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第16話 小さな魔法使いは、昇格する。

 会談は、驚くほど短かった。

 灰牙の切り通しの中腹に設えられた簡素な机を挟み、王国と帝国の代表が定められた文言を交わし、互いの被害に“遺憾”の意を表し、そして――肝心の核心へは、一歩も踏み込まなかった。

 言葉は形のまま行き来し、視線だけが剣のように擦れ合う。

 別れ際、帝国の使者が見せた笑みは、礼儀と挑発のちょうど中間だった。


 帰路。谷風は、あの日と変わらず乾いていた。

 エルは馬車の揺れの中で、肩の包帯の端を指で押さえる。火傷はほとんど治っている。けれど、熱の名残はまだ皮膚の下に囁いた。

《主、背すじ》

 ノワールの低い声に従い、エルは小さく伸びをする。

 「……ありがと」

《風の匂いが変わった。砂は砂の匂いのままだが、人の匂いが濃い。王都が近い》

 「うん。――次の準備も、もう始まってる」


 魔法士団本部の尖塔が視界に入ると、胸の内側で静かな波がひとつ落ちた。緊張は解けない。ただ、流れが整うのを感じる。


     ◇


 帰還の報告を終えるやいなや、伝令が走った。

 「団長室へ。至急」

 エル、ゼルネ、リーネ――三人は石段を上り、重厚な扉の前に立つ。扉が静かに開き、セレスティア・ヴェイルの瞳が朝の水のような光を宿して彼らを迎えた。


 円卓の上には、回収した銀の破片と、焼けた金具。脇には、灰牙の地図に新しい印がいくつか増えている。

 セレスティアは短く目礼し、言葉を選ばずに核心へ入った。

 「まず、戦果の正式な確認。――隊長格の撃破。位相鍵の確保。セラフィック・ハローの運用条件の一部解明。すべて、君の動きが起点となっている」

 エルは「はい」とだけ答えた。

 ゼルネが横で腕を組み、鼻を鳴らす。「あれを“起点”で済ませるのは団長くらいだな」

 リーネが微笑を浮かべる。「褒め言葉よ」


 セレスティアは小さく息を継ぎ、静かに続けた。

 「エルフィーナ・ノクターン。――本日をもって、あなたを魔法士団“団長補佐”に任命する」

 空気がわずかに揺れた。部屋の隅に控えていた幹部たちの間から、押し殺したざわめきが生まれる。

 「年齢が――」「いや、実績は――」「だが前例が――」

 セレスティアは一瞥だけでその声を鎮めた。

 「前例が未来を守るなら、私は前例に従いましょう。けれど、今、前例は私たちを守らない。必要なのは、結果と視界――そして“静けさ”を勝ち取るための、正しい手」

 視線が、まっすぐエルへ戻る。

 「君の手は、その条件を作れる」


 エルは、胸の内で小さくうなずいた。

 (肩書きは、盾になる。前に出ずに済む時間を、増やせる。――平穏へ近づくための、階段)


     ◇


 任命の儀は簡素だが厳密だった。

 銀糸で縁取られた濃紺のマント、その留め具に小さな蒼い宝石――魔法士団の紋章を受け取り、胸の位置に固定する。

 セレスティアが掌をかざし、紋章の内に微かな識別術式を刻み込む。

 「この紋は、君に“場”を与える。場を動かす権限は重いけれど、それは同時に――矢面に立たずとも影響を及ぼせるという意味でもある」

 「理解しています」

 「よろしい。なら、ここからは私の横に」

 短い言葉に、確かな承認があった。


 儀が終わると、幹部の一人がためらいがちに口を開いた。

 「団長、彼女は十歳だ。いかに実績があれど――」

 セレスティアは、少しだけ声を柔らかくする。

 「十歳だからこそ、彼女は“見える”。大人には見えなくなる角度がある。――私の責任で推す」

 幹部は押し黙り、頭を下げた。


     ◇


 部屋を出ると、廊下の光が少し違って見えた。

 ゼルネが肩越しに振り向く。「おい、団長補佐」

 「まだ慣れません」

 「慣れなくていい。だが、背負うものが増えたのは事実だ。紙の上でも、現場でも」

 「分かってます。背中の広さは変わりませんから、持ち方を変えます」

 ゼルネは思わず笑い、頭をかいた。「……口が立つな。よし、ならいい」


 リーネが隣に並ぶ。「疲れた?」

 「少し」

 「甘いもの、後で持っていく」

 「ありがとう」

 リーネは、ふっと目を細めた。「それでもあなたはやるんでしょ?」

 エルはうなずいた。

 「うん。――やるよ」


     ◇


 午後は、補佐としての“仕事”の説明で埋まった。

 作戦立案会議への常時出席、諸隊との連絡系統の整理、情報塔との直通権限。

 机に積まれた書類の文字は乾いているのに、そのどれもが現場の砂と血の匂いに繋がっている。

 (紙は嫌いじゃない。ここを整えれば、誰かが前に出る回数が減る)

 エルは、図の線を一本書き足した。位相鍵の搬送時刻――薄明・薄暮。東縁・南環。

 (補給の線を細く。門の参照媒質を外す。戦闘を“起きないようにする”)

 ペン先が止まる。指先で紋章の留め具をそっと押した。

 重さは、思ったより軽い。けれど、確かに“場”が動く。


 夕刻。窓の外の王都は、工房の煙と屋台の湯気でやわらかな灰色になっていた。

 中庭を抜けると、ノワールが影から一歩だけ現れる。

《肩書きは似合う》

 「そう?」

《主は、名札がなくても“主”だ。だが名札があれば、余計な相手が減る》

 「それは助かる」

《矢面に立つのを嫌う者は多い。お前がそこに立たない方法を作るなら、我は賛成だ》

 エルは一度、小さく笑った。「ありがとう」


     ◇


 少しだけ遠回りをして、中央市場へ寄った。

 果物屋で小ぶりの林檎を二つ、薬草屋で喉に効く葉を少量。

 焼き菓子の屋台に並ぶと、売り手の女将が目を丸くした。

 「まあ、団長補佐様じゃないの。最近は物騒な話ばかりで……でも、あなたがいると噂で聞いただけで、みんな少し安心してるのよ」

 「噂はほどほどに」

 「ふふ、そういうところも安心の種なのよ」

 紙袋を受け取り、頭を下げる。足取りがすこし軽くなった気がした。


 帰り道、小さな広場で子どもたちが水遊びをしていた。

 冬の冷たい水を器用に操って、足もとに丸い水球を転がしている。

 (王国の水は、丸い)

 エルはほんの少しだけ立ち止まり、彼らの笑い声を耳に溶かした。

 (この音を、保つ)


     ◇


 夜、塔の上層。

 セレスティアの部屋の灯はまだ消えない。呼ばれて入ると、団長は窓辺に立っていた。

 「座って」

 机の上には地図。灰牙、国境、帝都アウルフェイン。

 セレスティアは地図から目を離さずに言う。

 「補佐となったからといって、すぐに前線がゼロになるわけではない。けれど……これからは“出る回数は減る”」

 「それが狙いです」

 「ええ。君が前にいなくても回るように――こちらを作り替える。君が最も得意なのは、“仕組みを調律して、戦わずに済む状況を作ること”だと私は思っている」

 エルは静かに頷いた。

 「帝国は動きを止めないでしょう」

 「止めない。今日の会談は、息継ぎに過ぎない。……だからこそ、私たちの側が先に“静けさ”を形にする必要がある」

 セレスティアの横顔は、凛として美しかった。

 エルは小さく息を吸う。

 「やります」


     ◇


 夜更け。

 割り当てられた小部屋の机に、手帳をひらく。

 今夜は戦場の記録ではなく、別の項目で紙面を埋めた。

 ――前線投入:月内最大二回(優先度Aのみ)。

 ――情報塔直通:帝国通信の照合頻度を一段階上げる(夜明け・夕刻)。

――訓練:補佐付きの謝絶権限(来客の選別基準を定める)。

 ――補給路:薄明の巡回を三隊に分割(負担分散・遭遇確率の低減)。

 ――市中:市場と広場の監視は“目に見えない”形で(市民の緊張を上げない)。


 ペンが止まるたびに、外の風の音が入ってくる。

 ノワールが影から顔だけ覗かせる。《主、書くのが早い》

 「書けば、見えるから」

 《お前にとって“見える”とは、戦う場所を選ぶことか?》

 エルは少しだけ考えて、首を振った。

 「戦わなくて済む場所を、優先して作ること」

 《なるほど》

 影が揺れ、ノワールの目が月光をひとつ呑み込む。

 エルは手帳の端に、小さく一文を足した。

 ――“平穏に暮らす”ための条件を、増やす。


 窓を開けると、王都の灯が千鳥に瞬いている。

 高台から眺める街は、遠くの戦の匂いをまだ知らないように穏やかだ。

 (この静けさを、日々の中へ戻す)

 胸の奥のどこかに、小さな熱が灯る。それは怒りではない。願いでもない。

 手順だった。


《主》

 ノワールの声は、夜気の中で柔らかかった。

《これで一歩、近づいた》

 エルはゆっくりと目を閉じ、頷いた。

 「うん。帝国の中枢に触れる位置へ――そして、ずっと遠くに置きっぱなしだった“平穏な日々”を取り戻すための条件へ」

《主は、近づくたびに遠くなる。遠くなるたびに、手が届く形が変わる》

 「それでも、近づく。違う形で、何度でも」


 石畳の向こうで、最後の屋台の灯がふっと消えた。

 夜が、街をやさしく覆う。

 エルはマントの留め具に触れ、胸の重さを確かめる。

 軽くはない。けれど、持ち上げられないほどでもない。


 (これは、まだ始まりにすぎない)


 小さな息をひとつ吐き、窓を閉じる。

 影が寄り添い、ノワールが足もとで丸くなった。

 ページを閉じる音と同時に、王都の夜は深く、静かに、ひとつの章を閉じていく。

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