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「……うん」
(違う……違う……違ったんだ…)
胸の奥から広がってくる、この凍てついた風は何だろう。
脳裏に甦る深夜の草原、人一人存在しない虚空の煌めき、一人なのだと、どこまで行っても一人で堪えるしかない命なのだと、そう思いながら頬に涙したままで見上げ続けた。
「そうか」
く、と思わず嗤いが漏れた。
「そうだったな」
「アシャ?」
(お前が俺に心を委ねるわけがなかったな)
ゆっくり近寄って見下ろす、ユーノの包帯。
(一時の怒りに身を任せて、お前を危険に晒すような男に)
セールの叱責が甦る。
「どうしたの…?」
護ると言いつつ何度傷つけているのだろう、体も心も信頼も。
「…俺は、ただ」
言いかけて、深く重く長く、息を吐き出した。
「お前の……信頼を……失ったか…と」
ことばはこれほど操りにくかっただろうか。粘っこく糸を引き、唇から離れてくれない。
「そんなこと、あるわけない!」
ユーノがはっとしたように声を上げた。
「私があなたを信頼しないわけがない!」
(ああ、そうだろうな)
百年一気に歳を重ねるとこんな気分だろうか。
確かにユーノはアシャを信頼しているだろう。戦いの最中に背中を守らせるほどに。愛しい姉を、かけがえのない祖国を委ねるほどに。
「あなた以上に信頼している人は、いないよ」
「ああ…」
信頼は愛情と同義ではない。
それをアシャは嫌というほど知っている。
『氷のアシャ』は女性の心を奪うのに苦労したことなどない。相手の心情を図りかねたこともない。ましてや、こんな風に、自分はどこまで行っても愛情の対象外だなどと示されたことなどない。
そのツケが回ってきたとでも言うのだろうか。
たった一人、欲しい相手の心が得られない。
(愛して欲しかったんだ、俺は、お前に)
「そうだろうな」
もう一度、ゆっくりと静かに溜め息をついた。
「セレドのことは…後々考える……まずは、生き延びないとな」
「…うん!」
ぱっと顔を上げたユーノの表情の明るさに、苦しくて辛くて、それでも僅かでも、形は違うが望まれていると感じる自分のしつこさにうんざりして、アシャは無理矢理話題を変えた。
「傷の方はほとんど大丈夫なはずだ」
「…うん」
「そっちに服がある。『氷の双宮』からミダス公の屋敷へ行く道は知ってるな?」
「わかってる。……あなたはこれからどうするの?」
「……このまま『泥土』へ行く」
え、と顔を強張らせたユーノに、思わずそんな顔をするな、と言いたくなって別のことばを継ぐ。
「グードスを助けなきゃならんし、ちょっと気になることもある」
「ギヌアだね。ボクも行く!」
厳しい表情になってすぐさまベッドを滑り降りようとするユーノに、溜め息をつく。
「いや、いい」
「だって!」
何をやってくるかわかんない相手だし、そりゃボクが居てもそう助けにはならないかもしれないけれど、それでも手がある方がいいし。
独り言のように呟きながら慌てて身支度を整えようとするユーノを見ながら、アシャは泣きたくなった。
(欲しい)
欲しい。欲しい。こいつが欲しい。こいつの愛が、こいつの想いが、こいつの全てが、何もかも、汗から涙から爪の先まで全部欲しいのに。
(絶対与えられないとわかってる果実を口にも当てずに護り抜けと?)
「いいから、ユーノ」
ひんやりとした口調にユーノが動きを止めた。
「お前にはミダス公の方を頼みたい。この間のこともあるし、リディノやレス……レアナもいるしな」
レアナを強調したのは意図的だ。案の定、びくりと体を震わせたユーノは見る見る大人しくなった。
「あ、うん、そう、だよね、姉さま達がいるものね、うん、わかった、任せて、ボクなら大丈夫、絶対守り切ってみせるから!」
にっと不敵な笑みで見上げてくるユーノを見下ろす。
「ばか」
「え?」
肩の傷がかろうじて治っただけだ。あちこちまだまだ本調子ではない。万が一『運命』(リマイン)に攻め込まれでもしたら、きっと真っ先に体を張って守るだろう、血塗れになっても、数瞬後に死ぬと知っても。
次に無事に会えるとは限らない。
「どうせ汚い男だしな」
「え……っぁ」
襲い掛かった。影のように、悪夢のように、一瞬に忍び寄って自由を奪い、驚いた顔の細い顎を掴み、開いた唇を蹂躙する。
「っんっっ!」
大きく震えたユーノの体が伝えてくる、こんなキスは知らないと。茫洋と霞む目を必死に見開く、その目の中に信頼を粉々にしている自分が映っている。貪り続ける、この先どこまで自分は正気でいるのだろうと、その不安を押し込めて。
(怖い)
感じたことのない、この身の竦むような感覚。
(今度こそ全部失うんだろうな)
自嘲を込めて考えたとたん、必死に抜き出されたユーノの手が大きく振られ、同時に引き上げられた足に蹴られる。
ばしっっ!!
「アシャのばかっっ!!」
頬に弾けた痛みと激情に吐き出された罵倒を快く聞いた。
「何するんだっ!」
「…それぐらい元気があれば大丈夫だな」
にやりと嗤って体勢を立て直す。耳まで真っ赤になって口元を拳で覆っているユーノが、可愛くて愛しくて、けれどもう二度と手には入らないのだと真っ黒な絶望に微笑む。
「悪かった」
笑みながら謝罪しても意味がない。そう思いながら、くるりと背中を向ける。
「安心しろ。もう襲わんさ、二度と」
何度同じことばを誓うのか。
道化て肩を上げて見せて歩み去る。熱っぽく責める気配に、そのまま背中を預けて詰られていたい甘さを味わいながら、表情を消す。
向かう先は『泥土』。
(戻らなくても、いいか)
大事な女の目の前で、他の女と暮らし子を成し老いていくぐらいなら、あの廃墟の草原と何が違う。
(幻でいいか)
所詮、世界の礎となる道具に過ぎぬ命だったのだから。
アシャは冷ややかに嗤った。




