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第30話 小さな大賢者と影の監視者③

翌朝。

 まだ鐘が鳴る前、窓辺に差し込む光は白く冷たい。机に広げた手帳には、昨日の記録が淡く乾いている。


 ――第七枝。

 その言葉を繰り返すだけで、胸の奥に鈍いざわめきが走る。帝国の情報局が持つ枝組織の一つ。網の目のように張り巡らされた監視機構の中でも、特に“処理”を専門とする部隊だと、噂で聞いたことがある。


(もし学園に潜っているのが第七枝の人間なら――ただの観測では済まない)


 ノワールが机の上に跳び乗り、尻尾をゆるやかに揺らす。

《昨夜の足音。追う者をさらに追う影。あれも“枝”の一部かもしれんな》

「可能性はある。でも確証はまだない。……網の中心を見極めなきゃ」


 ペンを取る。今日の課題はただ一つ。

 ――“結節点”の特定。


 一限目の講義を終えたあと、エルは人の流れを装いながら図書塔に足を運んだ。昨日標識粉を移し替えた背表紙。そこに新しい“誤差”を仕込む。


 魔力の指先で、ほんの一片の文字をずらす。

 ――《Lux tenuis(光よ、淡く在れ)》

 声には出さず、心の奥で呟く。光属性のごく小さな呪文。誰の目にもただの古びた文字にしか見えないが、正しい視点から覗けばそこに“別の道筋”が浮かぶ。


 もし誰かがここを監視していれば、必ず食いつくだろう。その時に流れる微細な痕跡こそ、網の結び目の所在を示す。


《罠を二重にするのか》

「ええ。昨日の“事故”で揺さぶった。今日は“偶然の誘導”を仕込む」



 塔を出ると、広場の石畳の上に見慣れた影が立っていた。

 フィオナだ。朝の光を浴びながら、にこやかに手を振る。


「おはよう、エル!」

「……おはよう」


 彼女の明るさは、監視と疑惑が渦巻くこの空気の中で不自然なほど際立っている。

 だが同時に、その笑顔の裏に何かを隠していることを、エルは見抜いていた。


「ねえ、昨日のこと、誰にも話してないわ」

「当然でしょう。騒ぎにしたら、余計にややこしくなるだけ」

「そう思ってくれて安心した」


 フィオナは一歩近づき、声を潜める。

「父に……報告が必要かもしれない。でも、まだ迷ってるの」

「マクシミリアン卿に?」

「ええ。あなたの名前を出すかどうかは、私の判断次第」


 その言葉に、ノワールの黄金の瞳が鋭く光った。

《ほう……いよいよ絡んできたな》


 エルは笑みを浮かべる。

「なら、慎重に考えた方がいいわ。誤解を生む情報は、時に人を殺すものだから」

「……あなた、やっぱり只者じゃない」


 日中の講義を終えた後、エルは再び旧倉庫の前に立っていた。

 昨日とは違い、封呪の膜はわずかに強化されている。外部からの干渉を察した証拠。

 だが彼女は正面からは手を出さない。


 壁際の影に囁くように呪を紡ぐ。

 ――《Umbra velare(闇よ、覆い隠せ)》

 薄闇が波のように広がり、周囲の痕跡を覆い隠す。


 そして小さな羊皮紙を一枚、扉の下に滑り込ませた。

 それは王国式の偽装符。外部から見ればただの埃と紙屑。だが触れた瞬間に符は崩れ、残した者の痕跡を逆に吸い込む。


「これでいい。……次に動いた者が、網の結び目を引きずり出す」


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