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誰何の声とともに、老人はゆっくりと顔だけを振り返らせた。
中身がごっそりと抜け落ちたような弱々しい影の気配から老人だと判じたのだが、肩をやや過ぎる長さの灰色の髪が揺れ、乾いて皺が寄った、どこか諦め切った静かな横顔が見えた。こちらの姿を認めたのだろう、相手の灰色の片目が少し大きく見開かれる。意外な人物を見たと言いたげな表情、だが、驚きはやがて不審へと移る。
(この顔には見覚えがある)
訝しげに細められた目に、ユーノは眉を潜めた。濃い灰色の蓬髪、疲れ切った瞳に満ちる倦怠感、それらの底にある何かをかつて見たことがある。
ユーノの疑問はアシャの呼びかけで氷解した。
「アギャン公」
「!」
はっとしてもう一度、老人を見つめ直す。横顔だけだが、確かに見れば見るほど、その顔立ちといい表情といい、アギャン公が一子、グードスはこの老人にそっくりだ。
(この人がアギャン公…)
四大公の1人でありながら、公然とラズーンを裏切っているかも知れない男。
「これは、これは」
穏やかに呟きながら、アギャン公は振り返ったと同じ緩慢な動きで元通りに向こうを向く。物憂い声が続いた。
「珍しい御方が来られたものだ」
その声からあっという間に興味と意欲が薄れていく。
「ラズーン支配下においでの貴君が、なぜラズーンに舞い戻られているのやら」
訝る形はとっているが、ことばは空疎、己が発している意味さえわかっていないのかも知れない。
「…ラズーン支配下の各地でラズーンの揺動を耳にした」
アシャが応じた。
「何か知っていることはあるか」
支配者の威圧を響かせる。
「いよいよ二百年祭も終わりに近づくということですな。それも良かろう、滅びは既に用意されていた」
「あなたは!」
相変わらず他人事のような、我関せずの口調にユーノは思わず口を挟む。
「そんな時に、こんなところで何をされているのですか!」
洞窟は静まり返っており、よく言えば平穏、悪く言えば閉塞、ここに籠っていれば世界がどうなろうとも傷みも哀しみも感じなくて済むだろう。
「儂はもう、統治から身を退いている。分領地は息子が無事に治めておる」
淡々とした声はユーノの激情にも揺らがない。
「儂はラズーンの未来に何も期待せぬ。何も望まぬ。余生を静かに終えることができれば、それ以上の願いを持たぬ……時にアシャ殿、その血気にはやった少年は何者ですかな」
「この子は」「アギャン公!」
自分を紹介しようとしたアシャを遮って、ユーノは叫んだ。
「では、ラズーンが滅びてもいいと?! 多くの人々が『運命』の犠牲になってもいいと?!」
背筋から寒気が駆け上がったのは、アギャン公のことばの本質を悟ったからだ。
自分はこの洞窟で心静かに暮らしている。そこには傷ついて俯く者も、恐怖に怯えながら死ぬ者も、泣きながら生きたいと足掻く者も存在しない。
だから、『そのようなものは存在しない』。
「違う!」
蕩け崩れて一片の腐肉となり土に染み込んでいくだけの死。『運命』に狙われ滅びていった形骸の街。平原のただ中に、村の片隅に、岩陰の前に、材木のように積み上げられた屍。
「彼らは、生きてた!」
レスファートぐらいの子どもが居たはずだ。リディノのような少女が居たはずだ。イルファのように剣で生き抜いた勇士も、アシャのように旅から旅を楽しむ詩人も居たはずだ。自分が必死に愛し護ってきた家族が、炎の中で灼き尽くされていくのを、惨いから酷いから見たくないからと目を覆って逃げ出す背中に叫ばずにおられるのか。
「皆、明日を待っていた!」
無数の人生が、無数の願いが、無数の祈りが、あの屍の先にはあったはずだ。
だが、一瞬にして断ち切られた、その理由さえわからぬままに。
(それも、たった1人の男の、世界を手に納めたいという、そんな馬鹿馬鹿しい願いのために)
その男でさえいつか死ぬのだ。
「死はいつも来る。どんな死でも死にかわりはない」
アギャン公は無感動な声で応じた。
「世の始めから、終わりは定められていた。終わらぬものなどない。始めがある以上、終わりは儂達を待ち続けている………それは、年若いそなたとて同じこと」
(そんなことはわかってる!)
ぐ、と噛み締めた口の中でユーノは叫ぶ。
ユーノにとって、死はいつも真隣に居る。その冷たい吐息を感じずに眠った夜などない。その固い指先に触れられずに目覚めたことなどない。若さなど関係がない。それは振り下ろされる剣の切っ先に、いつ果てるとも知れぬ執拗な刺客の影に、夜じゅう続く傷の痛みに、真紅に染まる布の生暖かさにいつも宿っていて、ユーノの命を脅かし続けてきた。
「ボクは、嫌だ」
冷えた声で吐き捨てた。治り切らぬ左肩が鈍い重さを胸へ背中へと広げていく。それは『死の女神』(イラークトル)が容赦ない掌で自分の躯を掴むが如く、けれど、怯むまいと唇を噛む。
「たとえ待っているのが、ただの『終わり』でしかないとしても、ボクの命はボクが選び取る」
巨大な運命の奔流を泳ぎ切れず流されていくとしても、流れの中でしっかり目を見開いて行く末を見続けていたい。自分に何が起こり、何を失い、何を得ようとしているのか、一瞬一瞬を受け止め続けたい。
(たとえ、この体が荒れ地に沈むとわかっていても)
傲然と風に胸を張る、全て自分の背中に負うと叫ぶ、それこそ誇りというものではないか。
「若いな」
アギャン公は静かに切り捨てた。
「それは、そなたの若さが言わせること……一人前の大人でもないが、世の虚しさを全く知らぬわけでもなかろう。報われぬ想いを味わったこともあろうて」
「っ」
(報われない、想い)
思わず体が強張った。




