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『氷の双宮』から『白の流れ』(ソワルド)に沿って南東へ下り、街の視界に入る場所を避けて、アシャとシャイラは急ぎ続けた。
『氷の双宮』に知らせがないとはいえ、アギャン公の後をカルキュイが継いだのは確実、そしてグードス救出に向かう彼らが、カルキュイとその一派に歓迎されないのも確実だった。
馬の体は汗にまみれ、明るい陽射しに強い体臭を立ちのぼらせる。足の下で躍動し続ける体躯は未だ疲労も感じさせない力強さを保ってはいたが、既に口角には白い泡が溜まっている。
やがて前方、虚しいまでに広々と視界を占める『泥土』が見えてきた。
『灰泥土』とも呼ばれるように、地平の彼方まで一面灰色の、どろりと濁り、鈍く陽の光を跳ね,或いは光を吸い込む地表には、生物の影は一つも見当たらない。
次第次第に馬の速度を落とし、固く温かな親しみのある茶色の地面が少しずつ灰色の泥と入り交じっていく境で、アシャとシャイラは馬を止めて飛び降りた。
『泥土』に関する忌まわしい噂は、人々によって心に植え付けられた重い恐怖であるのだろう、遠くの方にひなびた小屋が一つ、今にも崩れそうな草葺きの屋根が周囲に立て巡らせた棒杭の上にかろうじて載っているだけという代物だ。おそらくそれは、その昔置かれたという『泥土』の見張り小屋だったのだろう。
「アシャ…」
シャイラはただただ広がる平面にあちらこちらと瞳をやって、やがて途方にくれたように彼方を眺めながら、敬称をつけることも忘れてアシャに問いかけた。
「どこもかしこも真っ平らです。グードスは一体どこにいるんでしょう……?」
見渡す限りの平面には、人が隠れられそうな窪みも小高い山もない。グードスはおろか、『泥獣』さえ潜む場所がないように見える。
「いや」
アシャは同じように『泥土』を見ながら軽く首を振った。馬の背中から積んできた皮の包みを降ろし、荷を解きながら続ける。
「『そう』見えているだけだ。『泥獣』が己の保身のために如何にも何もなさそうに平坦に見せているだけで、実際の地形は違っている」
「では…」
振り向いたシャイラがアシャの動きに気づき、急いで自分も馬の背中から皮の包みを降ろし、巧みに断った辺々を合わせ脚に巻き付け、しっかりと縛り始めた。革紐は濡れてからよく締まってくるので、ほどほどに、けれども『泥土』の泥が染み込まないように皮で脚を包みつつ、膝を越え、大腿の上の方まで丁寧に巻き付けていく。
「グードスはどこに」
「『泥獣』が密集している所に『保存』されているはずだ。奴らは獲物の所有について厳しい掟を持っている。始めに見つけた者がその獲物を所有する。そして、奴らは喰い尽くすまでその場を離れない……もっとも、『生きている』とは言えないだろうが」
「…」
淡々としたアシャのことばに、シャイラはぞくりとした顔になった。相手の体が無意識に怯んで僅かに背後に引けるのを眺め、アシャは容赦なく促す。
「行くぞ」
「は、はい」
太古生物においては、この程度の習性は可愛いものだ。およそ惨いとしか表現しようがない状態で獲物を『保存』しておく奴らはいくらでもいる。それはまるで『人』に対する怨念のようだ。
『人』よ滅びよ、『人』の命よ、生き長らえるな。
そういう見えない呪詛が太古生物の血肉に流れていて、それで彼らはこれほど『人』を我が食糧にと望むのか。
「…」
自らのうちにも同じ様な呪詛が組み込まれているのかと、脳裏を掠めた考えに首を振って、アシャはシャイラの先に立って『泥土』に脚を踏み入れた。ぐにゅりと足の裏で沈み込み滑る感触は、お世辞にも快いとは言い難い。
指先を少し先へ伸ばす。いつの間にか体表面を覆っていた金色の靄がするすると指先から溢れ、『泥土』の上を素早く疾った。
側に居たシャイラがはっと息を呑む。
「これは…」
まるで目の前に垂れ下がっていた布切れを一枚払いのけていくようだった。
アシャの金の影が疾り過ぎた後に、今の今まで平坦な泥の地面と見えていた場所が一転する。高く低くうねり波立つような泥の中、そこここに、びらびらした皮とも肉とも言えぬ襞をひらつかせて、無数の『泥獣』がもそもそと這い回っている。
「シャイラ?」
「は、はい」
振り返って青ざめているシャイラに微笑む。
「俺から離れるなよ。『泥獣』を刺激するんじゃない。同じ速度で動いている限り、奴らは俺達が獲物だと気づかない」
「はい…アシャ様」
シャイラは竦みかけた体を、何かを振り払うようにぶるっと震わせ、頷いた。きつい顔で歯を食いしばり、もう一度アシャに頷く。
「注意します」
『銀羽根』の長の名にかけて、こんなところで尻尾を巻いて帰るわけにはいかないと思い定めたのだろう。平和ぼけしたラズーンにあっては貴重な人材だ、とアシャは笑みを深める。
「行くぞ」
「はい…っ」
アシャの背後からシャイラはゆっくり踏み出してくる。アシャも小さく息を吐く。自分は切り抜けられても、シャイラの動き一つで『泥獣』に襲い掛かられるかもしれない。油断などできなかった。




