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第31話 小さな大賢者と影の監視者④

夜の帳が学園を包む。塔の尖端に灯るランタンの光は遠く霞み、石畳を踏む靴音だけが冷たく響く。

 エルは外套のフードを深く被り、旧倉庫の前に立っていた。昼間仕掛けた偽装符はすでに発動し、微細な痕跡を吸い込んで消えている。残された魔力の“匂い”を辿れば、相手がどこから来て、どこへ去ったのか、ある程度の推測が可能だった。


《匂いは二重だな》ノワールの低い声が響く。

「ええ。ひとつは見せかけ、もうひとつが本命。……典型的な“枝”のやり口」


 エルは掌をかざし、小さく呪文を紡ぐ。

――《Ventus lenis(風よ、囁き伝えよ)》

 空気に残された微細な流れを拾い集める。無属性の補助呪文で、残滓から経路を再現する技法だ。


 浮かび上がった光の糸は、二方向に分岐していた。ひとつは正門方面へ、もうひとつは学園の中枢、研究塔へと。


「やっぱり……中に潜ってる」

《“枝”の網が学園ごと覆っているというわけか》


 その夜、エルのもとにフィオナが現れた。広場のベンチに腰を下ろす彼女は、いつもの明るさを失っている。


「……父に話したの」

「マクシミリアン卿に?」

「ええ。でも全部じゃない。あなたがここで何をしてるのかまでは言わなかった」


 視線は揺れ、唇はかすかに震えている。彼女にとっても“帝国の父”と“友人のエル”の間で板挟みなのだ。


「父はすぐに反応したわ。監視網を強化するって……“第七枝”を動かすって」

「……つまり、もう時間がないのね」

「エル、危ないことはやめて。彼らは容赦しない。学園に潜んでいるのは、ただの観察者じゃないわ」


 エルは小さく笑った。

「危険を避けていたら、真実には辿り着けない。……ありがとう、忠告は受け取っておく」


 その直後。広場の端に、不自然な気配が立ち上る。空気が張り詰め、影が膨らんだ。


《来るぞ!》ノワールが牙を剥く。


 フィオナが悲鳴を上げるより早く、エルは椅子から立ち上がり、袖口で指先を隠す。

――《Terra murus(大地よ、壁となれ)》

 足元の石畳が隆起し、土塊の壁となって迫る黒影の刃を弾いた。


 フィオナは目を見開く。

「い、今のは……!」

「走って!」


 エルは短く叫び、彼女を背へ庇う。その間にも影は分裂し、鎌のような腕を伸ばして迫ってくる。


――《Aqua glacies(清水よ、凍りつけ)》

 手のひらから放たれた冷気が水滴を氷柱へ変え、敵影の一体を貫いた。だが、倒れても黒は崩れ、別の形に変じて襲い掛かってくる。


(本体はここにいない。あくまで“投影”――遠隔操作の式体ね)


 ならば、とエルは別の呪を選ぶ。

――《Ignis scintilla(炎よ、火花となれ)》

 敢えて小さな火花を散らし、広場のランタンを爆ぜさせる。強烈な光と音に紛れ、自らの魔力の痕跡を覆い隠した。


《うまいな。正体を晒さず、奴らを退けられる》

「……けど長くは持たない」


 影たちはやがて収束し、夜気に溶けて消えた。


 息を整えながら、エルは空を見上げる。星は曇りに隠れ、光は乏しい。

 だが心はむしろ冴えていた。


(第七枝が動き出した。なら、必ず“結節点”が浮かび上がる)


 その中心にいるのは――マクシミリアン。

 そして、彼へと続く唯一の道が、フィオナの存在なのだ。


 震える彼女の肩にそっと手を置く。

「大丈夫。必ず、終わらせる」

「……エル……」


 その言葉を残し、エルは再び夜の闇へと歩みを進めた。

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