第六話 焦りと亀裂
公爵の延命から二週間。
ヴァンダービルト公爵邸の空気は目に見えないひび割れを抱え始めていた。
表向きには何も変わらない。
公爵は静養室で政務を限定的に再開し、北部街道の復旧も順調に進んでいる。東棟ではヴィヴィアンのために侍女が奔走し、ドミニクは相変わらず“命の恩人を守る誠実な次男”を演じ続けていた。
けれど、その仮面の裏では確実に歪みが広がっている。
きっかけは金だった。
東棟の維持費、侍医の増員、喉に良いとされる高価な薬草、王都から招いた発声専門の教師。
ドミニクは前世でマーゴットが担っていたすべてを、自らの裁量で抱え込んでいた。
そして今、公爵が生きている以上、自由に動かせる予算には限界がある。
「また北方商会の承認が必要だと?」
本館の執務室からドミニクの苛立った声が漏れ聞こえた。
扉の外に立つマーゴットはノックをする手を止める。
中にはドミニクと会計係、それからヴィヴィアン付きの侍女がいるらしい。
「はい。閣下のご静養に伴い、大口支出はすべて北方派閥の監査を通すようにと……」
それはキリアンが整えた新しい決裁ルートだ。
病床の公爵の名を使いながら、実務上の金の流れを兄側へ寄せている。
前世でマーゴットが善意から私財を投じた穴を、今世では制度で塞いでいるのだ。
「たかが孤児一人のための薬だぞ」
苛立ちを隠さないドミニクの声。
その一言に、扉越しでもヴィヴィアンの気配が強張ったのがわかった。
ヴィヴィアンは言葉を発さないまま、視線だけでドミニクを見た。
その視線に、ほんの一瞬だけ迷いがあった。
たかが孤児。
守るべき聖女を、焦りの中で自ら貶め始めている。
マーゴットはその変化に静かな確信を抱いた。
(ひびが入った)
完璧な庇護者を演じるには責任も費用も現実も重すぎる。
前世で自分が一人で抱え込んだものを、今ようやくドミニクは知り始めている。
わざと間を置いてからマーゴットは扉を叩いた。
「ドミニク様、お時間よろしいですか」
中の空気が一瞬で整えられる。
入室するとドミニクは平静を装った顔で椅子にもたれていた。
だが机上には未承認の請求書が山のように積まれている。
視界の端、ソファに座るヴィヴィアンが俯いていた。
「どうした、マーゴット」
「北方商会よりご報告です。東棟関連の支出が、今月だけで通常の三倍に達しています」
わざと数字だけを淡々と置く。
責めない。
ただ現実だけを見せる。
ドミニクのこめかみがぴくりと動いた。
「必要経費だ」
「ええ。命の恩人のためですもの」
にこやかに返すと、彼はそれ以上強く出られない。
その横で、ヴィヴィアンがかすかに顔を上げた。
揺れる瞳に宿るのは不安。
前世ではマーゴットがすべて整えていた。
だから彼女は安心して“弱者”を演じられた。
だが今は違う。
ドミニクの苛立ちが、そのまま東棟の空気に伝播している。
守ってくれるはずの男が金と立場に追われて軋み始めているのだ。
その夜、東棟の廊下でマーゴットは意図せず二人の会話を耳にした。
「……これ以上、教師を増やす必要が本当にあるのか?」
ドミニクの押し殺した声。
返事はない。
ヴィヴィアンは沈黙したまま、ただ視線で訴えているのだろう。
「そんな顔をするな。わかっている。君のためだ」
言い聞かせるような声音。
だがその後に続いたのは小さな舌打ちだった。
マーゴットは廊下の影で目を閉じた。
沈黙は相手に都合のいい理想を見せる。
けれど現実の重みが増せば、その理想は相手自身を蝕み始める。
前世、自分に向けられた妄想の正義が今ようやく彼自身を裂いている。
北の離れへ戻ると、キリアンが暖炉の前で報告書を読んでいた。
「順調ですね」
その一言だけで、彼がすべて把握しているとわかる。
マーゴットは向かいに腰を下ろし、淡く笑った。
「思ったより早かったです。ドミニク様、もうヴィヴィアン嬢を“負担”として見始めています」
「英雄願望は、維持費に弱い」
キリアンの皮肉に、思わず笑みが漏れる。
「でもヴィヴィアンはまだ沈黙を崩しません」
「ええ。だからこそ効いている」
キリアンは書類を閉じ、じっとマーゴットを見た。
「沈黙は万能ではない。相手が勝手に理想を補完してくれるうちは強いですが、ひびが入った瞬間に最も脆い」
「ひびを広げるのですね」
「はい。次は立場です」
彼はテーブルの上に一枚の招待状を置いた。
王都主催の慈善晩餐会。
次期当主候補や有力家門の婚約者が集う、極めて政治色の強い場だ。
「父上の代理として弟が出席する予定です」
キリアンが静かに告げる。
「ですが今回は変更があります」
マーゴットはすぐに意図を読んだ。
「ヴィヴィアンを同伴させるのですね」
「ええ。弟がどこまで“恩人”を公の場で守れるか、試しましょう」
社交界の視線、格式、礼儀。
そこに言葉の不自由な孤児を連れていけば、綻びは必ず生まれる。
前世、自分が背負わされた“教育不足”という罪を、今度はドミニク自身に負わせる舞台。
マーゴットは招待状を手に取り、ゆっくり頷いた。
「ヴィヴィアン嬢はきっと不安でしょうね」
「同情しますか?」
「少しだけ」
キリアンが意外そうに目を細める。
「でもそれ以上に、私は私を守ります」
マーゴットの答えに、彼は満足そうに笑った。
「やはり君は、私の隣にいるべき人だ」
静かな声。
その言葉だけで、胸の奥がじんわり熱を持つ。
キリアンはソファから立ち上がり、彼女のすぐ傍まで歩いてくる。
「慈善晩餐会、君も同席してください」
「偽の恋人として?」
「……そのつもりでしたが」
彼は少しだけ間を置いた。
「最近は、その枠に収めるのが惜しい」
低く落ちた本音に、マーゴットの鼓動が大きく跳ねる。
キリアンの指先がそっと彼女の髪に触れ、耳の後ろへ流した。
「弟とヴィヴィアンが亀裂を深めるたび、君をこちらへ引き寄せたくなる」
その声音にはもう、冗談の逃げ道がない。
暖炉の火が静かに揺れる中、マーゴットは息を呑んだ。
東棟で広がるひび割れと同じように、二人の距離もまた、もう“共犯”という言葉だけでは説明できないところまで近づき始めていた。




