9
「な、んだよ……っ」
アシャの姿が戸口から消えて、ようやくユーノは吐き出した。
「何…だった…んだよ…っ」
情けないが、声も体も寒くて熱くて震えが止まらない。
「何が…それぐらい…元気が…あればだよ…っ」
ぼろぼろ零れ落ちる涙を必死に拭き取るが、拳を越えて温かな液体は溢れ続ける。
「どういう…つもりで…キス…なんか…っ」
(私の気持ちも知らないで!)
胸を押し潰されるような痺れが、唇から体の隅々まで、手足の先まで広がっている。涙を拭き取った指が唇に触れ、無意識にそっと口を押さえる。
(甘い、キス……甘くて、苦い…)
何度か唇を重ねたことはある、けれど、今ほど貪られるように吸い尽くされるように合わせられたことはなかった。開いていた口を慌てて閉じたのに、抉じ開けられるように開かされて。
「…っ」
感触が甦って体も顔も一気に熱くなる。弾む息が悔しい。離れた後は氷を当てられたような寒さが残るのに、激しく求められたような気がしてしまった自分、一瞬ふんわりと意識が霞みかけた自分が、情けなくて腹立たしくて哀しい。
(女、なんだ、なあ…)
「…くっ」
ぼんやりとそう感じて、また馬鹿馬鹿し過ぎて愚か過ぎて、涙が溢れた。
「は、女、って?」
なんだ、それ。今までそんな風に自分を感じたこともなかったくせに。
ちょっとアシャに、あちらこちらに引く手あまたの手練手管を持った男にキスされたからって、胸が轟いて体が熱くて、何かも剥ぎ取って側にもっと来て欲しいとか思ってしまうなんて、なんて情けないんだろう。なんて惨めなんだろう。
「くそ…っ」
金輪際、隙を見せちゃだめだ。こんなにアシャのキス一つで気持ちが動いてしまうならもっと駄目だ。今だって、あれがからかいでしかないと頭ではわかっているのに、別な意味に取ろうとしている、もっと違う、一瞬にせよ、ユーノの何かに魅かれてくれたのではないかなどと。
「っ」
また溢れてくる涙に必死にユーノは首を振った。
「だめだだめだだめだ」
そんなことを考えること自体がまずい。レアナに対して申し訳ないし、アシャに対しても失礼だ。ぐいぐいごしごしと顔を擦って、
「違う違う、アシャは、うん、ただからかっただけだ、私がたびたび馬鹿なことを言うから、アシャの気持ちとか何も考えてないから、きっと怒ったんだ、怒鳴りつけても叱りつけても効かないから、こんなことしたんだ、こんなことするほど、アシャは怒ってて、だから……」
ふいにひやりとした。
(アシャ、本当に怒ってたのかもしれない)
アシャがレアナを愛しているのははっきりしている。レアナとて、アシャに望まれて不愉快なはずがない。けれど、そこからは二人の問題で、ユーノが口出しするようなことではないのだ。なのに、ユーノは先走って、レアナとの婚姻までアシャに迫った。あまつさえ、セレドの将来までアシャの肩に載せようとした。
しかも、その根っこにある気持ちも、今のユーノには見えている。
「だって…」
アシャと離れたくなかったんだ。
小さく微かな声が胸の奥で響いている。
長い旅だった。セレドに戻るのも、うんと長い旅になるだろう。ずっとアシャと居て、それほど長く居て、ユーノの気持ちのどこかでは、アシャはもうずっと側に居てくれるような気がしているのだろう。
(居て欲しい、と願ってる)
自分のためにセレドに来てくれることなどあり得ないから、アシャには足りない主でしかないのだから、と焦ってしまった。レアナを身代わりに押し立てて、自分の願いを口にしないまま叶えようとした、それをきっと見抜かれたのだ。自分は何一つ傷を負わずに、望みだけを満たそうとしている狡さを。
「私、アシャに……嫌われちゃったのかなあ……?」
今まで好かれてはいなくとも、嫌われてはいないだろうと思っていた。けれど、部屋を出て行く時のアシャの、冷ややかでそっけない物言いは、主どころか友人の価値さえないと思われたからではなかったのか。
答えを求めて探ったわけでもなかったが、掛けものの上を滑らせた手に柔らかな温もりが伝わった。ベッドの端、ちょうど人一人、そこに腰掛ければ、眠ってる病人を見守りやすいと思われる位置に、微かに熱が残っている。
「……ついててくれたんだ……」
そんなことはわかってる。
アシャは傷ついた仲間を放置しない。無茶ばかり繰り返すユーノでも、あれこれ言いつつ、ちゃんと回復まで面倒を見てくれる。それが医術師としてのアシャの在り方なのか、アシャ本来のものなのかと聞かれたら、迷わず後者だと答えるだろう。
「…ひょっとして…もう……看てもらえないかも…知れないなあ……じゃあ……ほんとに……怪我しないようにしなきゃ……迷惑…しか……かけなくなっちゃう…もの…」
呟く声が虚ろになるのを必死に保つ。
「…でも……そんなこと……できるかな……私……まだ……未熟…だし……」
小さな声が響き続ける。
死にたくない。
アシャの側に居たい。
もう少しだけでもいい、もう一回だけでもいい、前みたいに笑ってもらえて。
「……でも……しなくちゃ……いけないなあ……男だったら……もっと簡単だったかなあ…」
のろのろと膝を抱え込む。壊れたみたいに零れ続ける涙は、もう拭き取っても無駄だと諦め、抱えた膝に顎を載せる。
「弱くなったなあ…」
セレドに居る頃、よくしていた所作だった、と思い出す。傷みに疼く体を、悲鳴を上げそうな感覚を、必死に抱き込み封じ込める姿勢だ。
(アシャが居てくれたから)
一番弱い部分を晒していても大丈夫。
いつの間にか、そういう信頼を向けてしまっていた。
「……重かっただろうなあ………」
こんなにどしりと甘えられては大変だっただろう。それも愛らしい娘ならまだしも、憎まれ口をきき、窘めにも納まらず、何もわかってないくせに、何もかもわかわっているような顔をして飛び出していってしまう子ども一人、きっと扱いあぐねていたのだろう。
(気づいてなかった)
自分がこれほどアシャに重荷になっていたとは。
(どうしよう)
付き人として求めてしまったから、アシャはセレドまで送り届けてくれるだろう。舌打ちしつつ、うんざりしつつ、付き添われるのかと思うと身が竦んだ。
「……産まれたことが…間違いだったのかな…」
産まれ間違ったとは思っていた。男に産まれるはずだったのが、千に一つ、万に一つの手違いで、女の体に宿ったのだと。
けれど、本当は、ユーノが居ること自体が間違いだったのではないのか。
ユーノがいなければ、セレドはそれなりに平穏な国になったのではないか。
「……………っ」
ぶるっ、と強く首を振った。身をより屈めて膝に額を押し付ける。
「……しっかりしろ」
自分を叱咤する。
ぐずぐずと甘く濡れて崩れていくようなこの感覚が、何も生み出さないことをユーノは知っている。身を絞って泣く旅芸人の芝居のように、身動きしないことを正当化する自己憐憫。
「お前はユーノ・セレディスだぞ」
戦神の娘と呼ばれ、『星の剣士』(ニスフェル)と名付けられ、周辺諸国からセレドには第一皇子がいると言われたのを忘れたか。
「こんなところで…怯むんじゃない……っ」
ぐっと強く膝を抱く。きつく歯を食いしばる。
それでも震える肩が止まらない。
「…くそ…っ」
呼びかけた名前の代わりに、ユーノは激しく吐き捨てた。




