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「……シャ様、これで準備は十分に……アシャ様?」
「ん? あ、ああ、すまない」
不審そうに尋ねられて我に返る。
「『氷の双宮』に何か?」
「いや…」
準備万端整え、アシャに付き従うという栄誉に顔を紅潮させているシャイラに苦笑しながら振り返る。
「行くか」
「はい」
それぞれに馬に跨がり、手綱を握りしめる。シャイラの手が軽く震えているのに気づき、アシャは笑いかけた。
「どうした、怖いのか」
「怖いはずがありません」
シャイラは揺れる己の手を訝しげに眺めながら言い切る。
「アシャ様と一緒なら、何が起こっても大丈夫だとわかっていますから」
これはきっと武者震いですよ、と引き攣り気味の笑顔を返す、その胆力に免じてそれ以上は突っ込まなかった。
本来ならば、各公の親衛隊も兼ねる『羽根』の長が、他公の地へ単独で出向くことなどあり得ない。領地を侵犯したと糾弾されかねない所行だが、今回に限り、『太皇』からの申し入れもあって許された。今は平時とは違う状況、しかも、シャイラとグードスは十年来の友人、同道を許された裏には事情がある。
「それに、ミダス公のお側を離れることも案じておりません」
シャイラはにっこりと笑った。
「名高き『星の剣士』(ニスフェル)が公邸に逗留しているという噂は、とうに知れ渡っています。そんなところへのこのこ忍び込むような馬鹿はラズーンにはいませんよ」
「…そうだな」
ミダス公がアシャの共にとシャイラを差し向けたのも、おそらくはそういうことだろう。野戦部隊が一目置くという『星の剣士』(ニスフェル)がいる、おおあの大男か、なるほど強そうじゃないか、そう囁き合う面々が、イルファを見ながら感心していたとしても、ミダスには十分な守りが置かれている、その事実はかわらない。
ましてやアシャは、この間ユーノを命の危機に陥れた相手に対して、かなり非情な処置を取った。憐れみも労りも一切ない遣り口に、ユーノ・セレディスに手を出せば、憤怒に狂いながらアシャが襲いかかってくる、そう覚悟しなければならないと、周囲には十二分にわかったはずだ。
(確かにラズーンの人間は動かない……だが、『運命』は別だ)
視察官に紛れ、或いは四大公の中に、『運命』の牙が隠されている。それはいつ、容赦ない力でユーノを噛み砕こうとするかわからない。
(離れたくなかった)
何もかも捨て、ユーノの側に居たかった、ただの物静かな、けれど絶対の守りを約束する従者として。
(けれど俺は、あいつを、泣かせた)
幾多の戦いに耐え、セールの死も歯を食いしばって堪えた気丈な娘を。脳裏を過ぎる潤んだ瞳はアシャを責めたい想いで一杯だった。
(まだ…泣いている気がする)
なぜだなぜだと理由を問いながら、アシャに奪われた唇を悔しさで噛み締めながら。そのユーノに胸が傷む一方で、密やかな喜びが胸の底に広がってくるのは、やはりアシャが魔性だからか。
(甘くて…柔らかい…)
花の蕾のような。果実の一房のような。噛みついて啜り、味わいたかった、零れ落ちる露一雫まで。我ながらおぞましいまでの卑劣な欲望、愛しく慕わしく、守りたいと思うその主を蹂躙することに煽られる付き人なぞ、危なっかしいばかりだ。
(何が『氷のアシャ』だ。あいつ一人まともに支え切れずに、何が第一正統後継者だ)
アシャは自分の唇を苦く噛んだ。風に嬲られ乱れた金褐色の髪が光を散らせる額の下で考え続ける。
(けれど、ユーノ、お前は誰を求めているんだ?)
あの誇り高い魂が、誰かの内懐に抱え込まれることを良しとするようなことなどあるのだろうか。
(それとも、この世の男などには溶けもしない、お前こそ氷の心の持ち主か)
それならいっそ救いがある、アシャだけではない、他のどんな男のものにもならない至高の異性として、その命を護る従者として控えることで慰めも得られる。
(聖女王)
『泉の狩人』(オーミノ)の願いを束ねる聖なる女王。その目に映るのは戦いのみ、その手が取るのは剣の柄のみ。死に向かって奔り続けることを恐怖することもなく、伸ばしたこの指の僅か先で紅蓮の炎と化して消えていく。
「…シャ……シャ・ラズーン」
「っ」
響いた声に我に返った。
「どうかなさったのですか」
気がつくと、またシャイラが不安げに覗き込んでいた。
「それほど……グードス救出は難しいのですか」
「いや…『泥土』について、どの程度知っている?」
軽く首を振って、アシャは当面の敵に意識を戻した。
「あまり詳しくはありません」
シャイラは僅かに顔を赤くした。
「『羽根』の入隊直後の申し送り程度です。アギャン公領の東に広がる泥の大地、作物は種のうちに腐って芽吹かず、土には未だ明らかにされない毒素が含まれ、長時間触れていると肌から毒が染み込んで狂死するとか。それに……『泥獣』のことも多少」
シャイラはためらいがちに続けた。
「荒廃の世の時代から、広大な『泥土』の恵みのもとに生き長らえてきた太古生物ですよね。体長は大人の男の前腕ほど、全身が焦茶のいぼだらけのしなやかな皮膚で覆われており、中央が高く周囲になるほど薄べったく広がる体、地面に接する部分に小さな無数の口がついていて、犠牲者の体にべったりとはりつくと出血を起こさせるほどの強い吸啜力を持つとか」
言いながら、シャイラの顔はゆっくりと白くなっていく。
その顔は続く内容も知っていると告げている。
「…常食としているのは他の生物の体液だ」
アシャは静かにことばを継いだ。
「人で言えば温かい血液、だな。『泥土』に生息する吸血動物の中では最大、最多数を誇る。それに加えて『泥獣』はただの吸血動物にはない大きな特徴がある。『眼』だ」
「『眼』?」
さすがにシャイラはそれは知らなかったらしく、訝しげに尋ね返してきた。
「細長くて中央が盛り上がり周囲がびらびらした体の前の方に、緑色の細かな粒子を詰め込んだようなきらきらした二つの膨らみがあるんだよ。『眼』と呼ばれているが、厳密には『眼』じゃない。獲物の存在を感知する感覚器の一つだが、同時に、獲物の視覚や聴覚に働きかけて、ある種の幻覚を見せる特殊な波動を発生させている放射器でもある」
「……『泥獣』は人を惑わし甘い夢を見せる、ということですか…?」
「そうだ」
アシャは小さく溜め息をついた。
「その者の最も望んでいるものを見せる。どうしてそれを奴らが感知するのかはわかっていないが、人が望むものを考えると、何か特別な体の反応があるのかも知れないな」
アシャがユーノを想う時に切なく揺れる心は、『泥獣 』にはどんな動きとして感じ取れるのだろう。心迷わせるような甘い匂いの体臭か、僅かに震えるさざ波のような肌の振動か、それとも潤み熱をたたえて細められる快楽にけぶる瞳の湿度か。
「餌食になった奴を何人も見ている。気をつけるんだな」
「…はい、わかりました」
一瞬間を置き、自分の心の何ものかを確かめたように瞬いて、シャイラはゆっくり頷いた。




