5
「ふぅ…」
「っ」
『氷の双宮』の一室、真っ白に洗い立てられたシーツの上で、ユーノが小さく息を吐いた。ぎくりとして振り返り、相手がまだ昏々と眠っているのを確かめ、アシャは微かに溜め息をつく。
「…」
眺めていた『狩人の山』(オムニド)から目を逸らせ、ゆっくりとユーノが眠るベッドに近寄る。ためらった後、そっとその端に腰を降ろした。
「……ユーノ…」
低く呼びかける。だが、相手は未だ目覚める気配はない。
沈んだベッドにことりとユーノの頭が動いた。こちらを振り向く顔、血色は随分ましになったが、顎の下、左肩の包帯の中の傷には新たなものが加わっている。
「………」
アシャは小さく唇を噛んだ。
今回は、包帯を巻いていたのが幸いした。『穴の老人』(ディスティヤト)に引っ張られ,突然自らを襲った剣に、本能なのかとっさにユーノが手を放したおかげで、切っ先は滑って包帯を撫でる形になっていた。触れたものを悉く裂く剣は包帯を切り散らしながら肌まで食い込み、薄皮を削ぎ切りながら血を撒いていた。その奥の太い血管まで達しなかったのは、まさに僥倖だったと言える。
『氷の双宮』の水槽で二日、傷に上皮が張ったのを確認して一昨日ようやくベッドに移し、それから未だユーノは全ての機能を回復に注いでいるように眠り続けている。
「ユーノ…」
また痩せた。
水槽で十分に栄養を注いだはずなのに、また首筋が細くなり、肩が華奢になり、胸も薄くなってしまった。
それでも若さ故だろう、瑞々しく張りつめた肌は少しずつ艶やかな輝きを取り戻し、うなじの滑らかな線も、薄い耳朶の淡い色も、尖り気味の顎へ続く柔らかな頬の産毛も、言うまでもなく微かに開いて吐息を紡ぐふっくらとした唇も、全てがアシャの衝動を誘う。
「…」
唇を開いて首筋に寄せる。微かな熱に胸が轟く。
含みたい。辿りたい。この舌先で煽ってやりたい。声を聞きたい、甘く喘ぐ掠れ声を、受け入れることを堪えながら呼ぶ自分の名前を、呼吸に紛れて消えてしまう小さな悲鳴を。
アシャは薄く目を開いてユーノを見つめる。
疼く熱は体の奥で問い続けている。
「本当なのか…?」
(お前が、俺を、求めていると)
「都合のいい妄想か…?」
問いにユーノは応えない。
眠る呼吸は静かで穏やかで、自分の上にのしかかる餓えた存在に気づかない。
セールが嘘を言うとは思えない、あの状況であの声で。
(ならば、なぜいつも)
「いつも俺の手を払う…? 擦り抜ける…?」
拒んでいるはずではなかったのか。逃げているのではなかったのか。
男女としての交わりではなく、親しい友人として付き合い続ける、その一線を踏み越えてくれるなと、そう願われていたのではなかったのか。
イルファならば言うだろう、嫌がってみせるのは女の性なのだ、と。
『抱き寄せてみて、殴られたら潔く謝ればいいだけのことだろう』
だがアシャはためらう。
『泉の狩人』(オーミノ)との約束を破り、敵に回すのが怖いのではない。それが示した一つの可能性、ユーノには既に想う相手が居て、その相手にのみ貞節を尽くすと決めている、その心情を踏みにじっていくぞという警告が恐ろしい。
今はユーノは眠ってくれている。アシャが側に居ることを容認している、無意識のうちに。
思い出す、セレドの夜、気配一つでアシャを敵と認識して刃を向けた、あの瞳。
そしてまた、ユーノが今示している信頼を裏切った時に彼女が見せた拒否も、アシャの胸には苦しく痛い記憶となって残っている。
(『あの時』お前は俺の手を叩き落とした。触れられるのさえ嫌だと言うように)
ユーノの傷をレアナに見せた、その後しばらく、アシャはユーノに避け続けられていた。予想はしていたが、喪失感がひどすぎて、何とかようやく会話を交わしてみても距離を置かれてそっけなく、耐え切れずに伸ばした手をユーノは見事に拒んでみせた。
(…あんなことは今までなかった)
ユーノから頼られることはなくとも、伸ばした手をあそこまではっきりと拒まれたことなどなかったのに。
失ったのだ、と初めて気づいた。
アシャはユーノを失ってしまった。
拒否は予想していた、嫌われるかも知れないとも思っていた、それだけのことはしている自覚は十分あった。
考えもしていなかったのは、自分がそれに対してどれほど無防備だったのかということだ。
アシャは動揺した。動揺する自分にうろたえた。
ユーノからの拒否が怖い。振り向かれない背中が辛い。微笑み一つ手に入らないのに凍りつく。
たったあれだけのことで、あそこまで拒まれるのなら、もし他に想い人がいるユーノを抱いてしまったら、きっとアシャは自分の意味さえ失ってしまう。
(馬鹿な)
竦む自分を何度も嘲笑った。『氷のアシャ』だぞ、宮廷の美姫、諸国の令嬢、着飾った娘達が我先に微笑みを送ってくる、それと『この娘』を引き換えに?
(どこまでも、馬鹿な)
「…それとも…馬鹿になったのかな、俺は」
呟きが甘い。
目を閉じる。
それほど思い詰めた胸に、二度と想いを告げぬと決心した気持ちに、セールのことばは嵐のように襲い掛かってくる。
(『俺』を求めている…? どういう存在として? 付き人か? 友人か? 兄か? それとも)
旅の空に不安を慰めるただの男として、とか?
(……馬鹿な)
思わず綻んだ自分の顔に嗤う。
(それでも、いいだなんて思ってるんだな)
薄く目を開け、白く光るユーノの額にそっと唇を降ろした。
「…俺を…呼んでくれ」
額に唇を触れて囁く。くすぐったいのだろう、ん、と軽くユーノが鼻声で唸って体をよじる。
「俺を呼べ」
どんな形であろうと構わない。求められるなら、その望まれた形のままに応えよう。付き人ならば最終最後の盾となるように。友人ならば逆境に踏みとどまるように。兄なら嫁ぐのを見守るように。ただの男なら。
「俺を」
吐息でアシャ、と一声求めてくれれば、望むだけの快楽を与えよう、幾度も、繰り返し、満たされ、溢れ、意識を手放すその先まで。
柔らかな温かな匂い、獣のように笑みながら首筋に牙を落とす、その全てを啜るために口を開いた、その瞬間。
「…ん…」
ユーノが目覚めたのがわかった。はっとして顔を上げる、その視線をまっすぐに受け止めて、眠たげに開かれた黒い瞳が二度三度瞬く。
「……アシャ……?」
「……………ああ」
声はアシャを呼んでいなかった。側に来て、と言われたのではなく、そこに居るな、と確認された。一瞬胸に荒れた突風に顔をしかめ、アシャは頷き、体を起こす。
そうだ、約束した、お前の望むままに、求められる形でいようと。
「…俺だ」
『それ』は自分の望む形とは違っているのだ、と、また、遅まきながら自覚した。
「…私……ここは……」
ゆっくりとユーノは視線を動かす。苦しい胸に唇を噛むアシャには気づかぬ顔で。そして、次の瞬間、跳ね起きた。
「あ、つっっ」
胸から左肩にかけて巻かれた包帯を押さえ、顔を歪めながら見上げてくる。
「セールはっ」
「…」
アシャの顔を凝視して、ユーノは目を見開いた。
「……死んだ……のか」
「……ああ」
アシャの同意に見る見る青ざめ、俯く。ばさりと流れた髪の下、悔しそうに噛む唇と震える肩に切ない想いが湧き上がった。
「私の……せいだ……セール…」
掠れた声が続くのにアシャは顔を歪めて目を逸らせる。
(そんなにも、大切そうに、呼ばれるなら)
オレガシネバヨカッタ。
アシャの耳の奥底で、幼い声が小さく弾ける。




