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第32話 小さな大賢者と影の監視者⑤

 夜の学園は、昼間の喧噪が嘘のように静まり返っていた。

 灯りの落ちた校舎を、月光が白く照らし出す。石造りの回廊に差し込む光は、まるで冷たい刃のように鋭く、誰も寄せつけぬ空気を漂わせていた。


 エルはその闇を歩いていた。

 制服の外套をまとい、音を殺すように足を運ぶ。肩に乗ったノワールが小声でつぶやいた。


『……こんな夜にわざわざ忍び込むなんて、正気の沙汰じゃねえな』

「日中じゃ調べられないわ。あの“影”が残した痕跡は、夜のほうが鮮明に浮かび上がる」

『ふん、好きにしろ。ただし、見つかっても助けてやらねえぞ』

「見つからないわよ」


 冷ややかに返すと同時に、エルは掌をかざした。

 小さく呟いた言葉は、風の精霊を呼び覚ます呪文だった。


「――《ヴェント・シルエット》」


 微かな風が足元を流れ、靴音を吸い込むように掻き消していく。これで彼女の足取りは完全に夜の空気へと溶け込んだ。



 向かう先は研究塔――学園の象徴ともいえる高い尖塔である。

 昼間は数多くの研究員や生徒たちで賑わうが、夜は重い扉が閉ざされ、誰一人近づこうとしない。


 エルは塔の前に立ち、静かに目を閉じた。

 呼吸を整え、魔力を流す。指先に光が宿り、淡い紋様が浮かび上がる。


「――《ルーメン・アーク》」


 光属性の小呪文。微かな光糸が空気を探るように広がり、周囲の魔力残滓を照らし出した。

 すると、塔の入口付近に奇妙な“揺らぎ”が見える。まるで水面に墨を垂らしたような黒い影が、薄く残っていた。


『……これがあの影の痕跡か』

「ええ。普通なら一晩で消えるはず。でも、これは――誰かが意図的に“繋ぎ止めてる”」


 エルは目を細めた。

 影はただの残滓ではない。まるで糸のように、塔の奥へ奥へと伸びている。


(やっぱり……この塔の地下に、何かがある)



 塔の中へ入ると、薄暗い回廊に冷たい空気が漂っていた。

 壁には魔導灯が並んでいるが、ほとんど消されている。残っている灯りも赤黒く濁り、どこか不吉な色をしていた。


 エルはそっと階段を降りる。

 石段は長く、降りても降りても尽きることがない。だが彼女は歩みを止めず、ただ影の糸が導く先を追って進んだ。


 途中、魔力で封じられた鉄格子が道を塞ぐ。

 エルは短く呪文を唱え、無属性の魔力を放つ。


「――《ネクサ・コード》」


 無属性の特殊呪文。対象の“鍵”に干渉し、構造を一時的に中和する。

 鉄格子は軋む音を立て、静かに開いた。


『相変わらず便利な術を持ってやがる……でも使いすぎると気づかれるぞ』

「分かってる」


 エルは低く答え、さらに奥へと進む。



 やがて辿り着いたのは、塔の地下深くにある広間だった。

 そこには円形の石床が広がり、中央には見慣れぬ装置が鎮座していた。

 黒曜石のような材質で作られた台座に、巨大な水晶管が接続され、絶え間なく魔力の光が脈打っている。


「……中継器」

『中継器?』

「魔力の流れを別の地点へ転送する装置よ。……恐らくこれは、帝国と学園を繋ぐ“回線”」


 水晶管の奥には、淡く光る紋章が浮かんでいた。

 それは帝国軍の研究機関で使われる印――エルには見覚えがあった。


(やはり……ここに帝国の影が)


 息を呑んだ瞬間、広間の空気がざわりと揺れた。

 黒い影が壁から剥がれ落ちるように姿を現し、ゆっくりと人の形を成していく。


『……チッ、やっぱり出やがったな』

「迎撃するわ」


 エルは外套を翻し、指先に魔力を集めた。


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