第七話 沈黙の決壊と断罪
王都主催の慈善晩餐会はヴァンダービルト家にとっても外せない政治の舞台だった。
大広間には王族に連なる高位貴族、名門家の当主、そして次代を担う婚約者たちが揃っている。
笑顔と礼節の裏で、誰もが相手の価値を値踏みしている空気。
その中心へドミニクはヴィヴィアンを伴って現れた。
場のざわめきが一瞬だけ止まる。
白いドレスに薄絹のスカーフ。儚げに伏せられた瞳。可憐で守りたくなる弱者の姿。
だがここは東棟ではない。貴族社会の本流だ。
挨拶、所作、返礼、舞踏の誘い。
沈黙はここでは神秘ではなく、即座に“欠陥”として観察される。
少し離れた席でその様子を見ていたマーゴットは静かにグラスを傾けた。
隣にはキリアン。
「……もう限界ですね」
彼の低い声に、マーゴットは小さく頷く。
「ええ。今夜、崩れます」
すでに三人の令嬢がヴィヴィアンへ話しかけ、返答のない沈黙に微妙な表情を浮かべて去っていった。
ドミニクはそのたびに割って入り、喉を痛めていて話せない心優しい娘だ無理をさせないでほしい、と庇っている。
だが庇えば庇うほど、周囲の視線は冷たくなる。
なぜ次期当主候補が公の政治の場にそんな娘を伴うのか。
なぜ婚約者ではなく孤児を優先しているのか。
疑問は、もう社交界全体に広がっていた。
その時、公爵家と繋がりの深い老侯爵夫人がヴィヴィアンへ歩み寄った。
「まあ、なんて可愛らしい娘さん。お名前を聞かせてくださる?」
ヴィヴィアンが俯く。
ドミニクが慌てて口を挟もうとするより先に、老侯爵夫人はにこやかに続けた。
「せめて一言でいいのよ。ここは慈善晩餐会ですもの。皆、あなたの言葉を聞きたがっているわ」
沈黙。
会場の視線が、すべてそこへ集まる。
ヴィヴィアンの口元が震えていた。
前世であれば、ここでマーゴットが間に入り、彼女を庇い、責任を背負っただろう。
だが今は違う。
責任者はドミニクだ。
「……侯爵夫人、彼女は」
ドミニクが庇おうと踏み出した瞬間、別の貴族が口を挟んだ。
「ドミニク卿、次期当主候補ともあろう方が、公の席に事情を説明できぬ者を連れてくるのはいかがなものかな」
空気が変わる。
善意の疑問が政治の糾弾へ変わった。
ドミニクの顔が強張る。
ヴィヴィアンは俯いたまま、唇を噛んでいた。
沈黙を守れば守るほど、自分のせいでドミニクの立場が崩れていく。
けれど喋れば、自分の“奇跡の恩人”という物語が壊れる。
追い詰められたのは彼女自身だった。
そして決定打はドミニクの焦りだった。
「……ヴィヴィアン、何とかしてくれ」
庇護者であるはずの男の口から出た、その一言。
責任を、ついに彼女へ返した。
ヴィヴィアンの肩が大きく震える。
次の瞬間だった。
侯爵夫人の視線が、逃げ場のない形で彼女を捉えていた。
「わ、わたしは……!」
鈴を転がすような、はっきりとした声。
広間が凍りつく。
誰もがヴィヴィアンを見た。
ドミニクすら、信じられないものを見る目で固まっている。
ヴィヴィアン自身も、口元を押さえて青ざめた。
だが、もう遅い。
老侯爵夫人が静かに目を細める。
「……まあ。お話しできたのね」
その優しい一言が死刑宣告だった。
会場のざわめきが一気に膨らむ。
「喋れないのでは?」
「失語症ではなかったのか」
「では今までの庇護は?」
「公爵家を欺いていたのか?」
沈黙で築いた理想の城が、たった一言で崩れ落ちていく。
ヴィヴィアンは縋るようにドミニクを見た。
「ち、違うの……わたし、怖くて……!」
その声がさらに事態を悪化させた。
今まで沈黙を貫いてきた女が、保身のためには即座に喋れる。
それだけで十分だった。
ドミニクの顔から血の気が引く。
その瞬間、彼はまだ現実を拒んでいた。
自分が守り続けたものが英雄譚でも聖女でもなく、ただ都合のいい虚像だったことを。
少し離れた場所でキリアンが静かに立ち上がった。
「皆様、お騒がせしました」
キリアンの声が落ちた瞬間、広間の熱がすっと引いた。
「父の静養中、弟の判断が未熟であった点については、兄として整理させていただきます」
その一言で、責任の矛先がドミニクへ定まった。
未熟。
次期当主候補として致命的な評価。
マーゴットはその瞬間を見逃さず、一歩前へ出た。
「皆様に、私からもご報告を」
広間の視線が集まる。
ドミニクが青ざめた顔でこちらを見た。
マーゴットは凛と背筋を伸ばし静かに告げる。
「本日をもって、ドミニク・ヴァンダービルト様との婚約を正式に解消いたします」
ざわめきが再び走る。
だが今度は誰も驚かなかった。
むしろ当然の結末として、すんなり受け入れられていく。
ドミニクが一歩踏み出した。
「待て、マーゴット……!」
声が途中で途切れた。
言葉より先に、意味だけが彼に届いていた。
顔から血の気が引く。
失うものだけが遅れて現実になる。その顔には初めて恐怖が浮かぶ。
だがマーゴットは振り返らない。
前世で地下牢に置き去りにされた自分へ、ようやく報いる時だった。
代わりに、隣へ並んだキリアンが静かにその肩を抱く。
「彼女はもう、君のものではない」
キリアンはそれだけ言って視線を外した。
ドミニクは口を開きかけ、そのまま止まる。何を否定すればいいのか、もう分からなかった。
ヴィヴィアンは泣き崩れた。
だが、その場に彼女を庇う声はもうなかった。
その場に残ったのは沈黙ではなく、言い逃れのない現実だけだった。
広間を後にしながら、マーゴットは胸の奥に静かな熱を感じていた。
終わった。
前世、自分を殺した沈黙の物語は、ようやくここで幕を閉じたのだ。
だが隣を歩くキリアンの手は肩から腰へと少しずつ下りてきている。
「……キリアン様?」
「婚約を解消したのでしょう」
囁く声が、耳元で甘く低い。
「ここから先は、私のものです」
その言葉に胸が大きく跳ねた。
復讐は終わった。
けれど自分の物語は、ここから始まるのだと――そう思えた。




