4
「アシャ」
「……ギヌア…?」
書庫でいつものように古書を繰っていたアシャは、放られた練習用の剣を空中で受け止めた。ぱしっと掌を鳴らして納まった剣に、訝しげな顔をする。
「相手をしろ」
「…唐突だな?」
柔らかな問いに応じないまま、さっさと外へと向かう。
折しも、照り輝く真昼の陽光の中、目を開けていることさえ苦痛なほどの上天気だ。
「はっ」「いやぁっ!」
アシャに撃ち込む、寸分の隙も作らず一瞬の呼吸も整えさせず。
「ふ、」「はああっ!!」
ギンッッ、と耳障りな音が響き渡って、アシャの手からいつものように剣が跳ね飛ばされた。
「ほら、何度やっても同じだよ、やっぱり君の方が……ギヌアっ?!」
「くっ!」
苦笑しながら近寄ってきたアシャを、ギヌアはなおも襲った。渾身の力を込めて抜き放った真剣は、ぎらぎらと殺気立った光に輝きながらアシャの首に吸い込まれていく。とっさに跳ね飛び、ぎりぎりで一撃を躱したアシャは、続いたギヌアの攻撃に不審げな表情を崩さないまま、二度三度、巧みにとんぼを切って、なおも紙一重の差で逃げていく。
「うぬッ!」「んっ」
ほんの僅かな隙も見逃さずに打つ手を止めぬギヌアに、さしものアシャもこれが遊びで済みそうにないとわかったのだろう。深く突き込んだギヌアの剣を、ふいに遥かに軽々と躱して飛び上がり、ギヌアが次の一歩を踏み込む間合いより、もう少し外に降り立った。
「ギヌア?」
小首を傾げて問いかける仕草は、これまで同様、いやこれまで異常に優しい。だが、その瞳の色がふいに得体の知れぬ、底なし沼のように光を消した。殺気ではない、敵意でもない。ひどく不思議そうにさえ見えるその瞳には、一切の感情がない。
『お前は誰だ?』
その目はそう問うている。いや、もっとはっきりと、
『お前は敵か?』
口に出せば無邪気にさえ聞こえるだろう、その問いを感じ取って、ぞわりとギヌアの背筋の毛が一気に立ち上がった。
(この眼か!)
アシャに敵対した者が見た恐怖は。
味方だと言い逃れることはできない、もうアシャに剣を向けているのだから。
敵だと言い切ることはできない、次に襲ってくる刃に散り散りになる自分が視える。
膝が砕け、腰が落ち、背骨が抜かれる。もうだめだ、と本能が双手を上げる。
だがしかし、ギヌアは歯を食いしばって衝撃に耐え、なおも剣を振りかぶって打ちかかった。打ち込む前に虚しいとわかっている攻撃だった。辿り着くぎりぎりまで動かなくとも、こちらの勢いに弾かれた蝶のようにふわりとアシャが飛ぶ。なのに、
「ぐうっ!!」
飛び離れたアシャの体から伸びた脚が、ギヌアの腹を蹴り抜き、剣を握った右手を強襲した。
「がっ!」
離れていくのにこの威力、右脇腹と右手の骨が確実にぐしゃりと音をたてて凹む。激痛が走った体が理解する、距離を詰められたら終わりだ、と。痺れた手が剣を取り落とす、脇腹の痛みに前のめりになる、それでも必死に背後へ体を逃がしたはずなのに、遅かった。
「…」
崩れたギヌアに瞬時の緩みも見せなかった。アシャの体がすっと沈んだかと思うと、取り落としたギヌアの剣を拾うか拾わぬかでするすると懐に滑り込んでくる。
時が止まっているようだ、ただしギヌアの時だけが。凍って動かない世界の中で、アシャだけが滑らかにしなやかに動き続けて、首に伸びた指が絡みつく、それさえも他人事のようによく見えた。
「!!!」
叫んだのだろうと思う。締め上げられた喉が血を滞らせて、放った声は自分の耳に届かなかった。胸元に剣を突きつけられ地面に仰向けに倒される。両脚はアシャに払われたまま、一気に絡められて押さえつけられた。自由な手が一本あったはずだが、体の下に引き込まれ、ぐっとアシャが脚を突っ張りギヌアの体を下へずらせると、引き込まれた腕が捻り上げられ、喉がなおもきつく閉まり、視界が暗くなった。
「どういうことだ」
耳鳴りのする頭に、アシャの声が穏やかに届いた。呼吸は乱れもしていない。覗き込んでくる瞳は相変わらず冷え、何の感情も読み取れない。
「ギヌア・ラズーン」
名前を呼ばれて気づく、その素っ気なさに。
ああ、そうか。
こいつは、アシャは、『ラズーン』さえも『敵』だと判断したら屠る気なのだ。自分の祖国、自分が引き継ぐ国さえも、自分の行く手を遮ると感じたならば、容赦なく滅ぼし捨て去っていく。
だからこそ『太皇』は断じたのだ、アシャ以外にこの国は受け継げないと。アシャが受け継ぐものならば、『ラズーン』は存続出来る。だが、アシャが受け継がないと決めたなら、いずれは『ラズーン』を滅ぼすに違いない。この大地も人も変わってしまうのだろう、同じ場所と同じ存在でありながら、今ある『ラズーン』とは別のものに。
アシャより後に選ばれた正統後継者は、すなわち人柱だ。アシャが『ラズーン』を離れて後に再び戻ってきた時に、破壊者となった彼を迎えるための人の盾、形ばかりの王国の顔。誰がいようと、何人いようと、意味を為さない。
アシャこそは、災厄。
この世界に生まれ落ちた巨大な闇。
それを制御できるのは、おそらく『太皇』と『泉の狩人』(オーミノ)のみだろう。
「ギヌア?」
喉が緩められた。詩人達に花弁のようなと歌われた唇が皮肉な笑みを作る。瞳は紫色のはずだが、今陽射しを受けてきらきらと輝き、なのに底には息を呑むほどの漆黒があり、魅入られる、命の瀬戸際、至上の美に魂を削られる。
「答えてもらおうか」
これを魔性と呼ばずに、何と呼ぶ。
「…これ…まで……手加減……して……いたのか…」
掠れた声を漏らした。
「む?」
アシャがひょい、と眉を上げた。
ふいに『人』の顔が舞い戻った。
「何だ」
無邪気に笑って体を起こす。じりじりと離された喉はゆっくりと呼吸を促し、咳き込むこともなくギヌアは安らかに自分の感覚を取り戻す。
全ては、アシャの掌の中、制御され与えられた、我が命。
ソンナコトまで、できるのか。
なのに、これまでただの一度も、見せなかったのか。
「手の込んだ練習だな」
起きろよ、と手を差し出してくるアシャの明るい瞳を、ギヌアはただただ呆然と見返すことしかできなかった。




