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「きゃ…あ……ああ……あ……!!」
洞窟の角を曲がった途端、3度、悲鳴が切れ切れにアシャとユーノを呼んだ。
「っ!」
飛び込んだ視界にユーノが息を呑む。
壁に取り付けられた松明が少ない空気に燻っている。妖しく蠢く光の中、1人の少年がこけつまろびつ逃げ惑っている。細い手足、13、4歳と見える幼い、けれども整った顔立ちは恐怖に強張り、乱れた淡色の髪の下の瞳は、どこかに救いの手がやってこないかと必死にあちらこちらを探している。着ている青色のチュニックは引き裂かれ、剥き出しになった四肢にも体にも無数の擦り傷があり、薄赤く血が滲み汚れている。
その背後からじわじわと迫っているのは、言わずと知れた『穴の老人』(ディスティヤト)、汚れた飾りのように棒ぐいの体に巻き付けた茶色や黒のマントは、夢の中でのし歩く樹々の化物に着せた方がまだ様になろうという代物、全部で5体、そのどれもがぬめぬめと赤黒い根をくねらせ広げ、今にも囲い込もうとするように少年を追い回している。
「た…すっ」
ひいひいと声を掠れさせて涙に溢れた淡青の瞳は絶望に暗い。幾度となく食いしばったのか血の滲んだ唇を開いて、空気を貪りながら手前の岩の間を駆け抜けようとする。と、突然ひゅるっと不気味な、どこか啜り上げるような音を上げて背後から根が伸び、少年の細い足首に容赦なく巻き付き引き倒した。
「ひっ…あぅっ!!」
激しく叩きつけられた少年は傷みに身を縮こまらせる。その小さな姿めがけて、ここぞとばかりに数本の根が次々と伸びる。
「ちっ!」「ユーノっ!」
止める暇なぞなかった。ユーノが一気に飛び出していく。たった1人、それも未分化の『穴の老人』(ディスティヤト)相手にあれほど手こずったばかりだというのに。一陣の涼風のように、ためらう気配さえなく少年と『穴の老人』(ディスティヤト)の間に割って入る。抜く手も見せずに閃かせた剣の光条がたちまち始めの1本の根を断ったものの、その後はわらわらと飛んでくる根に対し切れず、少年を我が身で守るように覆いかぶさる。
「…馬鹿!」
アシャも岩を蹴った。目の前で、少年を覆ったユーノの背中を、飛んで来た根の1本が距離を誤ったのかあえての攻撃なのか、ぴしりと音を立てて打ち据える。
「くぅっ!」
次々と飛びかかってくる根に、もう片方の手で少年を抱え込んで、ユーノはごつごつした固い岩場の隙間に転がり落ちた。少年はしがみつきながらも、恐ろしさに半分気を失っているような様子、ユーノに半端に絡ませた手足が彼女の自由を奪ってしまい、それ以上逃げられそうにない。
「くそおっ!」「無茶するな、と言わなかったか!」
悔しげに吠えたユーノの前、彼女らに一気に向かった根と2人の間に滑り込み、アシャは根を弾いた。間近に迫った数本を切り落とす。
「こっちへ来い! 細切れにしてやる!」
派手な叫びはもちろんこちらへ『穴の老人』(ディスティヤト)の注意を向けさせるため、一瞬動きを止めた敵を油断なく見据えるアシャの背中で、ユーノが少年に尋ねている声が聞こえる。
「大丈夫? 名前は?」
「い……イリオール…」
「わかった。じゃ、イリオール、ちょっとこの隙間に入ってて? いいね?」
「う…うん…」
「ほらほらそっちに気を取られると、やられるぞ!」
か細い声が応じたのが合図ででもあったように、一斉に背後へ向けて根を伸ばした『穴の老人』(ディスティヤト)に、アシャは前へ踏み込みながら斬り掛かる。視界の端に必ず5体を捉えるようにしているが、洞窟は中途半端に広い、背後に回られてしまえば進退窮まる。伸ばされた数本をたちまち切り飛ばし、正面の『穴の老人』(ディスティヤト)の動きを止め、すぐに右の1体の根を弾く。左からかかる2体、右奥から1体が飛びかかってこようとしているのを視野に入れたまま、息を吸った途端、隣に駆け寄ってきたユーノが距離を詰めて左の2体と交戦に入った。
「アシャ!」「後ろに行ってろ!」「1人で殺れっこないよ!」「怪我人なんざ、足手まといだ!」
言い放ったのは冗談でもなんでもなく、『穴の老人』(ディスティヤト)5体はアシャでも同時に仕留めきれるかどうか、動きが落ちているユーノを標的にしてくるのは想定内にしても、ユーノを囮にするほど非道なつもりがないアシャにとって、条件は不利に傾く。
(早々に決着をつける!)
「っ!」
だが、通常ならばそれぞれ好き勝手に攻撃を仕掛けてくるはずの『穴の老人』(ディスティヤト)は、戦法を変えていた。目の前のアシャだけではない、ユーノも追いかけて来た少年ももろとも全て片付けようとでも考えているように、互いに連係し合っている。右側からの2体が互いを盾にするように交互に動きながら攻撃を仕掛けてくるのを防ぐ間に、ユーノが応戦していない左の1体に背中に回られたのが見えた。剣が間に合わない、左手1本くれてやる羽目になるかと思った瞬間、ユーノの剣が走って根を防ぐ。ぼとぼとと音をたてて転がる根を蹴り飛ばして駆け寄ってきたユーノが、ぴたりと背中に背中を合わせてくるのを感じた。
「怪我人に……助けられてちゃ世話ないよなあ…っ?」
「ちっ」
微かに乱れた呼吸で皮肉られても、悔しいが舌を巻かざるを得ない。
(よくまあ、あんな体で)
ユーノの回復度はよくわかっている。こんな連日の戦闘に耐えられるほど治っていないことも。けれども、背中に寄せられた小柄な体からは、溢れ出すような覇気が広がってきた。一歩も退かない、ここを凌ぎ切る、そういう気概に満ちた気配が、どれほど味方を力づけるのか、不利な戦いにおいてどれほど心を鼓舞してくれるのか、アシャは今初めて感じた気がする。
(お前は)
繰り返し襲い掛かる根の攻撃を防ぎながら、アシャは無意識に唇を綻ばせる。背中を預けられる安堵など、今まで感じた相手などほとんどいない。
(人を立ち上がらせる)
昏迷の闇から。逡巡の海から。もうとても辿れないと思った道を見つけさせ、二度と叶わないと思い知った夢に可能性を吹き込んでくる。
(だから俺は)
だから、俺でも、もう一度歩けるかも知れないと。
(人、として)




