第二話 沈黙が始まる前に
毒に焼かれる喉の幻痛に、マーゴットは息を呑んで目を覚ました。
天蓋越しに差し込む朝の光。地下牢の石の冷たさはない。代わりに肌を包むのは上質なリネンの温もりだった。
荒い呼吸を整えながら、震える指で卓上の暦を掴む。
――ヴィヴィアンがヴァンダービルト公爵邸へ迎え入れられる、三日前。
静かに唇が持ち上がる。
「……まだ間に合うのね」
ドミニクに毒を飲まされ、ヴィヴィアンに喉を晒して笑われたあの夜。あれは終わりではなく、始まりだった。
だが今世で最初に確かめるべきは復讐の駒ではない。
(どうして私はあそこまで綺麗に破滅させられたのか)
一瞬の静寂。思い出すだけで胸の奥に冷たい感触が残る。
感情の暴走ではない。手順を踏んだように、正確に逃げ道だけが潰されていた。
前回の私は善意に酔い、相手の筋書きの上で踊らされた。ならば今度は舞台そのものを解体する。
———-
マーゴットがまず向かったのは公爵邸の記録室だった。主家の次期婚約者として自由に閲覧できる立場を使い、狩り場の事故報告を取り寄せる。
革張りの報告書を開き、マーゴットの指先が止まる。
《ドミニク様、狩猟中に暴走した獣に襲撃される。偶然通りかかった孤児の娘が庇い負傷。声帯を損傷し、以後失語》
簡潔すぎる。貴族の狩猟事故報告としてはありえないほどだった。
通常なら必要なはずの情報が抜けている。獣の種類、同行騎士の証言、発生地点、応急処置の内容、血痕処理の記録。
何一つない。
マーゴットは頁を閉じた。
(事故ではない。最初から“語る形だけ”が作られている)
⸻
次に彼女はヴィヴィアンの診療記録を確認した。
侍医室で古い記録束をめくる。そこにあった文字にマーゴットは目を細める。
《喉部に外傷なし。発声障害は精神的衝撃による一過性の可能性。安静により数日で改善見込み》
「……やはり」
喉は裂かれていなかった。少なくとも永久に声を失うような傷ではない。
つまりヴィヴィアンは最初から沈黙を“選んだ”。
回帰前に見た白い喉元。スカーフを解いた先にあった、何の痕跡もない肌。
あの笑みが蘇る。
(最初から喋れたのね。喋らない方が得だから、黙っていた)
マーゴットはわずかに目を伏せる。
自分は彼女を救うつもりだった。衣食住を整え、教育を与え、貴族社会で生きる術を与えた。
だがそれは結果として、彼女の“立場”を奪っていたのかもしれない。
「……私は、正しさを強要しすぎた」
正しさは救いではない。時に人の逃げ道をすべて塞ぐ。そしてドミニクは、その“正しさ”を都合よく利用したのだ。
ヴィヴィアンの沈黙。ドミニクの独善。公爵の黙認。
誰もが、それぞれの都合でこの出来事を受け取っていた。
前回の自分もまた――最後まで違和感を言語化できなかった。
⸻
マーゴットが記録を抱えて立ち上がった時、背後から声がした。
「婚約者に殺された感想は?」
わずかに笑いを含んだ声。
紙束を取り落としかける。
振り向いた先、記録室の薄暗い入口に一人の青年が立っていた。
銀灰色の髪。病の色を宿す白い肌。だがその双眸だけが静かに冴えている。
キリアン・ヴァンダービルト。
病弱ゆえに表舞台から距離を置かれた、ヴァンダービルト家の長男。
マーゴットは息を整え、低く返す。
「……何のお話ですか?」
キリアンは壁に寄りかかったまま、視線だけを彼女に向けた。
「少し顔色が悪いですね。何を見つけました?」
マーゴットは報告書を掲げる。
「ドミニク様の事故について調べておりました」
「それで何がわかりました?」
「ヴィヴィアン嬢は話せるのではないかと思います」
キリアンは喉の奥で笑った。
「優秀だ。今回は随分早い」
「……前回、と仰いましたね」
マーゴットの指から報告書が滑り、ひらひらと落ちていく。
「君は人生を回帰している。違いますか?」
空気が凍る。
だがマーゴットはキリアンから目を逸らせない。
キリアンは散らばった記録を拾い上げ、侍医記録の一頁を彼女へ返した。
「弟を壊したいなら、感情で動くと判断が遅れる」
マーゴットの呼吸がわずかに揺れる。
「では?」
キリアンは視線を上げた。銀灰の瞳にマーゴットの顔が映る。
「事実だけ見る。この件は最初から必要な情報が抜けている」
彼は淡々と続ける。
「証言が少ない。記録も整いすぎている。誰も細部を語っていない。見せたい形だけが残されている」
「だから?」
マーゴットは彼の瞳を見つめながら、その先を待った。
「順番を間違えると負ける」
キリアンは報告書を整えながら続ける。
「君がやるべきなのは正しさを証明することじゃない。何が隠されているかを先に見つけることだ」
少し間を置く。
「それが分かれば、あとは崩れる。沈黙で作られた罪は、沈黙が破られた瞬間にしか崩れない」
その言葉にマーゴットの背筋が震えた。
まるで未来を予言するような言葉。
「理解できたら、次は私の離れへ来なさい」
彼は去り際、振り返らずに続ける。
「死に戻りに投資する価値があるか、見極めてあげましょう」
記録室に一人残されたマーゴットは静かに息を吐いた。
ヴィヴィアンが来るまで、あと三日。




