第17話 小さな大賢者
――十歳。
それは本来なら、机に向かって文字を覚え、魔法書の簡単な詠唱を学び、友達と放課後の遊びを約束する年齢だ。
けれど、エルフィーナ・ノクターンにとって、その時間はとうに遠い。
彼女の歩みは、静けさを守るための戦いと、戦わずに済む仕組みを作るための知恵でできていた。
王都の外れ、ハイネル村で帝国の魔法が使われたとき――真っ先に現場に足を踏み入れ、黒髪の女の痕跡を追った。
やがて迎えた帝国との初遭遇では、圧倒的な力を誇る隊長格と対峙し、風と雷、水と土、光と闇――そして“無属性”までも自在に操り、複合術で勝利を収めた。
その戦いで奪取した位相鍵と情報は、帝国の戦術の一端を王国にもたらし、戦線を押し返す起点となった。
戦場で得たのは勝利だけではない。瞬時の判断力、敵の裏をかく策、仲間を生かす術――その全てが、十歳という年齢をはるかに超えた落ち着きを彼女に与えていた。
その姿はいつしか、二つ名でこう呼ばれるようになる。
**“小さな大賢者”――**と。
まだ背丈も小さく、声も幼い少女。
だが、戦況を見抜く眼は老練な参謀のそれであり、紡ぐ魔法は歴戦の大魔導士をも凌駕した。
その二つ名は、讃えと畏れ、そして希望を込めて魔法師団の中で広まっていった。
また、灰牙の切り通しで行われた短い会談では、交渉の場に立つだけでなく、次なる衝突の条件を冷静に分析。
戦いの場から戻ると、即座に補給路の再設計と巡回計画の見直しを行い、無駄な衝突を未然に防ぐ仕組みを提示した。
その功績により、魔法士団団長補佐に就任。年齢を理由に反対する声を押し切り、セレスティア・ヴェイルの直下に立つこととなった。
その報せは、遠く他国で暮らす両親にも届けられた。
幼くして魔法師団に加わったこと、そして今回、帝国領への任務に赴くこと。
娘を案じる声はあったが、返ってきた答えはただ一つ――
「あなたがやりたいことをやりなさい」。
エルはその言葉に背を押され、迷いを振り払った。
両親が長年培ってきた魔法理論と探究心は、間違いなく彼女の血にも息づいている
――そして、次に与えられた任務は、戦場ではなかった。
けれど、それは剣を交えるよりも難しく、危険を孕むものだった。
これまでの任務は全て、剣と魔法で解決できた。だが今回ばかりはそうはいかない。
必要なのは、笑顔や沈黙、言葉の選び方――それらさえが武器となる場。
セレスティアから直接告げられたその内容は、帝国領への潜入――。
ただし、潜り込むのは軍でも魔法師団でもなく、**帝国が誇る最高位の魔法教育機関「ルミエール帝国魔法学校」**だった。
「……学園、ですか?」
その場で思わず問い返すエルに、セレスティアは静かに頷く。
「帝国魔法師団の団長――マクシミリアン・レオニード。その娘、フィオナ・レオニードがそこに通っている。彼女は父の動向に最も近い立場にいるが、親子仲は険悪だ。情報を引き出せる可能性が高い」
任務の目的は二つ。
一つは、フィオナから帝国の魔法師団内部の情報を得ること。
もう一つは、彼女を通じて帝国の動向を事前に察知し、戦争を回避するための糸口を掴むこと。
だが、エルは即座に理解した。これは単なる情報収集ではない。
接触する相手は十五歳。年齢的には自分より年上だが、立場は微妙で、しかも自分が潜入する理由は一切知らない。
不用意に踏み込めば、相手を危険に晒す。
そして、仲良くなればなるほど――任務としての割り切りは難しくなる。
「私は……その子とどう接すれば?」
エルの問いに、セレスティアはしばし考え、そして短く答える。
「親しくなれ。だが、常に任務を忘れるな」
淡々とした言葉が、妙に重く響いた。
エルは静かに頷く。
たとえ戦場から離れても、背負うものは変わらない。
だが同時に――彼女は胸の奥で、小さなざわめきを感じていた。
親しく、か。
今まで戦いと任務の中でしか生きてこなかった自分に、それができるのだろうか。
ノワールの低い声が、心の中で響く。
《主は、もう答えを持っているだろう。出会いは、戦いと同じだ。準備して臨め》
エルは口元に小さく笑みを浮かべた。
準備――それは剣や魔法だけじゃない。言葉、態度、心の構え、その全て。
**“小さな大賢者”**の新たな戦場は、帝国の学び舎の中にあった




