第四話 いつの間にか、独占欲
ヴィヴィアンがヴァンダービルト公爵邸へ迎え入れられた日、本館東棟はひどく騒がしかった。
侍女たちは新品のリネンを抱えて廊下を行き交い、侍医は東棟専属として部屋を移され、料理長は「喉に優しい献立」を何種類も用意させられている。
そのすべてがドミニク自ら命じた“献身”だった。
マーゴットは二階の回廊から、その光景を静かに見下ろした。
前世では自分が整えた環境だ。
ヴィヴィアンの寝台も、薬も、教師も、すべてを最善にした。だからこそ責任は自分に集中し、彼女にとって都合のいい「加害者」へ仕立て上げられた。
だが今は違う。
東棟を忙しなく走る侍女の誰もが口にする。
「ドミニク様は本当にお優しい」
「命の恩人をここまで大切になさるなんて」
その言葉が、そのまま彼を縛る鎖になる。
「……満足そうですね」
背後から落ちた低い声に、マーゴットは振り返った。
キリアンが回廊の柱にもたれ、東棟を眺めている。
白い横顔は相変わらず静かだが、その瞳だけが薄く愉悦を滲ませていた。
「ええ。彼が自分の意思で檻に入っていくのを見るのは、案外気分がいいものです」
「檻、ですか」
「前世で私がいた場所ですもの」
キリアンは小さく笑った。
「では弟には、せいぜい優秀な飼育係を演じてもらいましょう」
その物言いが可笑しくて、マーゴットは思わず笑みを零した。
するとキリアンが、ほんの一瞬だけ視線を止める。
「……その顔です」
「え?」
「君は私の前では滅多にそんな風に笑わない」
不意を突かれ、マーゴットは言葉を失った。
キリアンはすぐに視線を逸らし、何でもないように東棟へ目を戻す。
「まあ、今はいいでしょう。問題はこれからです」
彼の耳が、わずかに赤い。
気づかないふりをして、マーゴットは回廊の先へ歩き出した。
その横に、当然のようにキリアンが並ぶ。
いつの間にか、この距離に違和感がなくなっていることに気づき胸の奥がかすかにざわめいた。
その時、東棟の扉が開いた。
ドミニクに支えられながら、ヴィヴィアンが姿を見せる。
柔らかな蜂蜜色の髪。白い喉を隠す薄絹のスカーフ。儚げに伏せられた瞳。
前世と何一つ変わらない、可憐な弱者の仮面。
ドミニクがマーゴットに気づき、少し眉をひそめた。
「マーゴット。ちょうどよかった。ヴィヴィアンのことで相談したい」
「何でしょう」
「彼女に必要なものを、君の見立てで揃えてやってほしい」
前世と同じ誘導。
ここで頷けば、また自分が責任者になる。
マーゴットは穏やかに微笑んだ。
「もちろん助言はいたします。ですが今回は、ドミニク様ご自身が彼女の後見人でいらっしゃるのでしょう?」
「……それはそうだが」
「ならば最終判断は、必ずあなた様がなさってくださいませ」
ドミニクの自尊心をくすぐるよう、丁寧に言葉を置く。
「命の恩人に対する誠意は、誰かに委ねるべきものではありませんもの」
その一言で、彼の表情が満足げに緩んだ。
「……そうだな。君の言う通りだ」
隣でヴィヴィアンが俯いたまま、かすかに指先を握りしめた。
彼女も気づいたのだろう。
自分を害する役を誰かにーマーゴットに押しつけられないことを。
ドミニクとヴィヴィアンが東棟へ戻っていく。
その背を見送りながら、キリアンがぼそりと呟いた。
「さすがですね。責任の線引きが見事だ」
「線は最初に引かないと、後で塗り潰されますから」
マーゴットが答えると、キリアンは少しだけ目を細めた。
「本当に変わりましたね、君は」
「……前は受容するだけだった?」
「ええ」
彼は立ち止まり、正面からマーゴットを見た。
「前の君は正しさを背負い込みすぎていた。誰かを守るために、自分が悪者になることすら厭わなかった」
その通りだった。
善意で差し出したものすべてが、前世では首を絞める縄になった。
「でも今の君は違う。正しさを押しつけず、相手に選ばせ、その責任を返している」
静かな称賛だった。
マーゴットは少しだけ視線を伏せた。
「……あなたが、順序を教えてくださったからです」
キリアンが息を呑む気配がした。
次の瞬間、彼の指先がそっとマーゴットの手首に触れる。
驚くほど優しい力だった。
「その言い方は、あまり良くない」
「え?」
「期待してしまうでしょう」
低く落ちた声が、胸の奥にじんと響く。
キリアンは自分の言葉に気づいたのか、わずかに眉を寄せて手を離した。
「……失礼。忘れてください」
だがマーゴットの鼓動は忘れるには少し速すぎた。
その夜、北の離れで今後の報告書を整理していると、キリアンがふいにペンを置いた。
「一つ、提案があります」
「何でしょう」
「弟が最近、君の動向を探らせています」
予想通りだった。
ヴィヴィアンを迎えて以降、マーゴットが以前より自分へ関わらないことに、ドミニクは薄く違和感を覚え始めている。
「だからこそ、ここで私たちの関係を少し明確にした方がいい」
「関係?」
キリアンは書類越しにこちらを見た。
「私の離れに君が出入りする理由として、最も自然で、弟に効くものがあります」
マーゴットは数秒考え、そして答えに辿り着いた。
「……まさか」
「ええ」
キリアンは静かに頷く。
「病弱な長男を気遣って見舞っている令嬢。そして、彼女は次第に彼に心を寄せるようになっていく。…社交界はそれだけで十分に恋愛譚へ仕立てるでしょう」
偽の恋人。
だが二人の間に流れる空気は、すでに“偽り”だけでは片づけにくいものになりつつあった。
マーゴットが返答に迷った、その一瞬。
キリアンが小さく目を伏せる。
「……嫌なら別の手を考えます」
その声音に滲んだのは策ではない感情だった。
惜しむような、諦めるような、静かな熱。
マーゴットは胸の奥のざわめきを抑えながら、ゆっくり首を横に振った。
「いいえ。それが最善なら、そういたしましょう」
キリアンが顔を上げる。
その瞳に、隠しきれない安堵が灯った。
「では明日の茶会、私の隣へ」
「社交界へのお披露目ですか」
「ええ。弟に返すのが惜しくなる前に、先に既成事実を作っておきたい」
さらりと言われたその言葉に、マーゴットは思わず息を止めた。
冗談めいた声音だったのに、彼の目は少しも笑っていない。
その熱の意味を、マーゴットはもう見誤れなかった。




