立つぞ》
「目立つことと、目を逸らさせることは両立できる。……それをやるのが私の役目」
窓の外に目を向けると、東の空に朝日が昇り始めていた。
光は高塔を照らし、学園の尖塔を金色に染め上げる。
その眩しさに一瞬だけ目を細め、エルは静かに呟いた。
「――“第七枝”を見つけ出す。それが、今の私の道筋」
ノワールはしばらく黙ってから、ふっと尾を揺らす。
《ならば俺はその影を数える。……主が足を取られないようにな》
新しい一日の鐘が鳴った。
帝国の影を追い、そして切り裂くための、また別の一日が始まる。




