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『運命』の王となったのは間違っていなかった。
迎え入れられ求められ、ギヌアは充足を感じた。揺らぐラズーンを、荒れる世界を蹂躙し、ついには全てを掌中にできるのも遠くはあるまい、そうほくそえんだ矢先。
またもや立ち塞がった、一つの影。
アシャ・ラズーン。
勝利を目前に、忘れ去っていた恥辱を、記憶の底から引きずり出す、その名前。
ギヌアの夢を砕き、希望を奪い、闇の王にまで追い込んだ男。
守りが薄れた瞬間を狙った。関わった者を庇う相手に、容赦ない一撃を不意打ち同然に叩きつけた。
だが、殺せなかった。諸国へ逃がしてしまった。二度と会わぬとそれが悔しかった。手足の一本一本に腹立ちを恨みを、刻みつけ突きつけ思い知らせてやりたかった。
アシャは馬鹿ではない。今では『運命』を手足の如く使うギヌアに、たった一人では立ち向かえぬとわかっているはずだ。だから逃げ去り、だから捜し出せなくなるだろう、そう思っていた。
しかし。
アシャは再びギヌアの前に現れた。以前とは違う覇気、しかも、今度ははっきりとギヌアの敵の立場となって。
溶け合わぬと言った、永遠に平行線だとも言った、それでもギヌアは誘ってみたのだ、こちらに来い、と。
キャサランを滅して気分が高揚していた。いずれ『運命』が制圧した世界には、きっと人手が必要となる。ギヌアと同等か、勝らずとも劣らぬ器量の者が。『運命』達に配下としての任を与えるつもりはなかった。彼らは単によく動く手足、天高く駆け上がるための踏み台でしかないのだから。
アシャは愚かではない。アシャは鈍くはない。アシャは……鋭く、美しい。
ギヌアの側に侍る資格は十二分にあるだろう。跪くなら考えてやろう、憐れみを請うなら裳裾ぐらい触れさせてやろう、どうしてもと言うのなら、夜伽を命じてもやろう、散々に待たせて不安に怯えた後に。
だが、アシャは、誘いを一蹴した、ギヌアを汚らわしいもののように見下して。
(許すものか、アシャ・ラズーン)
胸に降り積もるのは憎しみだけだ。
(許すものか)
おそらくは、あの少年の日から、アシャはギヌアの敵だったのだ。どれほど話し合い向き合おうとも、どうしても噛み合わぬ一線がある、それこそが宿命が定めた敵の証だったのだ。
ならば屠るだけだ、一番残酷な痛みを与えつつ。
(お前には枷がある)
ギヌアは薄笑いする。出逢うたびに、うまく擦り抜けごまかしてはいるが、その眼が、その手が、その体全体が気遣い守ろうとする、愛しい者が。
(ユーノという、重い枷が)
笑みは顔中に広がっていく。
それだけは随分と愚かなことに、アシャはギヌアに告白してくれている、あのユーノという娘が己の命よりも大事なのだと。ならば、そこを責めずにどこを狙うというのか。
(苦しませてやるぞ、あの娘だけを狙い続けてやる、お前には指一本触れずに、な)
喉の奥で低く嗤った。アシャの驚愕と衝撃を思うと、心がこれほど豊かになる。
(あの娘を傷めつけてやる。ずたずたにしてやる。身も世もあらぬ苦しみを味あわせて責め立て、屠ってやる、お前の目の前で)
その時のアシャの顔を見るのは、貫くよりも快感かも知れない。
(お前のせいで、あの娘は死ぬのだ。それをどう耐える?)
最愛の娘の死が、他ならぬ自分のせいだと思い知らせて後、アシャを葬り去ってやろう、永遠の夜の中に。
(それとも牢獄に繋いで放置しておくか)
己の罪業に悔いながら、死ぬこともできない日々を生き延びるのは地獄だろう。
「ふ…ふふ…っ」
ふと、寝所の隅に影が動いた。
「何だ」
「……ユーノ・セレディスの居場所」
影は囁いた。
「突き止めましてございます」
「うむ、どこだ」
「お喜びを。『穴の老人』(ディスティヤト)のところに」
「ほう…そうか」
ギヌアはにまりと不気味な笑みを広げた。
『狩人の山』(オムニド)でアシャを葬るのに失敗してから、無駄に日々を過ごしていたのではない。『泉の狩人』(オーミノ)がラズーン側についたのは手痛かったが、『運命』の情報で『穴の老人』(ディスティヤト)の生き残りがいるのを確かめ、逸早く味方に引き入れることができたことで、多少は利を取り戻せたはずだ。
「それに、アシャもそこにおります」
「ユーノとともに、か」
「は」
「面白い」
ギヌアは手早く深い紺の衣を羽織った。腰に黒い帯を締め、細身の剣を吊る。足元まで垂れた衣の裾を乱すことなく、するすると移動しながら問いかける。
「アギャンはどうした」
「グードスは『泥土』に……公はそのまま……カルキュイが即位いたします」
「よし、次はジーフォ公を狙え」
くつくつ嗤いながら、扉を開ける。
「どんな人間でも、魔を持つものだ」
「心得ております……ユーノの方は如何致しましょう」
「考えがある。来い」
「はっ」
影を従え、ギヌアが出ていくのを、イリオールはベッドに放り出されたまま、虚ろな顔の奥底からじっと見つめていた。
(ユーノ・セレディス?)
アシャの名も、アギャンのグードス、カルキュイの名も聞いてはいる。だが、ユーノ・セレディスの名前は聞き慣れない。
(その人のことを……お考えになっていたのですか、ギヌア様)
心で追うように問いかけても、答えが返ってくるわけでもない。
(あなたはいつも、僕をご覧にはならない……誰なのだろう……ユーノ……セレディス…)
イリオールはギヌアに拾われたり略奪されたりしたのではない。『運命』(リマイン)支配下からギヌアへ、差し出された『貢ぎ物の一つ』で、元々は孤児、父母の顔は物心ついた時から見たことがない。
だから、人の肌の温かみも、イリオールが知っているのはギヌアのものだけだ。
そのたった一人の近しいギヌアが、イリオールを相手にしながら、他の何かにずっと気を取られているのに気づいたのは、いつからだっただろう。違和感に問えば、容赦なく責め立てられる、そうと知っても、より温もりを求める気持ちは押さえ切れなかった。
けれど、そういう時のギヌアは容赦がないだけではなく残酷で冷たく、イリオールの苦痛など顧みない。懇願どころか、イリオールの姿さえも視界に入っていないような振舞いで、結局はいつも、空っぽになってしまう自分だけがイリオールに残される。
(ギヌア様…)
それでも、イリオールにとって、ギヌアは唯一の拠り所だ。
アシャなら許せる、至上の美の持ち主だと聞く。グードスなら許せる、踏みしだかれる野辺の一草、すぐに忘れさられよう。カルキュイなら許せる、ギヌアの忠実な道具だから。
だが。
(ユーノ・セレディス)
ギヌアの気持ちが強く動いているのを感じる。憎悪と人は感じるかも知れない。だが、憎悪は時に、絶対に手に入らない愛おしい者にも向けられるのだ。
(一体どんな人間……?)
のろのろと体を起こしたイリオールは疼く痛みを堪えながら、小さく唇を噛み、見知らぬ相手を闇に見据えた。




